サーファー院長の骨休め

“ビッグマッサータハラ”のライフスタイル

パドボーに魅せられた男

2024-05-20 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「パドボーに魅せられた男」          2024.6月

 19年前に鵠沼で立って漕ぐサーフィンを見て衝撃を受けた。「これだ!」すぐにパドルを買い、ビーチの端で練習した。他に誰もやっていないから自力で習得した。できなかったことができるようになっていく過程が面白かった。とにかく長くて浮力のあるボードを調達してきて試した。当時パドボーと呼んでいて、SUP(スタンドアップパドル)は後に付いた名前だ。板に立ったまま長い柄の櫂で漕いで沖に行き、立ったまま波待ちし、漕いで波に乗る。この新しい波乗りに夢中になった。
 
 一年後鎌倉で初のスタンドアップパドルの大会があるという。会場には全国からこの新しい波乗りに魅せられたサーファーが集まった。まだ専用のパドルが出回っていない時代。皆が自作のパドルを持ち寄った。カヌー用のブレードを塩ビのパイプで繋いだものや、木製で形が長細いものから幅広いものまで様々だった。「俺はこんなふうに工夫したぜ。」と品評会のようだった。乗り方も皆個性を発揮していたが、やはり鎌倉のサーファーは上手かった。重くて長い板をパドルと足を使って巧みに操っていた。「ああやって乗るのか。」と勉強になった。大会の結果などもうどうでもよかった。目の付け所が同じだったサーファーが日本中にこんなにいたのか。それが分かったことが大きな収穫だった。
 それから10年後にもこの大会に出たが、またも予選で敗退した。そして今年9年振りにまた出てみようと思う。目標に向かって努力することが好きだ。自分がアスリートであることで体を鍛え健康になることに繋がる。


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「明日マッサージできますか?」

2024-04-23 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「明日マッサージできますか?」          2024.4月

 先日外国人のご夫婦が訪ねてきました。男性は英語で左脚外側の痺れと首の痛みを治療して欲しいと説明してくれました。奥様も治療することになり、翌日一人ずつ来ていただくことになりました。彼らはカナダからの観光客で奥様は日本語ができましたが、ご主人は英語が中心。明日は通訳の奥様がいなくなるため、想定しうる英語を予習して明日に備えました。

 翌日、ご主人がドアを開けるなり「元気ですか?」と日本語で切り出してくれたので和みました。私は日本滞在中何をしているのかなど興味があったので、色々質問しました。子供たちとこの大磯の海でボディーボードをしました。カナダほどではないが水が冷たいと言っていたので、レンタルウエットスーツがあるから貸してあげようかなどと会話が弾み、なかなか施術に入れませんでした。

 いよいよ本題の治療が始まりました。左脚の症状は10年前からで、腰椎が詰まっていて神経を圧迫していることを本人は解っていました。診立てでは、O脚で膝が屈曲していて下肢の配列の狂いが原因だと説明しました。長い休暇で家族分の重い荷物を運び歩き過ぎて悪化したと本人も言っていました。私の英語は、順番はめちゃくちゃですが伝わるようです。3年前の東京オリンピックの選手村でマッサージトレーナーのボランティアをした経験が生きました。

 彼の仕事は造園設計士で、現場でコンクリートを敷いたり、パイプを埋めたりしています。私の施術を受けながら「この仕事は自分が疲れないのか?」と聞いてきたので、「このやり方で40年やってきた。THIS IS MY WORK」と答えました。治療を終えるとサムズアップして納得した表情を浮かべてくれました。共に50代。互いの職業をリスペクトし、外国のその道のプロに日本の技術が認められた気がして誇らしかったです。   

 また、今カナダの森の中に自分たちで家を建てていてかわいいツリーハウスのような家の写真を見せてくれました。奥様の趣味はトレイルランニング。ご主人も街よりも自然が好きでそういう環境で暮らすことを楽しみにしていました。この大磯の山にも登り、桜を見てカナダとの共通点を感じたようです。実は奥様の母親は日本人で、今回小田原の祖母のお墓参りをするのがこの旅の目的のひとつでした。そんなことを話しながら、楽しく施術をしました。

 帰国前に治療院に寄ってくれました。奥様も調子よくなったと喜んでいただき、この大磯での数日間は楽しかったと言い、私も交流ができて楽しかったと握手してお別れし、家族は大きな荷物を背負って駅に向かって行きました。

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「SUPで大冒険」

2024-04-23 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「SUPで大冒険」                                  2024.3月

 サップとは、スタンドアップパドルの略で、世界的に大流行している将来オリンピック競技になるかもしれない新しいスポーツです。浮力のあるサーフボードに立ち、長い柄のオールで漕ぎ、海上をクルーズしたり、波に乗ります。私が大磯でSUPを始めた20年前は、まだ誰もやっていなかったので、雑誌や動画を見て習得しました。SUPの魅力は未知の領域に冒険旅行ができる事です。サーフィンのように腹ばいになって手で漕ぐより、櫂の幅が広く、漕ぎ進む力が強力なので、行動エリアが広がりました。大磯港の沖を回って照ヶ崎まで岩間に泳ぐ魚を見ながら気持ちよくクルーズ。平塚沖の黄色い波高観測塔や花水川をクルーズしたりと大磯の広大で素敵なロケーションを実際に体験することができるのです。SUPに挑戦してみませんか?




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「夢に拘れ」

2024-02-22 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「夢に拘れ」                  2024.2月

 マンハッタンを見下ろす高層ビルの展望台から自由の女神に向かって「世界一のマッサージ師になる。」と意気込んだ時の腹の底の震えは、武者震いでもなんでもなかった。「お前の行きたいのはハワイじゃないのか?違うと思っているのになぜに行く。」20代の自分は精一杯背伸びしようとしながら、自分の首を絞めていた。「大成してやる。」そうやって不安を封じ込めながらアメリカ行きの手続きを進めていた。「俺はニューヨークに行く。」と宣言し、修行先に辞表を出し、大使館でビザの申請を行った。しかしビザは発給されなかった。送別会の翌日、29歳で無職になった。

 サーフボードを持ってオーストラリアに旅に出た。現地で語学学校に通いながら、色々なセラピストを訪ねて回った。ステイ先の看護師の伝手でホスピスで療養する末期がん患者のドイツ人女性と出会った。言葉は全く通じず、身振り手振りで首や背中の不調を訴える。彼女にマッサージをすると、強張った顔が笑顔になった。
 また別の日には、在宅療養中の末期がん患者の家で肩が上がらないという症状に対して施術をすると「あなたのような技術を持った人にはこの国では会ったことがない。感動した。ありがとう。」と目に涙を浮かべて喜んでくれた。
 自分の技術は、世界中どこへ行っても人を喜ばせることができるのか。拠点がどこであれ、自分が移動すれば私を必要としてくれる人に会いに行くことができる。次への動機が見つかった。
 そんな時、日本からいいテナントが空いたという連絡が入った。「ここでやるしかない。」1994年12月、大磯で治療院を開業した。

 今回「しくじり先生」として話をした。「夢に拘れ」夢は、理想を掲げ、計画し、実行し、実現する。今はもうハワイの大波に乗りたいとは思わない。20歳の時に味わった不完全燃焼を長い年月を掛けて自分なりの形で納めたのだ。夢に拘ってしまったからこそ得たものもある。このライフスタイルが理想なのかもしれない。


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本当は、ハワイに行くはずだった。

2023-12-20 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「本当は、ハワイに行くはずだった。」       2023.12月

 20歳の時、ハワイオアフ島ノースショアにサーフィン修行に行った。しかし、自分の技量では全く通用しなかった。毎日恐怖との闘い。危険な波に打ちのめされて帰ってきた。
 
 その濃厚な一か月間が人生を考えるきっかけとなった。それまではサーフィンさえできればそれでよかった。それからはサーフィンを続けられる環境をどうやって維持できるかがテーマになった。「ハワイに住む。」一サーファーとして。その時点で生きて行くために必要なスキルは何も持っていなかった。自分はいったい何ができるのか?発想はそこからだった。そこで閃いたのがマッサージ師だった。まず手に職をつける。それが目標になった。簡単ではないと分かっていたから夢を追い続けた。

 それから9年掛けて生きて行くための武器を身に付けた。そろそろハワイ行きをという時、色々な人に相談をした。実際にハワイに移り住み仕事をしている人からは、「ハワイは観光客相手の商売が中心になる。あなたのやりたいようなロコを相手とするようなマッサージ業では飯は食えないよ。」その言葉に気持ちが揺らいだ。簡単にアメリカ本土に行き先を切り替えた。9年間のマッサージ修行で自信もついて、自分を試したかった。また大波に挑戦しようとしている。

 アメリカの日本人向けの新聞を取り寄せ、マッサージ師の求人広告を調べ、西海岸から東海岸まで片っ端から手紙や電話をした。しかし、誰も相手にしてくれなかった。そんな中、ニューヨークのある治療院は、留守番電話になっていた。ここぞとばかり思いの丈を吹き込んだ。時間切れでピーと鳴るともう一回掛け直し、続きを訴えた。

 2日後そこのオーナーから電話が掛かってきた。「留守電聞きました。今度伊豆に旅行に行くので、会いませんか?」年配の日本人女性の声だった。ニューヨークでもサーフィンができることを調べた上で会いに行った。質問を用意し話を聞いた。「そんなに興味があるのなら一度私の治療院に来なさい。」ニューヨークに飛んだ。マンハッタンの中心部のビルの2階にあった。「せっかくだから施術してみる?」と言われ、肩こりの白人ビジネスマンを施術させてもらった。感触があった。

 その帰り、マンハッタンの摩天楼を見下ろす超高層ビルの展望台に昇ると夕陽に照らされた自由の女神が見えた。「俺はここで世界一のマッサージ師になる。」腹の奥が震えていた。

 数か月後、アメリカ大使館で渡航の手続きをした。ビザは降りなかった。

 つづく。


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「三助」

2023-11-18 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「三助」                 2023.11月

 椎間板ヘルニアで緊急入院し、痛みでベッドに横になることができず、手術までの5日間ずっと四つん這いで過ごしていました。手術前日に体を清潔にするということで、風呂場に運ばれました。ストレッチャーの上で四つん這いのまま服を脱がされ、紙おむつをはずし、導尿の管を垂れ下げながら裸になりました。もうまな板の上の鯉です。「お湯をかけますよー。」と2人の女性看護スタッフが二手に別れ、せっけんを染み込ませたタオルで全身を洗ってくれました。温かいお湯が冷えた肌を伝いとても心地よかった。洗ってもらいながら「こういう仕事もあるんだな。」と考えていました。10分ほどで終わり、乾いたタオルで拭いてもらいさっぱりしました。これまで長い時間痛みと闘いながら過ごし、体は冷え切り、疲弊しているところに温かいお湯を浴びただけでも精神的に楽になりました。

 実は、私は数年前に体を洗うという職業を「三助(さんすけ)」という形で見付け出し、興味を持ちました。三助とは、銭湯の番頭さんの業務の一環で、お客さんの背中を流すサービスをする人のことです。今はこのような人はいなくなりましたが、三助をやってみたいと考えていたことがあることを思い出していました。

 無事手術も終わり退院し、さっそく三助のことを調べてみました。すると東京のある銭湯につい最近まで三助がいたということが分かり問い合わせました。しかし、数年前に三助は止めてしまったそうです。しかし、近い将来また三助を復活させたいとのことで、一度会うことになりました。そこで私はその銭湯の女将さんに自分の入院中に体験した体洗いのことを話しました。するとその女将さんも以前病気を患った時に味わった温浴の大切さを銭湯の経営者として改めて認識し、再び三助が世の中に必要になる時が来るはずだということで、私に三助の伝統の技を伝授してくれることになり、以前そこで働いていた三助さんに直接教わることになりました。その方も私と同じ現役のあん摩指圧マッサージ師でした。三助の特徴的な技、拍打法は、手のひらを窪ませてパンパンと背中を叩く手技ですが、あれは古来あん摩の技術です。マッサージ師は三助に一番近い技術を持っていると言えます。風呂場で実際に私の背中にやっていただき、背中で感じながら、鏡越しに動きを見ながら習得しました。今後どのような形で三助の活動ができるのか模索していきます。







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「ヘルニア闘病記 挑戦」

2023-10-19 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 挑戦」             2023.10月

 ヘルニアの手術後2日目で脚の痛みがなくなり、目の前のドアが開いた。その時、「全日本に出る。」と決めた。「全日本サーフィン選手権大会」アマチュアサーフィンの最高峰の大会が宮崎で行われる。17歳で初めて出場して以来何度か出て来たが、今はかなりのブランクがある。そう簡単ではないが、達成しがいのある目標だ。実は、私の長女が前年に優勝しているため、シード選手として出場することが決まっている。彼女も数年前に私と同じヘルニアの手術をし、克服している。「親子で全日本、これだ!」ドラマを作ろう。

 5月の予選会まであと2か月、プランを考える。ゴールまでの道のりをより具体化し、頭でイメージする。スケジュールを書きながら自分の本気度を確かめる。日数も限られている。海に入れない日は、海岸を歩き、陸でトレーニングをした。「なぜ全日本に出たいのか?」それを何度も自分に問う。私は、サーファーであり、治療師だ。ビッグマッサータハラはヘルニアを克服し完全に復活した。それがゴールだ。

 本戦への切符は地区予選を2位以内に入らないと獲得できない。予選会当日は波が大きくハードだったが、夢中でパドルし波に乗った。結果は何と2位!全日本行きが決定した。「願えば叶うんだ。」我ながら凄いと思った。

 全日本本戦は敢え無く予選で敗退してしまった。全国大会で戦うには実力が足りなかった。ここを経験したことで、また自分を押し上げることができる。9か月前までは、這いずって歩いていた自分がこうして親子で全日本にまで行くことができた。まさにミラクル。来年還暦。まだまだ衰えていないという所を見せていきたい。

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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 検証」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 検証」                   2023.9月

 東京にオリンピックが来るということになった時、「選手のマッサージをする。」と目標を定め、10年近くそれに懸けてきた。休日は勉強会に参加し、現場でトレーナーの仕事をし、英会話も学んだ。積み上げてきた経験が審査され、採用試験に合格した。しかし、コロナでオリンピックは延期となってしまい、病気療養中だった父が他界し、悲しむ母と向き合った。一年後、選手村でオリンピック選手をマッサージするという夢が実現した。

 父の一周忌が終わった頃、長い間オリンピックのため封印していたサーファーとしての情熱が沸き上がってきた。「また大会に出たい。」10年振りにエントリーしたのは、夏の終わりだった。開催まで2か月余り、休日や仕事前に練習した。久々に燃えるものがあり、最初のうちは順調だったが、練習量が増えたことと仕事の忙しさも相まって腰に痛みを感じた。大会が迫る中無理をしてしまい悪化した。結局大会はキャンセルしてしまったが、開催地が好きな波の立つ福井県だったので、秋の日本海も見たかったし、温泉でも入って療養しようと強行した。長時間の運転でダメを押し、現地では歩くことすらままならなくなり、帰ってきたその3日後に入院、手術することになってしまった。この何年か色々なことがあった。疲労も顧みず結果的にオーバーワークとなり、それが病を起こすきっかけになってしまった。

 サーフィンは背腰部への負担が大きい。自分自身股関節を取り巻く筋力や脊柱を安定させる能力の弱化などを専門家に指摘されていたので、助言を請いながらトレーニングしてきたつもりだった。オーバーワークや体のケアが反省すべき問題なのか。

 自分の腰痛がなぜ起こるのか。そのメカニズムが知りたい。腰を患った19歳にしてこの学問を真剣に学ぼうと思ったのではないか。それがいつしか人の体を治すことに焦点が移り、人の体を診ながら自分の体探しをし、自分の身を持って研究をし続けている。自分を客観視することは難しい。




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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 退院の日」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 退院の日」                 2023.8月

 腰部椎間板ヘルニアの手術からリハビリを経て12日目、傷口の状態も良好、日常生活に支障がないということで、ようやく退院することになりました。腰部を切開し、脊椎に穴を開け、顕微鏡を見ながら飛び出している髄核や繊維輪を取り除く手術をしました。これにより、右脚の痛みは95%良くなりました。ここまで良くなったのは、主治医の先生を始め、医療スタッフのみなさんのおかげです。自分も医療の末端で働く者として、この入院生活はとても勉強になりました。ありがとうございました。

 退院当日は寒い雨の日でした。入院の日は這いずって来たのに、こうして腰を伸ばして歩いて帰ることができました。家に帰り、シャッターの閉まった治療院に座ると、予約表の全ての名前に取り消しの×印が付いていました。これからどうやって健康を回復させ、信用を取り戻すのか考えなければなりませんでした。
 そんな時、玄関のチャイムが鳴りました。いつも治療に来ていただいている患者さんでした。「先生、大丈夫ですか。電話で聞いてびっくりしました。先生でもこういうことがあるんですね。ご無理はなさらないでくださいね。先生にはいつまでも元気でいてもらわないと困るんですから。」とおっしゃっていただきました。その後も患者さんや友人が訪ねてくれ、とても励まされました。

 マイナスからのスタートになる。自分が復活していく姿を見てもらい信頼を取り戻す。この経験を糧にするしかありません。1か月後から仕事を開始すると決めました。知り合いの理学療法士にトレーニングメニューを作ってもらい体作り。プールでは歩行訓練を行いました。これは後に自分の体験談として患者さんに話すことができます。また、新しい治療法を調べたり、英会話も勉強しました。こうして何とか仕事ができるまで回復し、心配をお掛けした患者さんも徐々に戻って来てくれました。

 3か月が経った頃、トレーナーが「そろそろサーフィンできるんじゃないですか?」と言ってきましたが、私は「まだ早い。」と思いました。「全身の関節を動かすことがリハビリになる。」との一言に心が揺れました。最初は腰を折り曲げる動作のないSUPで海に入ってみました。まだ3月の海は冷たかったですが、気分がとても良かった。その後サーフィンもチャレンジし、無事ボードの上に立つことができた時はとても嬉しかったです。




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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 復活への道」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 復活への道」          2023.7月

 2021年冬。腰部椎間板ヘルニアの手術から一夜明け、まだ完全ではないものの、術前のあの脚の凍り付いたような痛みに比べれば大分良くなった。この日からリハビリが始まった。理学療法士さんの指導の下、まずは、寝返り、起き上がり、立ち上がるという日常動作を訓練した。今までやっていた何気ない動作も傷口の痛みで機敏には動けない。腰に意識を集中させゆっくりと行った。「トイレまで歩いてみましょうか。」とベッドから立ち上がった。もうかれこれ一か月近くまともに歩けず、入院してからは車椅子に頼って歩いていたので、腰を伸ばして歩くことを忘れていた。「こんなに目線が高かった?」点滴スタンドを左手で押しながら、一歩目を出してみた。地面を蹴れない。体を前に押し出す力がない。10cm踏み出すのがやっとだった。ずっとふくらはぎが麻痺していたせいだろう。更に片脚立ちも力がなく、ふらふらしてしまう。こんなにも衰えているのかと驚いた。

 入浴の許可が出た。服を脱ぐと鏡に自分の体が映った。腰の透明なテープ
の下に薄く傷口が見えた。垂れた尻に細くなった脚。高校の頃、女子に「田原
君のお尻が素敵。」と言われたあの尻はもう見る影もない。体重計に乗ると3キロも減っていた。

 体を洗い、気分も一新、生まれ変わった気持ちで、自分はこれから何に向かって行くのかと考えた。体を鍛え直し復活してみせる。「この夏、サーフィンの全日本に出る。」と目標を定めた。サーフィンができる体を作れば、おのずと仕事もできる。その予選会まであと5ヶ月ある。スケジュールをノートに書いた。理学療法士の先生にトレーニングの方法をコピーしてもらい、自主トレを行った。夜中に起きて廊下を歩き、自販機の隅でスクワットをした。食欲も出てきて、減らしていたごはんの量を戻してもらった。入院8日目、57歳の誕生日の朝食にバースデーカードが添えられていた。




入院から手術の日まで5日間この状態で食事をとり、一睡もできず、痛みに耐えた。

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