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サーファー院長の骨休め

“ビッグマッサータハラ”のライフスタイル

「大磯海水浴場140周年記念・照ヶ崎SUP教室」

2025-07-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「大磯海水浴場140周年記念・照ヶ崎SUP教室」

 明治18年(1885)医師松本順によって大磯に日本初の海水浴場が開設されました。当時海水浴は医療であり、海というフィールドを使った療法でした。海水はミネラルを含み、磯に打ち付ける波しぶきはマイナスイオンを放散し、岩間の濁流に身を任すと皮膚や筋肉が刺激され身体が強化されました。禱龍館という診療所兼旅館では、松本順指導のもと医療行為が行われ、日本料理や西洋料理も楽しむことができ、一帯は保養地となっていきました。時代が進むにつれ海水浴は、「浸かるから泳ぐ」へと変化し、「療養からレジャー」へと進化していきました。大正には板に腹ばいになって波に乗る「板子」が登場し、海水浴場内で波に乗る人がいました。昭和になり戦争が終わると米兵が持ち込んだサーフボードを見本に日本でもボードを製造するようになり、サーファーが急増していきました。私がサーフィンを始めたのは、1978年で、それまでは3mあった長く重いボードは姿を消し、取り回しのし易いショートボードに変わりました。1990年代になるとロングボードがリバイバルし、現在では多種多様なタイプのボードでそれぞれが違った楽しみ方をしています。松本順がかつて国民に提唱した海水に浸かることが健康にいいということは、健康感みなぎるサーファーが身を持って証明しています。

 そんな大磯海水浴場140周年を記念して大磯町が海に関係する催しを企画し、ビーチヨガとSUP教室を行うことになりました。私が講師となり照ヶ崎海岸で「SUP教室」を行いました。町内在住の12名の参加者が140年の歴史に思いを馳せながら照ヶ崎の岩間でSUPを楽しみました。殆どの方がSUP初体験で、普段泳ぐこともない照ヶ崎海岸にて、アオバトの名所で遠く富士山を眺めながらの海上散歩は、大磯ならではの貴重な体験となったことでしょう。







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憧れのプロサーファー

2025-06-26 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「憧れのプロサーファー」             2025.6月

 「遊びを仕事にするもんじゃない。」と先輩が言っていた。しかし、一度サーフィンの世界に足を踏み入れた者は皆プロサーファーに憧れる。好きなサーフィンで食って行けたら。食って行かずともサーフィンを極めた者をプロと言うのなら、その領域に達したいと思うのは当然のことだろう。海の中でプロは注目を浴びることになる。「あの人はプロだよ。」ということは、誰もが知っている。私も10代の頃プロサーファーに憧れ、その動きを観察した。波の選び方、姿勢、板の持ち方、歩き方、その佇まい。どれを取っても格好よく、友達と真似たものだ。大磯にも格好いいプロサーファーはたくさんいて、それを間近で見ながら学んでいった。
 小さなアマチュアの大会で勝ったりすると自信がつき、だんだん大きな大会に出るようになる。BクラスからAクラス、スペシャルクラスへとレベルが上がってくると、湘南や千葉、伊豆の選手と戦うようになり、実力が付いてくる。共に戦ったライバルたちがアマチュアで成績を残すとプロの世界へと旅立っていく。自分にも可能性があるのではないかと思い込み、プロに挑戦したが、夢と散った。

 私がマッサージ師になったのはサーフィンを続けるための手段だった。20代前半でサーフィンを中断し、勉強をしてプロのマッサージ師になった。手に職を付け、自由な時間を作って海に行く。30代で再び海に戻ってきた。その頃には家族ができ、子育てをしながら、仕事と家庭のほんの僅かな時間を見付けて海に入った。プロのように毎日海に入れなくても、波のある日にできれば、それだけで十分満足だった。

 自分の果たせなかった夢を子に託すというのはよくある話で、親が子にサーフィンを与え、いつしか親より上手くなる。そういう親を見て育った子もまたプロを目指すというのも自然な流れで、私の娘はアマチュアで日本一になった後、昨年プロになった。プロというのは、称号ではなく、それで食っていけるのが本当のプロだが、プロの壁は厚く、負けて帰ってくる度「お疲れ。」としか声を掛けられないが、ここから先は自分の力で道を切り拓いていくしかない。



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ホテルのマッサージ

2025-05-26 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ホテルのマッサージ」         2025.5月

 知り合いの居酒屋のマスターの紹介で、ある宿泊施設の客室でのマッサージをすることになった。ただひとつだけ懸念材料があった。自分の治療院であれば、施術することが危険とみなされる飲酒や重い疾患が隠れている場合などは、お断りする場合や一旦医療機関での受診を勧めることがある。その裁量、責任は全て自分にある。しかしここでは私の施術を受けてくれるお客様であり、宿泊施設の宿泊客なのだ。施術方法はマッサージ師に委ねられているもののリスクにどう対応するか不安があった。私はどこにいようと治療院と同じように臨むことにしている。プロなら触っただけで分かるのだろうと、多くを語らぬままベッドに寝てしまう。「旅の疲れを癒すだけ。」という雰囲気に流されてはいけない。

 客室に赴くとお客様は首を寝違えていた。そういう場合患部を刺激し過ぎると筋肉の炎症を助長させてしまい逆効果になる。それを踏まえて痛みの箇所から離れた部分の操作を試みていた。しかしそこではないと自らの手で私の手を首に誘導しょうとする。日本語が全く話せない方だったので、英語でこちらの意向を説明した。こういう場合はよりシンプルな施術に留め、時間を短縮し、余計な刺激を与えず体の持つ再生力に任せた方が効果的だ。マッサージのお陰でその旅を台無しにしてはならない。

 そんなシビアーな体験ばかりではなかった。体の特徴を見極めた後に施術を行うと終了後「体のことを詳しく診て、説明してもらったのは初めてだ。」と喜んでいただき、チップをいただいたり、名刺を要求されることもあった。

 環境を変えたことで新しいアイデアが生まれることにも繋がった。治療のマインドを持った慰安的マッサージとでも言うのか、初心に返り、忘れかけていたサービスという観点から施術に対する考え方が変わる経験になった。開業30年も経つと色々なことがマンネリ化し、技術や考え方が劣化してしまう。今回のこの貴重な体験のチャンスを与えてくれた居酒屋のマスターには感謝している。



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うみをピカピカにしよう!

2025-04-24 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
 「うみをピカピカにしよう!」       2025.4月

 子どもの頃に遊んだ二宮の海にもっと触れ合う機会を作りたいと、8年前から毎月第4日曜日の10時から梅沢海岸の清掃を行っています。最初は後輩に声を掛けると、その友達が友達を連れてきました。次第に人数が増えていき、今では20名ほどの参加者で活動しています。朝から海岸に出て無心でゴミを拾い集めると達成感が湧き、家に帰ってからのコーヒーがおいしいのです。

 そんな気持ちのいい活動をもっと多くの人に知ってもらいたいとPR動画を作ることになりました。ゴミを拾うシーンだけではなく、何かもっと面白いものが作れないかと思い、オリジナルソングを作ることにしました。さて誰に作ってもらおうと考えていると、二宮出身のシンガーソングライター小梅ちゃんがいいと教えてもらいました。二宮のラディアンで演奏後に直接お願いすると、快く引き受けていただくことになりました。彼女は、後日実際にビーチクリーンを体験し、書いた詩は、素直な気持ちが表現され、ウクレレのメロディーが海に合います。特に私が好きな歌詞は、「ザクザク進む砂浜。」「板、くぎ、他にもたくさん落ちていたよ。」二宮の海は砂利浜で、踏むと本当にザクザクと音がします。そして板やくぎを拾ったのでしょう。なぜこんな所にこんな物が落ちているのだろうという物が海には落ちています。少女の率直な感想が綴られています。

 次にその曲に合わせてダンスを踊れたらもっと楽しくなるのではと思い、振り付けを考えてもらえる人を探していました。そこへうちに治療に来ている患者さんのご家族の方が振付師だったことを思い出しました。プロにお願いすることに気が引けましたが、お話しすると引き受けていただくことに。そしてこのダンスを誰に踊ってもらおうと考えていると、うみぴかに参加されている方に二宮西中のダンス部を紹介してもらいました。東京から振り付けの先生をお招きし、西中で最終チェックを行いました。

 そして撮影当日、梅沢海岸で、一般のビーチクリーン参加者にもダンスを覚えてもらい収録をしました。撮影や編集は私の弟が担当しました。こうして二宮ゆかりのアーティストのみなさんや多くの方々の力を結集して遂に完成したのです。動画は「うみぴか」検索。

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鳥の海

2025-03-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「鳥の海」                        2025.3月

 裏返しの船、下半分壁のない家、海に近づくにつれ何もなくなり、割れたコンクリートの隙間から生える雑草が揺れていた。この堤防の先に海があるのは分かっているが、瓦礫の山に行く手を阻まれた。瓦礫に埋もれた一棟のピンク色のビルがあった。辺り一面全て破壊された泥色の世界に、原色が放つ異様さが脳裏に焼き付いて離れなかった。

 東日本大震災の津波の甚大な被害を受けた宮城県亘理町に、私達は震災直後から数年間、毎年災害ボランティアとして被災者にマッサージを行っていた。そんな経緯があり、この町には思い入れがあった。

 この3月上旬、再び亘理町を訪ねた。瓦礫はきれいに撤去され広い芝生の公園に整備されていた。そびえ立つ堤防によって海に近付けば近付く程海が見えなくなる。その堤防の下にあの建物は今も建っていた。当時は白黒の世界の中に異彩を放つ蛍光ピンクに見えた外壁は実際は茶色だった。この建物は当時から宿泊もできる温浴施設だった。津波はこのビルの2階まで達したと言う。私は一度この最上階にある露天風呂から堤防の向こうの海を見たいと思っていた。エレベーターで5階に上り、更衣室で服を脱ぎ、湯気をかき分け、ドアをもうひとつ開けた。そこには天空の露天風呂があり、太平洋を見渡すことができた。湯に浸かりながら隣にいた地元の人に、震災当時の壮絶な体験談を聞いた。

 駐車場に降りてきた時、堤防頂上に行ける長い階段が目に入った。しかし、威嚇してくるような壁は近付くことさえ躊躇させた。海を見るなら津波に耐え生き残ったこのビルの方が堤防の上より安心だと本能的にそう思ったからこのビルに上ったのだと今分かった。こんなにも巨大な壁を作らなければならなかったのか。それを乗り越えた水の量とはどんなものだったのかを想像するだけでここから逃げたくなる。露天風呂で話をした男性は町の復興を見守りながら住み慣れたこの町で暮らしていくと語っていた。

鳥の海 阿武隈川河口南にある土砂の堆積によってできた湖





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治療院ってどんな所ですか?

2025-02-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「治療院ってどんな所ですか?」            2025.2月

 大磯駅から図書館を通過し、国道一号線を渡って海へ向かった道路沿いにあります。指のマークの赤い看板が目印です。ビッグマッサータハラとは、デカいマッサージ師という意味です。白いドアを開けるとマッサージベッドが一台置かれるだけのシンプルな治療院です。床は無垢の板張りで壁は漆喰塗り。窓からは光が差し込み、夜の照明は折り上げ天井になっていてライトが眩しくならないようになっています。大磯在住の建築士さんにマッサージされる側の視点で設計していただきました。治療院は健康になる場所なので、気持ちの良い空間になるようにこだわりました。天井にロングボードが掛けられサーフショップかと言われますが、私自身が一番リラックスできる空間かもしれません。

 医学には西洋医学と東洋医学があります。西洋医学は薬や手術によって悪い所に直接アプローチします。東洋医学は人そのものにアプローチします。内面も含め体全体を見て、聞いて、触って、動きを見て全体を観察します。相手の悩みがどういうものなのかを想像することから始めます。その次に姿勢や体の使い方の特徴を捉え、症状の原因を説明します。後は私に任せて下さい。手技による刺激を最小限に留めて施術します。改善が見られると元気になっていきます。私は「治療院は元気な人が行く所」だと思っています。ビッグマッサーに来ている人は、明るく元気な人ばかりです。元気な体を見せてください。元気だからこそ定期的に健康状態をチェックし、ベストコンディションをキープすることが再発の予防につながります。





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2対8

2025-01-27 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「2対8」                            2025.1月

「2割の痛さと8割の気持ち良さ。」患者さんに治療の感想を聞くとこんな言葉が返ってきた。これを追求してきた。自分が意図してやってきたことを評価してもらい嬉しかった。
 緊張すなわち収縮している筋は触ると痛い。慢性的に筋肉が収縮し、硬くなっているポイントに刺激を与え、血流を促すことで老廃物を除去し、筋の緊張を緩めることを目的にマッサージをする。ポイントを捉え、どういう指の使い方でどのくらいの圧をどのくらいの量加えるのか。それが試されるのだ。

 そしてここからが大事な話だ。収縮した筋の裏側には必ず伸びた筋が存在する。伸びた筋はマッサージで縮めることはできない。眠っていたかのように伸びてしまった筋に対して自分で筋肉を収縮させて呼び起こすのだ。全力で収縮しようとすると縮んでしまっていた裏の筋が自然と緩んで働きを応援するようになっている。こういった生理現象を利用して運動療法を施すことで収縮と弛緩のバランスが整う。そうした療法をマッサージの後に加えることで、正しい本来の体の使い方が蘇り、爽快感を味わうことができるのだ。

「究極のマッサージ」とは、相手の悩みを理解することに始まる。問題の場所はここだということを痛みという飛び道具を使って再認識させる。それだけでも気持ち良くはなる。しかしその感覚は一時的なものに過ぎない。次のステップは自らの体を運動させ、動ける体にすることだ。2割の痛さの後に来る8割の気持ち良さの中にはこの要素が多分に入っているはずだ。



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懐かしの湯河原駅

2024-12-26 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「懐かしの湯河原駅」                 2024年12月

 熱海観光をするため、今回は珍しく電車で行った。小田原を過ぎ、早川まで来ると車窓から山の紅葉と深く青い海が見えてくる。根府川、真鶴と進むうち、忘れかけていた40年前のことを思い出し始めていた。

 私は21歳の時、湯河原衛生学園という鍼灸マッサージの専門学校に毎日通っていた。湯河原駅から徒歩15分くらいの所に神社があり、その裏山に学校はあった。校舎といってもトタン張りの平屋でみかん小屋かと思うような建物だった。玄関を入ると職員室があり、板張りの廊下を進むと両脇に教室があり、床がミシミシ言うような階段を2,3段昇った中二階の奥にも教室があった。そこで解剖学や生理学、漢方学、つぼの勉強をした。板の間の実習室にはベッド並んでいて、鍼灸の実技を。反対側の畳だったかじゅうたんだったか忘れたが、そこに細く薄い布団を敷いてあん摩の授業があった。40年前はまだあん摩という言葉の方がなじみがあった。ゆかたなど衣服の上から手ぬぐいやタオルを当て、手で擦るとかパンパン音を鳴らしながら叩くというような手技のことをあん摩という。マッサージはオイルやパウダーなど滑剤をつけ、皮膚に直接触れ、滑らすように行うものいう。授業では生徒同士組になり先生に習いながら実践するのだが、私は朝学校に行く前にサーフィンをしてから行くので、程よい疲れの中、鼻から海水を垂らしながら寝てしまって、30分の交代時間が来ても夢見心地で交代せずずっと実験台になっていた。そこで国家資格を取り、今もこの業に就き続けている。

 そんな学び舎があった湯河原駅のホームを通り過ぎながら40年前を懐かしく思い出していた。




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30周年

2024-11-27 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「30周年」                 2024.11月

 1994年12月15日、OISO養生館を開業した。場所は大磯駅入り口交差点。この新聞を発行している渡辺新聞舗の正面だ。30歳だった。店名をレポート用紙にマジックで書き、ガラス窓にテープで貼り付け、電話とベッドだけでスタートした。

 気合十分でオープン初日を迎えた。開業案内を見た友人たちがお祝いに駆け付けてくれたのは、ありがたかったが、肝心の患者さんが来ない。朝から一人も来ないまま師走の日は暮れて行った。諦めて帰る支度をしていると突然ドアが開き「今からマッサージできますか!」と男性が入ってきた。今も忘れもしない、私の第一号患者さんだ。初めての売り上げを大事に握りしめ家に帰った。暮れから正月休みを返上し、目の前を通る箱根駅伝を横目に見ながら仕事をした。半年、一年と経つうちに収入は順調に増えて行った。4年後には国道一号線沿いの広い店舗に移り、スタッフを雇うようになった。

 2002年修行先だった養生館という暖簾分けさせてもらった屋号から自分のオリジナルなスタイルを追求したいとの想いからビッグマッサータハラに変更した。患者さんは治療技術だけを求めて来るのではないことを知り、接客態度や営業努力も大事だということを失敗を経験しながら学んでいった。それから10年後海の近くの今の場所に移り、ここで16年が経ち、還暦を迎えた。

 開業当初、6年も修行したのだからもう安泰と思っていた。しかし蓄積した技術は半年で尽きた。そこから先は専門書を読み、セミナーを聴講したりして新しい考え方、新しい技術を取り入れた。深夜にアルバイトをしたこともあり、苦労しながらどうしたら多くの人に喜んでもらうことができるのかを考えた。常に「自分にしかできないこと」とは何かを追求してきた。この体を使って元気を与える。これからもうひと花もふた花も咲かせるつもりで自分らしく生きて行く。



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「育てるということ」

2024-10-28 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「育てるということ」        2024年10月

 技は見て盗め。分からないことがあったら自分で調べろ。それでも分からなかったら聞いてこい。早くうまくなりたかったら自分で何とかするしかない。今度は人を雇い逆の立場になった。自分がどう習ったか。教わったように教えるしか術はない。自分の師匠も厳しかったが、チャンスを与え、挑戦させ、失敗を攻めず、フォローしてくれた。

 話は変わるが、マッサージに来た私の母に「寂しいから花でも置きなさいよ。」と花を花瓶に生けて治療院のカウンターに飾ってくれた。私はそれをそのまま放置した。3日で花は萎れ、枯れてしまった。それを見た母は、「花も育てられないで、子どもを育てられるか!」と言った。花は、水を入れ替え、茎を切って手入れをすることで、活き活きと咲き続けることができる。人間も花のように優しく育てればきれいに咲くということを母に教えられた。

 私は自分のことを優先してしまい、弟子をどうしても育てることはできなかった。彼らを活かすことができなかった。こうして人を雇ってみて、経営の大変さが分かった。そして我が師匠は、わがままな弟子の私を給料まで払って育ててくれたことに感謝する。

 弟子を育てる。子を育てる。どちらも大変だが、それを経験したことは自分の糧になった。



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