日盛りの道の上で

日々の日記と家族のこと、仕事と趣味、雑感少々

せつない季節

2010-09-26 22:59:49 | インポート
過ごしやすい季節になったのに、これから来る冬を思ってせつなくなることはありませんか。

今が人生で一番素晴らしいときだと思って、これからこれ以上の素晴らしいことはないのだと思ってせつなくなることはありませんか。

昔の楽しいことを思い出して、そしてそれがもう二度と来ないと知ってせつなくなることがないでしょうか。

私はよくあります。

意味の無いことと、分かっていても、歳を重ねても、夏が終わるこの時期には、よくそういう気分になります。

それでは、前に進めんだろうとYouTubeで聞いた曲はベッドミドラーの「The Rose」でした。


明日からまた、仕事がんばろう。




中国という隣人

2010-09-24 17:14:09 | インポート
国粋主義者でも、中国人が嫌いなわけでもないのだが、今回の尖閣諸島近海のトラブルに対する態度は、中国という国の腹黒と狭量を世界に示してしまった。

海底ガス田が見つかったというだけで、いままで見向きもしなかった小島の領有権を主張し、話し合いも協調も図ることなく自国の領海線を設定し、資源の一人占めを狙う。

やくざの鉄砲玉のように挑発的な操業をする漁船を送り込み、日本の海上保安庁が正当な法行為を実施すると、両国間の協議さえ実施することなく、「すべての責任は日本側にある」と国の最高責任者までが言い出し、駄々っ子のようにさまざまな圧力を(やってないよーと言いながら)かけてくる。

国の成熟度合いを人間の年齢で比較するなら、日本はちょっと盛りを過ぎた40代前半、中国は体だけ大きくなったが頭は7~8才の小学生だろうか。

今回の日本側の落ち着いた対応は確かにそれぐらいの差を感じさせる大人の対応だったと思う、そして中国は目先の利益を求めるあまり、どれだけの国際的な信用と好感を失ったか分かっていない。


まつりのおわり

2010-09-19 20:30:17 | インポート
今年の猛暑も9月のなかばになればさすがにかげりを見せ、朝晩の涼しい風がありがたいこの頃です。

明日は熊本県民なら知らない人はいない、「ぼした祭り」の随兵行列の日です、豊臣秀吉が血迷って朝鮮出兵を企てた時代、すでに肥後半国の領主だった加藤清正はその尖兵として朝鮮へ赴き蔚山(ウルサン)城の戦いなどで武功を挙げ、領地肥後へ凱旋します、領民はその無事の帰還と清正の武功をたたえ、馬を押し立てて盛大な祭りの行列を催しました、かけごえは「ボシタ、ボシタ、ホロボシタ。」朝鮮を滅ぼして帰ってきた、ということでしょうか、だけど今は国際問題になるから、この掛け声は使いません。

(そこまで気を使ってどうする。)

で、祭りのあとには、いつの間にか早くなった秋の夕暮れと、赤とんぼと、人を正気に導く風ばかり。

中島みゆきの「まつりばやし」は今の時期になると、いつも聞きたい歌です、「肩にまつわるー・・・」と彼女が語りかけるように歌いだすと、私の祭りは終わり、冬支度を始めるわけです。

・・・中島みゆき 「まつりばやし」の歌はは以下にあります、興味のあるかたは見てください。



死について考えてみる

2010-09-18 11:55:34 | インポート
昔読んだ井上靖の短編に「補陀落渡海記(ふだらくとかいき)」というのがありました、何故突然こんな小説が出てくるかと言えば、50歳を過ぎて否応無く自分の人生の終着点が視界に入るようになって、そのことについて考える時、どうしてもこの小説の主人公の心の葛藤が身に迫るからです。

昔、和歌山の那智に補陀落寺という寺があり、そこの住職は60歳になったら海の向こうにある仏様の国「補陀落」を目指して一人船に乗り海を渡らなければならない、船は小船で帆や櫂があるわけでもなく、補陀落渡海をする僧が入るための窓の無い四角い箱が作りつけられているだけである、もちろん送り出す村人も、送り出される僧もその船で補陀落などに行き着けないことは判っている、日照りにさらされてミイラになるか、荒波に船が壊され魚の餌になるか、僧は曳航の船から切り離され波間に漂う渡海船の箱の中で死にたくないと思う。

人はみな、というか生きているものはみな死ぬことは避けられないことですが、人はその死の不安を少しでも少なくするために宗教というものを考え出したのではないでしょうか。

ならば、その専門家である僧が栄光の死を前に「死にたくない」と思う心の葛藤はいかばかりのものか、またこの小説を読み返しながら凡人の死について考えてみたいと思っています。

・・・Webに上記の小説についてよく書いてあるサイトがありました、興味のある方はご参照ください。



重ねた経験の行方

2010-09-10 09:04:26 | インポート
年を取ると、重ねた経験により生きることに対する見識が深まり、誰でも聖人君子になれると、若いころは思っていたが、どうもそうではないらしい。

新聞やテレビを賑わしているさまざまな出来事の主人公は未熟な若者(すべての若者が未熟なわけではない、未熟の比率が高いというだけ)よりも、むしろ不惑を過ぎたいい大人たちである。

彼らの生きてきた長い時間における経験と常識はどこへ行ったのだろう、子供のような自己本位の理屈を振り回し、声高に自己弁護する彼らの姿は、子供たちや若者に人生への不信感を抱かせるだけだ。

目的地のない旅が無意味な疲労だけを重ねるように、生きることの目的を持たなければ経験も常識もただ行き過ぎるだけの風景にしかならない。