スピリチュアル・ライフ by birch99

スピリチュアリズムを小脇に抱えて・・・スピリチュアルな視点で日常を綴ります。

18.創造の原理6-2

2014-06-27 18:18:02 | ◆「黎明」考察

生命は生き生きと活動し、生成し、発展し、消滅するというサイクルを現象として顕
わしていますが、この変化がある程度以上に活発であり、私達のそれぞれが持ってい
る感覚でそのとき知覚されるレヴェルにあれば、私達はその中に生命の息吹を感じる
わけです。
ところが物質レヴェルでは、例えば鉱物のこうした変化は非常に微妙なものであり、
多くの人達が気付く程の変化をするには極めて長い時間を要するので、「鉱物には生
命がない」という誤った観念が造られてしまったのです。

ところがアストラル・レヴェルのある程度以上の波動領域になると、物質レヴェルの
原子や素粒子に相当する(寸法的には、遥かに小さい)この波動領域の媒体を構成す
る素材が、ちょうど一個一個の細胞のような生命体としての表現様式を持っているた
めに、鉱物さえも生命があると言う感覚が、この波動領域では一般的なものとなります。

鉱物や植物の意識の波動に同調できる人は、自分の波動で参照することによって、ちょ
うど人と人が言葉で会話をするときのように、鉱物や植物とコミュニケーションを行う
ことが可能です。実際には植物や鉱物から発せられるのはアストラル・レヴェルの波動
なのですが、受け取る人の波動で参照すると、その人の主観が反映した言葉になって聞
こえる場合もあります。
木がすぐ近くで焚かれていた火を熱がったり、楽器が元の所有者に帰りたがっていたり、
というような意識を感じ取れる人が実際にいます。私達の多くが時折、無生物だと思い
込んでいたものの中に生命を感じるような気持ちがすることがあるのは、潜在意識にな
っているアストラル体のはたらきによって、このような情報をキャッチしている場合が
よくあります。 

黒文字部分:「黎明・上巻」より

 

石と話のできる人、植物と話のできる人、昼間なのに星を見ることができる人、何かの
物体に触れるとその物体の記憶を読み取る事のできる人などなど、植物はいわゆる生命
体ですが、無機質な物体からも情報を得たりする人の話は結構聞きますね。
アストラル・レヴェルからの情報を自分の波動領域、潜在意識でキャッチし情報を得て
いるようですが、そうなるとその情報はキャッチする人によって微妙に違ってくるかも
しれませんね。ただ、物体が嫌悪感を抱いているとか、喜んでいるなどの大まかな情報
は一致してくるのかもしれません。

物体の記憶というのは、どうなのでしょう?物体の持ち主の思いが映し出される、いわ
ゆる残留思念なのか、はたまた物体そのものの記憶なのか・・・この辺りはよく分かり
ませんが、いずれにせよ普通の意識状態からは受け取ることはできず、アストラル・レ
ヴェルにアクセスできるいわゆる霊能力が必要なのでしょう。

人の感情による水の結晶の変化やキルリアン写真なども、そのような情報の視覚化なの
かもしれませんが、私はよく分かりません。

キルリアン写真の世界   

水からの伝言wikipedia


こららの内容を読んで、思い出したのはライアル・ワトソン著の「シークレット・ライ
フ」です。下記に少し抜粋します。

自分の意思をもっていると思われる機械はコンピュータばかりではない。1978年、
イリノイ州ブルーミントンで駐車場のメーター係をつとめていたパティー・ジャクソン
は、ヘッドライトがつけっぱなしの車を見つけて消しにいこうとした。
彼女がドアの把手に触れたとたん、エンジンがひとりでにかかって急発進し、コンクリ
ートの車輪止めを乗り越えるや、駐車場を全速力で駆けぬけていった。そのとき、車の
鍵は通りの向かいの美容室から出てきたばかりのサンドラ・ザイクスの手に握られてお
り、彼女は無人の自分の車が轟音をたてて同市のメーンストリートに入っていくのをた
だ呆気にとられて見送るほかなかった。
つづく数分間、その暴走シボレーは車の流れをジグザグに縫っては駐車場に戻るという
奇行を3回くり返し、躍起になって追うパトカーをかわしたあげく、自殺をはかろうと
してか正面から来たトラックにまともにぶつかって大破した。
「気味の悪いホラー映画を見ているようだった」と語ったのはバッテリーを外してやっ
とのことでその人騒がせなヘッドライトを消したエドウィン・オファーレル巡査。彼の
上司のマイケル・リアリー巡査部長などは車を押収した際、捜査官を待つすきに車が逃
げ出さぬよう牽引業者に厳重な注意をうながしたという。原因はついにつきとめられな
かった。(P8)

また、偶然のいたずらだろうか、身近な日常の事物がほとんど故意ともとれるふるまい
をすることがある。1979年の夏休み、15歳のロバート・ヨハンセンは近所のオス
ロ・フィヨルドで毎日成果の乏しい釣りをして過ごしていた。
ある夕方、少年はようやく4キロ半からのみごとなタラを釣り上げ、意気揚々とそれを
ラルクローレンに住む祖母に進呈した。
夕食の用意にとりかかった老婦人、テクラ・オーネンがさばいた魚の腹からは、なんと
高価なダイヤモンドの指輪がころがり出てきた。それは3年前、彼女がフィヨルドで水
泳中に紛失した、代々受け継がれてきた家宝だった。(P9)。

こうしたことがらがわたしにはどうも気がかりなのである。一件一件が、というのでは
ない。まとめて眺めると穏やかならぬパターンが見えてきて、妙に興味をそそられるの
だ。 生物学者のわたしがその基礎訓練を受けたころ、まず生命のあるものとないものと
を区別することをたたきこまれた。生命を生命たらしめている要件を見きわめ、ある複
雑さ以上の生命システムだけに関心をしぼるように教わったものだ。
それ以外のことがらは、よその建物で講義されている地学や無機化学に属し、だいたい
においてわたしの関心の埒外だとされた。しかし今はもう、そのように分断された見方
をすることは許されなくなっている。生命がたやすく定義できないのもわかってきたし、
まったく無機質で無生物であることが否みがたい「物たち」までがまるで生命があるか
のように、しかもときには感覚や意識までもっているかのようにふるまうことが明らか
になってきた。(P9)。


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