日盛りの道の上で

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死について考えてみる

2010-09-18 11:55:34 | インポート
昔読んだ井上靖の短編に「補陀落渡海記(ふだらくとかいき)」というのがありました、何故突然こんな小説が出てくるかと言えば、50歳を過ぎて否応無く自分の人生の終着点が視界に入るようになって、そのことについて考える時、どうしてもこの小説の主人公の心の葛藤が身に迫るからです。

昔、和歌山の那智に補陀落寺という寺があり、そこの住職は60歳になったら海の向こうにある仏様の国「補陀落」を目指して一人船に乗り海を渡らなければならない、船は小船で帆や櫂があるわけでもなく、補陀落渡海をする僧が入るための窓の無い四角い箱が作りつけられているだけである、もちろん送り出す村人も、送り出される僧もその船で補陀落などに行き着けないことは判っている、日照りにさらされてミイラになるか、荒波に船が壊され魚の餌になるか、僧は曳航の船から切り離され波間に漂う渡海船の箱の中で死にたくないと思う。

人はみな、というか生きているものはみな死ぬことは避けられないことですが、人はその死の不安を少しでも少なくするために宗教というものを考え出したのではないでしょうか。

ならば、その専門家である僧が栄光の死を前に「死にたくない」と思う心の葛藤はいかばかりのものか、またこの小説を読み返しながら凡人の死について考えてみたいと思っています。

・・・Webに上記の小説についてよく書いてあるサイトがありました、興味のある方はご参照ください。