日盛りの道の上で

日々の日記と家族のこと、仕事と趣味、雑感少々

雑多なこと

2010-10-29 10:23:11 | インポート
週の初めから九州でもずいぶん寒くなって、半そでワイシャツで自転車通勤していたのが、今週から長袖+ウィンドブレーカー+軍手のコスチュームになりました、1か月程前まで短パンにTシャツで来ても山ほど汗をかいて、職場に着くなりシャワーをあびていたのがウソのようです。

季節だけでなく、私の周りでも大きな出来事がありました、甥が事故で1週間前に亡くなりました、20歳、将来の希望に満ちて大学で土木工学を勉強していた彼は、かけつけた私たちの前で眠っているかのように横たわっていました、通夜、葬儀とあわただしく終わり、火葬場で彼の骨を拾うときは泣けて、泣けてしょうがありませんでした。

世の中には少しだけの幸福と、圧倒的に多くの不幸が存在するのでしょうが、その不幸が自分たちに降りかかってきたとき、不条理と神の不在を感じます、それでも淡々と、粛々と自分の人生の終着点を目指して歩くほかはないのですが。


時代は変わる

2010-10-18 11:04:02 | インポート
今日面接を受けに行っている長男も、すでに大阪の会社の内定をもらった次男も、来年はこの家にいないのだなあと、思いながら今満開でせつない香りを漂わせる庭のきんもくせいの下に置いたベンチに腰掛けて、夕方、ビールを飲んでいた。

私の転勤で、実家であるこの家に帰ってきたのは、子供たちが小学6年と1年の時だったので、もう、15年近く前のことになる。

穏やかに暮れていく秋空を見上げると、あの時と何も変わっていないのに、私も妻も年をとり、息子たちは巣立とうとしている、その間にはずいぶんいろいろなことがあったのだけれど、田舎の村では風景は変わらず、もちろん空も空気も変わっていない、幾人かの人が亡くなり、幾人かの子供が生まれ、年に1回きんもくせいの花は咲き香る。

息子たちはここを離れても、時にはこのきんもくせいの香りを思い出すだろうか、時代は変わり人は老いても、親は子を想い、子は多くの場合、親の年になるまでそのことに気づかない。

(写真はWikipediaから拝借しました)



ある日・・・

2010-10-11 22:22:41 | インポート
色即是空  色は即ち是れ空なり
空即是色  空は即ち是れ色なり
色是色    色は是れ色にして
空是空    空は是れ空なり

秋の空は、是れ色であり空である。
連休の最後の日は九州も晴天で、兼業で農業をやっている私は稲刈りに汗を流していました、2反→20アールを刈り終えて今日は終了、残りは明後日の予定です、何故続けてやらないかというと稲を刈った後、その籾を乾燥する必要があるのですが、農協にある乾燥する装置の需要が集中するため、籾を持ち込んでいい日が指定されてしまうからです。

まあ、結構ハードな仕事なので続けてやるのはつらい、で、明後日は平日なので会社は休みます、秋空の下、何も考えずにコンバインで稲を刈っていたら、上記の「正法眼蔵」のあまりに有名な一節が言葉ではなく文字の形で頭に浮かんできました。

道元禅師も同じこの日本の秋の空を見ていたことでしょう、もっとも、彼の目はその先にある生きることの真実を見据えていたことでしょうが。

今年も無事に稲が収穫できたことに感謝、そして合掌、あしたも平穏な日々でありますように。

テレビの愚・読書の無

2010-10-04 08:59:34 | インポート
テレビ番組の制作者側では番組の主な視聴者層を、50代主婦高卒に想定しているそうだ、確かに平日昼間のテレビ番組はあからさまにその意図を感じるし、ゴールデンタイムでも似たり寄ったりの番組ばかり。

テレビを見るから愚かになる、のではなくて、愚かものがテレビを見る、ということも言われているそうだ、ネット動画全盛の時代に、50代主婦高卒向けに作られたバラエティや、温泉とグルメ紹介や、安易なドラマを半分口を空けて見ている姿は決して知的とは言えない。

読書をしている姿は知的である、読んでいる本がタレントのゴーストライターが書いた、お涙ちょうだいものであっても、周りにはわからないからなんか知的に見える。

どこが違うのか、テレビの場合は、ただ与えられたものを嬉々として疑いもなく受け入れること、読書の場合は少なくともそのコンテンツを選択したその人の意志があること、多分そういうことではないかと私は思う。

と、ここで読書のすすめを結論付けるかと言うとそうではない、非生産的なという意味ではどちらも何も生み出しはしない、分厚い本に書かれた真理の行間から天啓に近いものを得たとしても、行動を起こさなければなにも生み出しはしないし、変わりもしない。

ここでの問題は、自身の内面でのとらえかた、そしてそれを表現する力なのである。