にわとりのにわ a hen's little garden

歌うたい時々クラリネット吹きの日高由貴のblog。
ちいさなこころのにわの風景をすこしずつ書きとめていきたいです。

ことばが劈かれるとき

2013年10月28日 | 日々のこと
昨日は、朗読の勉強会を見学させていただきました。

声ひとつで、人物の距離感を表現したり、風景を浮き上がらせたり、流れてくる音を表現したりする、難しさと面白さ。

ほんとうに声の世界は奥深いなとあらためて感じました。

歌には旋律がある分、別の要素も加わってきますが、朗読は徹底的に言葉による表現であるがゆえに、声だけが浮き彫りになります。


いま、大学4年生の頃に読んだ、竹内敏晴さんの『ことばが劈かれるとき』を読み直しています。

小さい頃に患った耳の病気が原因で、小学、中学時代ほとんどしゃべれず、深い孤独感のなかで少年期、青年期を過ごされ、そのなかで朗読や演劇にであった竹内さんが、ことばや、声、身体、自分/他者、関係性について、身体ごとぶつかって探求を深めていかれた過程がつぶさに描かれています。

大学生の頃、ゼミの場でわたしが言葉に対して感じていたのも、「自分にはことばがない」というような気持ちでした。

伝えたいことはあるのに、ことばが見つからない、ことばにしたとたんに、言いたかったことは声からどんどんこぼれ落ちていって、相手に届く前に空中で分解してしまう。

残されているのは、相手の怪訝な顔や、「何が言いたいのかわからない」というような戸惑った顔、なんとなく白けたような空気。

ああやっぱりだめなんだというような、諦めにも似た気持ち。

すらすらと書き言葉のように話すことができる友人たちを見て、みんなどうしてそんなに言葉を話せるのだろう、とうらやましく、不思議でした。


そんなとき、ある先生に紹介していただいて、とても感銘を受けたのがこの本でした。

それから10年以上経って、いままた読み返してみると、当時は気がつかなった(というより、一時期は竹内さんの本をほとんど全部読んだほど熱中したのに、本の内容そのものもほとんど忘れていました)ことがたくさん見えてきました。


声や言葉に対する、洞察や実践の記録としてももちろん興味深いのですが、第二次世界大戦後に青年期を過ごした、ひとりのひとの歴史を通して、「戦後」の物語が浮かび上がってきます。





***竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫、1988年)***





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1 コメント

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Unknown (山口和宏)
2014-05-09 06:13:23
『ことばが劈かれるとき』は僕も読んだよ。竹内敏晴さんの本にはいつも言葉の身体性を考えさせられる。僕の言葉に身体性はあるのだろうか。いつのまにか薄っぺらい言葉になってはいないだろうか。たまには竹内敏晴さんの本を読み返してみるのもいいかもしれないね。
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