
3/10(金)
ときどき
来週の月曜日のメニューが謎なんです(写真)。
キン肉マンマン丼…でしょうか?
何かの具材でキン肉マンの顔をかたどった丼とか。
個人的見解としは、
「これは『肉マン丼』のつもりで書いてあって、肉まんの具が乗った丼物ではないか。」と思うのですが。
いずれにしても何が出てくるか、今からドキドキです。
( ̄∇ ̄)


来週の月曜日のメニューが謎なんです(写真)。
キン肉マンマン丼…でしょうか?
何かの具材でキン肉マンの顔をかたどった丼とか。
個人的見解としは、
「これは『肉マン丼』のつもりで書いてあって、肉まんの具が乗った丼物ではないか。」と思うのですが。
いずれにしても何が出てくるか、今からドキドキです。
( ̄∇ ̄)
NHKのハートネットTVが来た。
その中で、ネット依存のことが話題になって、
「ネットって顔が見えないから感情が伝わらない。」
的な意見が出た。
今、私は、書き込んでいるが思いっきり感情を注ぎ込んでる訳で、
Sさんと、すごいタイムラグで熱い会話をしてると思っています。
リアルタイムのチャット時代の人は、単に自分の国語力を棚に上げて、こんな便利な道具を使いこなしてない言い訳をしているように思うんですけど。
私には、Sさんの顔が見えないけれども、心の隅々まで共感できてるように思っていますけど。(?)
ネット依存で、多幸感に浸っていましたがこんなに直接的にイジメてしまい、どう償ったら良いか分かりません。
これからどうすればよいのか、傷つけてしまった人にどう償えばよいのかわかりません。
私は、ひどいやつです。でも一人の人間としても生きていかねばなりません。
少し考えてみます。
今、日本では精神分裂病患者は、カテゴリーとしてもう分割できない当事者として医学界全般で認められており、パトカーで精神病院に連れて行かれると否応なく医療保護入院となり隔離室に入れられ鎮静薬を処方される。
さて、分裂病患者として症状と人間としての誇りは分割を出来ないのか?分けて考えることは出来ないのか?確かに症状は非日常的なものであるがそれは個人と症状として分割できないのか?
個人的にセラピーを行ったことがあるが、いちばん大切なのは、
共感と受容である。これは、個人に内在する共同体感覚に大きく根ざしている。
一般的に、病者はセラピストに向かないと言う見解であるがpeerとしての活動をとうして
クライアントとの距離が近いこともあり共感しやすい。
受容、の問題であるがこれは、セラピストの人間性や生活史ひいては、個人の器の大きさという、
極めて計りにくい尺度でセラピーの結果が左右されるであろう。
私は、個人的に人とのコミュニケーション能力に長けていると思っているので、
異性との恋愛に発展してしまう。バウンダリーを上手く引けないので
多重恋愛の傾向がある。皆好きなのだが相手は自分だけ愛して欲しいわけで、
恋愛は上手く行かない。
受容が上手いとセラピーや恋愛、人とのコミュニケーションが上手くいく傾向があるようです。
パソコンのCPUならオーバーヒートしますが生物的パソコンの脳は、ランニングハイの様な躁状態です。
ウツ的状態から一気に躁状態にシフトするのは、やっぱり一般的に言うと安定してないように映るのでしょう。
今、人間の快楽について考えています。
単純に性的満足でなく、主として人間は多様な快楽があります。
例えば、薬物によって得られる安易な快楽、社会的にプライドを誇示することによる満足、
村上龍の愛と幻想のファシズムに出てくるゼロのトウジに賭けるギャンブルによる快楽
私が、今まで経験した最高の快楽とは、山登りの末に経験するランニングハイと同じ脳が酸欠になっている
時放出される脳内麻薬である。
Sさん、睡眠薬飲んでシステムダウンします。
病者を笑うことは、同じ病者として何か屈辱的であった。
笑われることで安心を得られるという。精神科医のコメントはやはり、上からの見方の様な気がした。
オープンカウンセリングの考え方は、アドラー心理学協会前会長の野田俊作の著書に出てくる。
オープンカウンセリングの良い点は、同じような悩みを持つ集団で心理的距離が近い時、共感が生まれやすいそうである。
共感が生まれると、問題に対する共通意識が芽生え、セラピーの効果が強まるそうである。
野田氏の合宿ではダンスを用いるらしい。バカバカしいようであるが、著書では効果があると謳っていた。
体を使って、集団心理療法を行うのであろう。精神と、肉体は一体のものというアドラーの考え方に合致する。
アドラー、アドラーと言ってアドラーにかぶれているというわれそうだが、アドラーの教科書を読んでみると
本当に当たり前のことを難しい言葉で行っているだけなのである。これは、認知行動療法にもいえる。
ただ、理論を読んで理解することと、うまく言えないが体感することは異なるようである。
これは、上に述べた精神科医の笑えば共感が深まるという発言に病者としての違和感を感じたことと同じだと思う。
笑われることは、幸せではないと思う。やっぱり自分を上に置き、異質なものをみて笑っている感じがした。
向谷地生良の考えていることは、NHK教育の宗教心の何とかという番組で、正しく伝えられていた気がする。
その番組を見て、この人の真似をしてみようと思った。凄い人である。