テレビをつけると、新潟の地震の報道が流れている。
いつも思うのだけれど、災害時の報道って、あれでいいのだろうか。
何年か前に福岡に帰省しているときに地震に遭ったとき、
テレビで繰り返し繰り返し流される地震直後の映像や、インタビューなどを見ること自体が、耐え難い痛みをともなう経験だったことを思い出す。
地震後、あっという間に「西方沖地震」という名前がつけられ、原因の「説明」がされているのを見ることも、苦痛だった。
同時に、いままで自分がさまざまな出来事に対して、いかに「他人事」だと思って暮らしてきたのかを痛感させられた。
余震の只中にいたり、大切な人の安否を気遣うひとにとっては、報道自体が第二の暴力となることだってあるのではないかと思う。
いつも思うのだけれど、災害時の報道って、あれでいいのだろうか。
何年か前に福岡に帰省しているときに地震に遭ったとき、
テレビで繰り返し繰り返し流される地震直後の映像や、インタビューなどを見ること自体が、耐え難い痛みをともなう経験だったことを思い出す。
地震後、あっという間に「西方沖地震」という名前がつけられ、原因の「説明」がされているのを見ることも、苦痛だった。
同時に、いままで自分がさまざまな出来事に対して、いかに「他人事」だと思って暮らしてきたのかを痛感させられた。
余震の只中にいたり、大切な人の安否を気遣うひとにとっては、報道自体が第二の暴力となることだってあるのではないかと思う。