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Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

夏のダンス・ウィーク(2)

2023年08月11日 06時30分00秒 | Weblog
 「伝統と創造シリーズは、セルリアンタワー能楽堂が主催、アーキタンツが企画・制作を行っているシリーズ。13回目となる今回は、2019年に小金井薪能にて初演された、宮沢賢治の作品群を原作に森山が立ち上げた創作舞を披露する。
出演者には森山のほか、大前光市、また本作の監修も担う津村禮次郎が名を連ねた。さらに歌唱を二期会の福井敬、チェロを多井智紀、箏を澤村祐司、笛を田中義和、和太鼓を高橋勅雄、高橋亮が担当する。

 森山開次さんと言えば、個人的には「新版・NINJA」の印象が強い。
 彼の作風で特徴的なところは、通常、人々が目を背けたくなるようなものでも、正面から表現するところではないかと思う。
 「新版・NINJA」でも、ナメクジの動きをダンスで表現するシーンが数分間続いたため、何人かの子どもたちが泣き出して劇場から出て行ったのである(子どもの感性)。
 「雨ニモマケズ」でも、それに似た場面がふんだんに観られる。
 というのは、森山さんと並ぶダンサー:大前光市さんが、交通事故で半分近く失った左脚を舞台や台座に激しく叩きつける動作がたくさん出て来るのである。
 私のような、障がい者支援のための業務を行っている人間ですら、こういう場面では反射的に目を背けようとしてしまう。
 だが、だんだん正視できるようになり、そのうちに、普段私たちが余り意識しない”自己欺瞞”を見事に突かれたような気がして、ハッと驚くのである。

夏のダンス・ウィーク(1)

2023年08月10日 06時30分00秒 | Weblog
 7月末から8月初めにかけては、バレエ・ダンス関係の催しが目白押しである。
 東京文化会館でも、7月26日から8月3日まで、パリ・オペラ座バレエ団が2組に分かれて公演を行った。
 オペラ座のエトワールのうちなんと12人が東京に集結しており、何だかオペラの「引っ越し公演」のようである。

 やはり、日本出身で初のエトワールとなったオニール八菜さんへの拍手が物凄い。
 クラシックの定番(「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」 、「ライモンダ」など)も、コンテンポラリー(「コム・オン・レスピール」 など)も、安心して観ていられる。
 だが、ひときわ目を惹いたのは、ヌレエフのために振り付けられたという「さすらう若者の歌 」で、何だか「見てはいけないものを見てしまった」ような気分になった。
 それもそのはず、この曲はマーラーが渾身の”呪い”を込めて作った歌であり、それにベジャールが”呪い”のダンスを振り付けたようだからである。

 こちらは、マチュー・ガニオとドロテ・ジルベールを中心に、2,3年に一度の頻度で開催されてきたガラ公演だが、コロナ問題のため今回は4年ぶりの開催。
 この二人は「平常運転」で、特にマチューは、終始笑顔が絶えないほどリラックスしており、「ソナタ」では生演奏(ピアノとチェロが素晴らしい)の音楽に大満足の様子だった。
 もちろん、ドロテはいつもの如く「私、失敗しないから」という言葉を顔面に出した状態で、超難しいダンスを披露する。
 この二人は、もはや緊張という言葉とは縁がないようである。
 他方、明らかに普段よりも張り切っていたのは、フリーデマン・フォーゲルで、よほどオペラ座のメンバーが好きなのだろうか?
 「マノン」より“寝室のパ・ド・ドゥ”では、リュドミラ・パリエロと完璧に息の合った動き(というよりは、相撲のぶつかり合い?)を見せ、(おそらく)この日一番の拍手を浴びていた。
 さて、マチューとドロテはいずれも39歳ということで、オペラ座のダンサーの定年である42歳まであとわずかである。
 来日公演で二人のダンスを観ることが出来るのも、限られているわけだ。




掘り出し物

2023年08月09日 06時30分00秒 | Weblog

 よくあるオペラのガラ公演かと思って行ったら、かなり違う。
 まず、結構手の込んだ舞台装置があり、「演奏会方式」とは一線を画している。
 次に、シーン(scenes)は、いくつかの例外(「こうもり」、「フィガロの結婚」など)を除き、通常のガラ公演で選ばれるいわゆる「ハイライト・シーン」をおそらく意図的に外してきている。
 例えば、G.ドニゼッティ「愛の妙薬」では、「人知れぬ涙」ではなく、ネモリーナがアディーナにワインを飲ませるシーンが上演される、という具合である。
 さらに、いくつか意表を突く演目の選択がある。
 おそらくお客さんも驚いたと思われるのは、「ニクソン・イン・チャイナ」(中国のニクソン)で、これはなかなか面白そうなオペラのようだ。
 こんな風に、「掘り出し物」を見つけることが出来るので、この種の公演は出来るだけ観る/聴くようにしているのだが、最大の掘り出し物は、ベッリーニの「カプレーティとモンテッキ」である。
 題名が示す通り、原作は「ロミオとジュリエット」なのだが、これから抜粋した長大な愛の二重唱が傑作なのである。
 ロメーオとジュリエッタはメゾ・ソプラノとソプラノの歌手が演じる設定で、何だか清潔感があってよい。
 この二人には、おそらくこの日一番盛大な拍手が送られた。
 決して上演機会が多いとは思えないが、全幕観てみたい気がした。
 


オペラのアンコール

2023年08月08日 06時30分00秒 | Weblog
[ソリスト・アンコール]辻井伸行(Pf)
・ショパン:ノクターン第20番 嬰ハ短調(遺作)
・ショパン:エチュード第12番 ハ短調 op.10-12「革命」
[オーケストラ・アンコール]
・R.シュトラウス:歌劇「ナクソス島のアリアドネ」より ダンス  


 7月後半は、連続でオペラシティのコンサートに出かける。
 モーツァルト、シューマン、ベートーヴェン、ヴェルディとバラエティに富んでいる。
 辻井さん&オーケストラ・アンサンブル金沢のアンコールは上のとおり。
 辻井さんは興が乗ったのか珍しく2曲を演奏。
 オケのアンコール曲は「ダンス」。
 アンコール用に普段から練習しているのか、指揮者もろくに見ないままの流暢な演奏で、全幕を聴いてみたい気になる。
 東フィル定期シリーズの「オテロ」は、期待通りの素晴らしい出来栄えで、2幕ラストの「復讐の二重唱」は圧巻。
 私はこれが大好きなので、もう1回聴いてみたい気になった。
 昨年の「ファルスタッフ」では、アンコールで「この世は全てご冗談」をやってくれたのでちょっとだけ期待していたのだが、さすがに「オテロ」でアンコールはなし。
 まあ、オペラ公演でアンコールがあること自体異例なのではあるけれど。

右脳と左脳

2023年08月07日 06時30分00秒 | Weblog
 「ある哲学者が「私たちは類型的な物事を、自ら判断をして決着をつけていると思っているが、実は決着などついてはいなくて、無意識の領域に閉じ込めているだけだ」と言っている本を読んで、無意識の領域というものに関心を持ちました。一体どれほどの事柄、事物をこの領域に閉じ込めているのだろう、と。
 フロイトのいう「意識」「前意識」「無意識」
 それぞれの「領域」
 舞踊家としてこれらの領域の垣根を越えることは可能なのだろうか?
 舞踊団としてこの命題に挑戦をしたいという思いからこのタイトルに決定しました。

 なるほど。
 フロイトの理論を踏まえてつくられた舞踊というわけである。
 先入観を取り払ってみていると、確かに、それぞれのダンサーの自我の領域が拡張したり収縮したりするのが視覚化されているように思える。
 この着眼点は、一見するとクリスタル・パイトに似ているようだが、言葉を起点とする”左脳優位”の彼女に対して(言葉を超える(1))、Noism の方は音楽を用いており、”右脳優位”の発想に思える。
(ところで、言葉も音楽も用いない、無音のダンスが難しいのは、空間を分節化するためには時間の要素が必要となるという、いわば「海も時なり」(不健全な自我の拡張(11))の原理によるものだろうか?)
 KIDD PIVOT とNoism の公演を交互にみると、脳の活性化に役立つかもしれない。 

不健全な自我の拡張(16)

2023年08月06日 06時30分00秒 | Weblog
⑤ 「海は、僕には、女の子にとって結婚がそれであるかのような、官能的な憧れです。」(山田野理夫宛書簡(昭和22年2月3日))

 (女の子にとっての)「結婚」=「海」という等式は、人間を生の世界に巻き込む「仲介者」としての「海」を彷彿させる。
 しかも、「官能的な憧れ」という言葉からすると、「海」は、容易には手の届かない「到達不可能」な存在のようである。
 この言葉にはやや不吉な響きがあり、「海」が他方では冥界(つまり「原 animus」)につながっていることをも暗示しているようだ。
 したがって、この「海」も、「第2の animus」と見てよいだろう。
 ちなみに、山田野理夫氏は、民俗学的なバックグラウンドをもつ作家・詩人・歴史家であるが、三島は晩年民俗学を忌避するようになったので、交友は初期の段階に限られていたのかもしれない。
 
 ・・・・・・こうして見ていくと、「即興詩人」のアントニオや吉本ばなな氏による自我の拡張(ばなな氏=TUGUMI=海の”三位一体”)に比べると、三島による「海」への(疑似的な)自我の拡張は、やはり極めて不健全であると言わざるを得ない。
 私見では、彼はやはり「道を誤った」のであり、そのこと(ディオニュソス信仰を含むギリシャ文化全般に関する致命的な見落としの点も)は、「潮騒」の時点では既に明らかだった(もっとも、これについて書き始めると長くなると思うので、続きは後日ということにしたい。)。
 ・・・というわけで、「特集展「充満する海のことば」」は本日が最終日ですので、皆さん、くれぐれもお見逃しなく!

不健全な自我の拡張(15)

2023年08月05日 06時30分00秒 | Weblog
 「供犠1」は、一見すると奇妙な・理解しがたい行動のように思えるが、精神分析の観点からは、合目的的な行動として説明出来るようだ。

 「フロイトの論文全体はむしろ我われに次のことを示しています。性の生物学的合目的性、つまり生殖に照らせば、心的現実の過程において現れてくる欲動は、部分欲動である、ということです。」(p124~125)
 「性欲動の終着点は死であることに驚くべきではありません。生あるものにおける性の現前は死と結びついているのですから。」(p128)
 「・・・「新しい主体 ein neues Subjekt」の出現は次のように理解しなければなりません。一つの主体、すなわち欲動の主体が前から存在しているというのではなくて、ここで新たに一つの主体が現れるのを見る、ということです。この主体はまさしく他者なのですが、欲動がその循環的行路を閉じることができたというかぎりにおいて現れます。他者の水準に主体が現れることによってのみ、欲動の機能というものが実現しうるのです。」(p130)
 「どこかでフロイトが言っていました。自体愛に与えうる理想のモデルは自分で自分に接吻している口であろう、と。・・・
 いずれにしても、欲動の満足を性源域のたんなる自体愛から区別するものは対象ですが、欲動は、この対象のうえに閉じると誤解されています。実際はこの対象はうつろの現前、空の現前であるにすぎません。それは、フロイトが言うように、どのような対象によっても占められます。我われはこの対象の審級を失われた対象 a という形でしか知ることはできません。」(p132~133)

 「弓には生命という名が与えられているが、その働きは死である」というヘラクレイトスの言葉の引用で始まる「精神分析の四基礎概念」の中の「部分欲動とその回路」の章は、そのまま「供犠1」の解説としても十分通用するように思える。
 ラカンが援用するフロイトによれば、「愛は根源的にナルシシズム的なものである」ため、当初は(部分欲動として)「自体愛」的に発現し、その後は「拡張された自我」(erweiterten Ich)の中に同化された対象にも適用されるようになるという。
 「供犠1」も、こうした観点から見ると理解しやすいだろう。
 もっとも、「供犠1」は、およそ「自体愛」の次元にとどまるものではない。
 「私」が”永遠の生命”を究極の対象としているとするならば、それは「愛」ではなくむしろ「信仰」と呼ぶべきだからである(ゆえに「(日本版・現代版)ディオニュソス信仰」なのである。)。
  対して、「供犠2」には、明確に「他者」が登場する(なお、「供犠1」における「他者」は、強いて言えば「海」だろう。)。
 もちろん、このときの「他者」というのは、現実に存在していた人々(市ヶ谷駐屯地で野次を飛ばしていた自衛隊員たちなど)のことではなく、実際には現前していなかったし、もしかすると今後も現前しないであろう、
 「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本
のことである。
 この点、最後に引用したラカンの結論部分の言葉は、全く悪夢というほかない。
 彼によれば、”永遠の生命”も、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」も、”空の現前”に過ぎないことになる。
 ・・・こういう風に見ていくと、「精神分析的手法」は、作者が指摘したとおり、「文化意志以前の深み」に落ちてしまう、あるいは「人類共有の、暗い、巨大な岩層 」に衝き当たってしまう、という感を抱いてしまうのである。

不健全な自我の拡張(14)

2023年08月04日 06時30分00秒 | Weblog
④ 「近江の生命にあふれた孤独、生命が彼を縛めているところから生れる孤独、・・・」(「仮面の告白」)

 「私」が、「海」を前にして近江を回想するシーンである。
 だが、私の個人的な感想は、(これを選んだ方には大変申し訳ないが、)
 「そこじゃない
である。
 というのも、この直後に、二大ライト・モティーフの一つである「自己人身供犠」のプロトタイプが、これ以上はないといっていいくらい明確な形で顕れているからである。
 これも、作者の出血大サービスと言って良いだろう。

 「ーー私の腋窩には夏の訪れと共に、・・・黒い草叢の芽生えがあつた。・・・私の情慾が私自身のそれへ向つたことは否めなかつた。その時私の鼻孔をわななかせてゐた潮風と、私の裸かの肩や胸をひりひりさせながら照りつけてゐた夏の激しい光りと、見わたすかぎり人影のなかつたことが、寄ってたかつて、青空の下での最初の「悪習」に私を駆ったのだった。その対象を、私は自身の腋窩に選んだのだった。(中略)
 ーー波が引いたとき、私の汚濁は洗はれてゐた。私の無数の精虫は、引く波と共に、その波の中の幾多の微生物・幾多の海藻の種子・幾多の魚卵などの諸生命と共に、泡立つ海へ捲き込まれ、運び去られた。」(p239)

 「私」は、自分の腋窩に欲情し、(泳げないため「私」にとっては到達不可能な)「海」(「第2の animus」)に向かって、 corpus:身体の一部(精液)を「エクペダン」させ、犠牲に供した。
 つまり、一種の「自己人身供犠」が行われた。
 さて、この「供犠」の対象は一体何だろうか?
 もちろん、「腋窩」(レフェラン)ではあり得ず、かといって「海」でもない(それにしても、「私」を生の世界に巻き込む「媒介者」としての「海」の描写の何とみごとなこと!)。
 さらに言えば、「生命(いのち)」ですらない。
 「私」(あるいは作者)は、「生命(いのち)」を至上の価値と看做しておらず、そのことは、「私」(あるいは作者)の行動や、とりわけ「」の文面(「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。」)からも明らかである。
 そうではなく、モース=ユベールも示唆したとおり、「自己人身供犠」の究極の対象は、”永遠の生命”、つまり「原 animus」(パウロの言葉で言えば、「霊」(<第二の生命>中心主義))と考えるべきである(なので、この小説のタイトルは、「仮面の告白」ではなく、「(日本版・現代版)ディオニュソス信仰の告白」とすべきだったのかもしれない。)。
 このことは、「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」が掲載されたサンケイ新聞夕刊の切抜き(死後発見されたもの)に作者が書き込んでいた「限りある命ならば永遠に生きたい」という言葉や、死の直前に読んでいたのがプラトンの「パイドン」であったという事実によって裏付けることが出来る。
 要するに、作者が昭和23年11月25日に起筆した小説(むしろ「メタ小説」というべきか?)の中で呈示したプロトタイプとしての「自己人身供犠」(以下、便宜的に「供犠1」と呼ぶことにする。)は、ちょうど22年後の昭和45年11月25日、現実の世界で、但し原型をとどめないほどデフォルメされた形で、実現(むしろ「反覆」?)されたのである(こちらを以下「供犠2」と呼ぶことにする。)。
 ただ、「供犠1」と「供犠2」との間で異なるのは、① 「エクペダン」する corpus の体液は何か、② その結果、「人身供犠」は「人命供犠」(命と壺(1))に至ってしまうのか、③ 見かけ上の「供犠」の対象、すなわち、「海」を「媒介者」としつつも明確に”永遠の生命”(「原 animus」)に捧げられているのか、それとも、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本 」(「第2の animus」)に捧げる体裁をとる一方で(究極の対象であるはずの)「原 animus」は隠されているのか、という3点くらいである。


 


不健全な自我の拡張(13)

2023年08月03日 06時30分00秒 | Weblog
③ 「海はいいなあ。僕が航海学校を出て任官して、対馬の厳原の基地に行ったとき、あのへんのきれいな海が僕には自分の領地のような気がしたものさ。」(「灯台」)

 初出は「文学界」(昭和24年5月号)で、本作で作者は「演出家」としてデビューすることとなる。
 なかなかの佳作で、そのためか、昭和34年には「灯台」として映画化されている。
 さて、上に引用されたセリフの後には、以下のくだりが続く。

 「僕は戦争が終はつたら、あのへんの海を一里四方ずつ頒けてもらはうつて、戦友と話し合つたもんだ。・・・・・・しかし僕が任官したあくる日にお母さまが亡くなつたんだつけなあ。(以下略)」

 この「海」も「第2の animus」である。
つまり、(疑似的な)自我の拡張の対象であるが、性質上、「到達不可能」である。
 案の定、昇には「海」が「自分の領地」(自我の拡張対象)のような気がしたが、これに接近した翌日、母は亡くなってしまう。
 それにしても、ここで「海」に「母」→「女性的なるもの」を包含させてしまうのが作者の上手いところである。
 この後、昇(25歳)は、継母のいさ子(30歳)に激しい恋慕の情を抱くこととなる(ここでは、いさ子に「海」が重ね合わされている)。
 だが、昇といさ子とは、インセスト・タブーによって隔てられている。
 ここでもやはり、昇にとっていさ子は「到達不可能」な存在である。
 要するに、いさ子も「第2の animus」だったのだ。
 ・・・ちょっと現代風にアレンジすれば、今でもなかなか面白いファミリー・ドラマになりそうだ。
 

不健全な自我の拡張(12)

2023年08月02日 06時30分00秒 | Weblog
② 「地上の生活の滓がここまで雪崩て来て、はじめて『永遠』に直面するのだ。今まで一度も出会わなかった永遠、すなはち海に。」(「天人五衰」)

 「永遠」=「海」という等式から、この「海」が、「到達不可能」なものであり、「第2の animus」であることは明瞭に読み取れる。
 だが、私の個人的な感想は、(これを選択した方(佐藤館長?)には大変申し訳ないが、)
そこじゃない
である。
 というのも、この少し前に、決定的に重要なくだりがあるからである。

 「海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義(アナーキー)。」(p7)

 もちろん、ここでの「名」はレフェラン(référent:指示対象)と読み替えて解釈する必要がある。
 何と、ここには、「レフェランの不在・拒絶」という、三島作品を読み解くためのキー・コンセプトというか、二大ライト・モティーフの一つ(もう一つは「自己人身供犠」)が、作者自身によってはっきりと呈示されているのである。
 これは、まさしく作者の出血大サービスというべきだろう。
 これによって、
 「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」(「英霊の聲」)
も、
 「どうして「第2の animus」(signifiant としての animus)であるべき天皇陛下はレフェラン=人間となってしまわれたのか
という意味として、容易に理解することが出来るようになる。
 また、「レフェランの不在・拒絶」を踏まえれば、「私」(溝口)が「金閣寺」を燃やしたのは、「抽象概念としての『美』を破壊し、それに頼ることなく『生きようと思った』からだ」という橋本治氏のようなとんでもない誤解をすることもなくなるはずである。
 「私」(溝口)は、(signifiant:抽象概念としての)「美」を、「第2の animus」の次元に押しとどめるために、レフェラン(指示対象)たる現実の金閣寺を破壊したのだから。