京大植物園TODAY

京都市左京区の京都大学北部キャンパス内にひっそり佇む現代の杜、京都大学理学研究科附属植物園の日々の風景を紹介します。

『どのように見られるか』(Ishida Osamu「動物園は見世物か」動物園研究vol.10:1)

2006年10月18日 01時09分07秒 | Weblog
「動物園研究」という小さな雑誌が、動物園の管理や運営に日々当たられている現場の方々を中心とした、「動物園研究会」によって発行されています。(ちなみに管見の限りでは、植物園に関しては、「研究紀要」や論文集はあっても、このような現場で日々働く人々による雑誌は日本に存在していません。)植物園の植物とは異なり、動物園の動物は、「かわいそう」と見られることも多く在るようです。最近の「動物園研究」誌に掲載されている多摩動物公園の石田戢氏による論考から、この点について触れられている箇所を少し引用してみたいと思います。

(以下、石田戢「動物園は見世物か」In:動物園研究vol.10.No.1、2006年より、一部抜粋・引用;同誌p.2;p.3)

『どのように見られるか』

『高村光太郎の一連の詩集に「猛獣篇」というのがある。ここでは、ダチョウ(駝鳥)、ホッキョクグマ(白熊)、マントヒヒなどの動物園動物が表現され、自然の動物として表現されたものにライオン(獅子)がある。この両者を比較してみれば、かつて明治時代の動物園がどのように受け取られていたかが判る。

動物園はこれまで、少なくとも70年代以前においては、珍しい動物を見る場所として人口に膾炙してきた。この精神的基盤は、簡単には払拭できないであろう。見る側からすれば、「楽しく」「面白く」は必須であると同時に、「かわいそう」という観念は抜けきらないのだ。その意味で動物園は両義的である。しかし時代の流れとともに、マジョリティは変化しつつある。見る側からすれば、「楽しく」「面白く」「崇高」でなければならなくなっている。少なくとも、「かわいそう」なものは見たくないのである。それは「見世物」とか「娯楽」とかいった観念的表現ではなく、見る側から具体的にどのように見えるかが重要になっているといえるのである。』(同誌、p.2)

 『猛獣篇 マント狒狒 (高村光太郎)』

檻の中のマント狒狒は瞋恚にくるふ。

怒ることに眼くらみ 憤ることに我を忘れる。

尖った鼻と逆立つ蓑毛とまっかな尻とを誰に恥ぢよう。

檻をゆさぶり鉄に噛み付きひとり荒れて 疲れを知らぬ永遠の業火。

物くふことにみづからを罵り、情事はただ異性虐殺。

笑おうとして怒号し、泣かうとして叫喚する。

(中略)

決して馴れず、決して脱落せず、此世に絶えず目をみはって 彼はただ怒る、怒

る。(同誌、p.3)