にわとりのにわ a hen's little garden

歌うたい時々クラリネット吹きの日高由貴のblog。
ちいさなこころのにわの風景をすこしずつ書きとめていきたいです。

論文について思うこと

2009年06月20日 | 日々のこと
最近、ある大学生に卒業論文のアドバイスをする機会があった。

わたし自身は、なかなかテーマが決まらず、ほとんど締切前1週間ぐらいで書き上げ、脚注も先行研究への言及も一つもない、ある意味で「前代未聞」の卒業論文を書いたので、偉そうなことは言えないのだけれど・・・と前置きをしてから、「まずは調べようと思っているテーマについて、ほかのひとがどんな研究をしているか、調べたらいいと思う」と言った。そのひとは、ある作家の、ある作品について書こうとしているのだけれど、「できればその作家の年譜もつくったらいいと思う」とも言った。

けれども、とりあえず「論文」と認めてもらうために体裁を整えるための作業と、ほんとうの意味での(なにがほんとうの意味かは難しいけれど)「勉強」は、重なっていることもあれば、ずれていることもある。

そもそも、「論文」とは何か、という問題は、じつはわたしがこれから書こうとしている論文のテーマでもあって、一言で定義するのはとても難しい。

形式的なことでいえば、

①ほかの論文を引用した場合は、その論文に関する情報(著者名、論文のタイトル、掲載された雑誌名、雑誌の刊行年、出版社)と、引用した頁数を明記すること。
②引用した文章は「 」でくくり、自分の地の文章と区別がつくようにすること。

のふたつは、最低限守ったほうがいいのではないかと個人的には思っているけれども、それだって、有名な哲学者の文章を見るとそんなことをしてないこともあるわけで、たんに「あなたはまだ下っ端だからやりなさいよ」、ということに過ぎないのかもしれないとも思う。ただ、読者の立場からすれば、筆者が引用している論文を読んでみたいなと思ったとき、その論文についての情報がきちんと明記されているととてもありがたいと思うので、わたし自身はこのふたつは守ろうと思っているルールです。

でも、あとは、そのひとが苦しみ、もがく過程(もちろん、それがそのひとにとって楽しいことなのであれば、というのが一番大切だとわたしは思っていて、苦しむことそれ自体を他人が強制するのは間違っていると思うのですが)のなかで、自分にとっての「論文」を書けばそれでいいんじゃないかなあと思う。

自分はいつも悩みまくっていて、他人に答えを教えられるのが嫌いなくせに、ひとにアドバイスをするとなると、急に老婆心がでてきていろいろ言いたくなるのはわたしの悪い癖だ。

思うに、いろいろ言いたくなるのは、ほんとうは自分のなかで、それが何かまだわかっていないからじゃないかなと思う。だから、説明するのは、相手のためではなく、自分のためなのかもしれない。

でも、最近になって、ようやくいろいろなところにちらばっていた「点」が結びついて、「面」になってきたような気がする。

だから、卒業論文を書けなくて苦しんでいたころの自分にも、「それでいいんだよ」って教えてあげたいです。



・・・ここまで書いてふと気がつきましたが、こんなに長くなったのは、やっぱりわたしにとって「論文」って何かわかっていないからなのでしょう(笑)

なにはともあれ、わたしも自分にとって面白い文章が書けるように、いろいろ勉強しようと思います。