空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく

ガウディの言葉

2007-03-29 12:40:09 | art
アントニオ・ガウディの建築が好きで
バルセロナに行ったことがあります。

建築でこれをやっちゃうのか?という奇想天外さ。
それを実現してしまうバルセロナ市民の心意気
(カタルーニャ魂?)
というのも感じました。

今もなお造り続けているというサグラダ・ファミリア。
実際に行ってみて、
よく写真で見るその裏っかわが
まだほとんど工事中といった趣きなのに驚きました。
あと100年かかるのかな?

でも、近頃カンドウしたのはこのガウディの言葉です。

~創造的たろうとして脇道にそれてはならない。
通常なされていることを観察し、
それをよりよくしようと努力すればそれでよい。

創造とは起源に戻ることである。~アントニオ・ガウディ

オドロキました。
あれだけ独創的なイメージと思っていたガウディの芸術は、
なんと、起源に戻る努力だったとは・・。

柳宗悦「南無阿弥陀仏」

2007-03-27 14:48:01 | nam amita-yusu
わたしの好きな柳宗悦さんが
そのものズバリ『南無阿弥陀仏』という本を書いています。
その反響がいかに大きかったかは、ご本人がこう書かれています。
「私は今まで幾冊かの本を書いたが、出版後数年を経ても
引きつづき見知らぬ人々から手紙を貰うのは
この『南無阿弥陀仏』の1冊である。」

以下本文より抜粋
<序>
日本の村々を歩くと、南無阿弥陀仏の六字を刻んだ石碑の見当たらぬ地方はないくらいである。念仏宗の寺々はもとより、路傍にも樹陰にも、幾基かの碑をよく見かける。(略)日本国中でのその総数は幾百千万基なのか見当さえつかぬ。おそらくどんな碑も六字の数には遠く及ばぬ。(略)

だが移り変わりの激しいこの世である。とりわけ知に傾く教えは、多くの者を懐疑に導いてしまった。それ故六字の不思議さに心を注ぐ者は日に日に衰えてゆく。だが、これを棄ててしまってよいものか、少なくとも幾千万億の魂が、この六字で安らかにされたという事実を棄てることは出来ぬ。懐疑が人間にもっと優れた安心を呼び起こすならそれでよいが、誰も知る通り人間の暮らしは日に日に不安に沈んでゆく。何か大きな落ち度があるからである。だからもう一度六字の意味を想い返してよい。たとえ昔のような形で称名が興らずとも、何かの形でそれが蘇ってよい。

何のために念仏するのかという人もあろうが、(略)だが、何々のためというが如き性質に、どれだけの価値があろう。(略)一遍上人は「念仏が念仏する」といわれたが、金言である。人間はどんな仕事を営むもよいが、仕事が仕事するまでに至らねばならない。それがやがて念仏の至境だということが分かろう。

そういう意味で、真実な仕事は凡て念仏に外ならぬともいえよう。(後略)

<趣旨>
この一篇は「南無阿弥陀仏」という言葉が何を意味するかを、平たく語ろうとするにある。今の若い人たちには、この六字は縁遠い呪文のように響くかも知れぬ。また時代に合わぬ古くさい信心の形だとも思われよう。しかし決してそんなものではなく、この言葉の発見こそは、人類の思想史における最も驚くべき出来事の一つだといってよい。それに人間が考え得た宗教思想の一つの極致がここに見られるのである。(後略)

―*―*―*―*―*―

柳宗悦さんといえば、
民芸という無名の職人の仕事の美を
見い出したことで有名な方ですが、
その美と南無阿弥陀仏とはまさにつながっていて、
そういう目で民芸をご覧になっていたのがよくわかります。

念仏をする無学な民衆の中に、
「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれる方たちがいます。
浄い白蓮華にたとえてそう呼ばれた
深い他力の信心を生きた市井の念仏者です。
げた職人さんだったり、ただのおばあさんだったり。
柳さんは、『妙好人論集』という本まで出しておられます。
そして、民芸の美をその妙好人にたとえて
『妙好品』といいました。

妙好人の話で面白い話は山ほどあります。
たとえば・・。

宇右エ門という妙好人が、金を盗んだと誤解された時
「はいはい私盗みました」とさらさらといって、
その金を与えたという。別に腹も何も立てぬ。
後にこれが全くの誤解だと知れて、実の盗んだ人がわびて、
その金を宇右エ門に返しに来た時、
「私はあなたに前世で借金をしていませんでしたか」
といって受け取った。どうなろうとさらさらしたものである。
自在人だから腹の立つ根が切ってあるのである。
良寛和尚が盗人に入られた時
「盗人のとりのこしたる窓の月」と詠って
おかげで今宵はよく月見をさせてもらって
有り難いと感じたという話がある。誠に任運無碍で
「どうころんでも、ころぶ所が花の中」なのである。
こうなると、いつでも花見が出来る。
花のない所もまた万朶の花となるであろう。
(柳宗悦『美の法門』より)

そういう境地に生きた
ほんものの信心のあった人のことを妙好人といったそうです。

―*―*―*―*―*―

今も称名の声(南無阿弥陀仏)は、幾つかの地方には
朝な夕なに絶えぬ。
そうしてこれが今も人々の心をぬくめ、
今も妙好人の数々を生んでいる不思議な力なのである。
(柳宗悦『南無阿弥陀仏』より)


小さな駅前食堂 カフェ カルマ

2007-03-25 09:17:22 | shop*spot
好みです。
食べるものも飲むものもなんだかくすぐるものばかりで
この小ささもなんとも落ち着く。

5、6回行った気がする。
名前はカルマっていうとインパクトありますが
明るいかわいらしい店です。

駅前食堂と銘打っているところがなるほどという感じ。
駅前食堂の無国籍版。

わたしがこの日食べたのは
畑のミートスパゲティ。
ミートは使っておりません。ベジタリアンさんもOK。
とっても食べごたえのある満足感のあるパスタでした。

友人の頼んだカレーも旨そうでした。
黒米のごはんに、揚げたピカピカのナスが食欲をそそります。

お水がビンに入ってテーブルでつぎ放題で出されるのも
なんだかちょっとうれしい。

アーティストのものなどが飾ってあったりと、
よく見るといろいろと宝探しができそうです。

楽し気なメニューもたくさんあるので
何回行っても行きつくせません。

こんな店が自分の家の近くにあったらな、というお店の筆頭です。

小さな駅前食堂 カフェ カルマ
http://karma-marka.org/

どんな高価な物もかなわない財宝

2007-03-19 15:33:15 | 映画
ドキュメンタリー映画『デック』を観てきました。
デックとは「こども」という意味だそうです。

タイ北部の山岳民族のこどもたち。
農業をしている親の手伝いをしています。
現金収入の少ない親たちは
こどもをなかなか学校には行かせられません。

だいたい学校がありませんでした。
はじめは10人くらいのこどもたちを集めて
青空教室からスタートしました。
まずは昼ごはんも食べられないこどもたちの
ごはんの心配からありました。

やがて日本のNGO地球市民ACTかながわ等からも支援があり
3階建ての校舎や寮が出来ました。
学校からはなれたところに住んでいる生徒たちは
寮に入り自炊します。
自分たちで食べるものを畑でみんなで作ります。

ホームシックになる子を先生や友達で支えます。
24時間一緒に生活するうちに家族以上の絆が生まれていきます。

校長先生はほっそりとした誠実そうな優しそうな人です。
けれどもこどもたちや働く先生のことを誰よりも気にかけていて
なんとしてもこどもたちを守り抜き、その未来を思うという情熱が
静かな面影の下に隠れていました。

勉強ができずに学校を抜け出すワルット君という子がいました。
校長先生は膝詰で彼に話します。
「君は悪い子じゃない。わたしの誇り。」
こころから彼を信じる校長先生に、ワルット君は変わりました。
校長先生のおかげ、とワルット君は言います。

校長先生はガンを患っても誰にもそのつらさは告げず
学校で倒れました。
校長先生が入院してしまったメートー学校は
「舵のない船のようだ。」とある先生は表現しました。
生徒たちも先生たちもこころから祈ります。

やがて回復した校長先生は学校へもどります。
そしていよいよ生徒も校長先生もわくわくして眠れなかった
海を見に行く卒業旅行です。

ひととして生まれた感動と喜びの躍動が
ここにつまっています。

ある女の子はこう言います。
「浜の砂は丸い地球をどう思っているかな?」
「月は丸い地球をどう思っているかな?」
「みんなわたしのこと好きかな?」
「誰に聞いてみたらいい?」[カメラマンの問い]
「わたし自身に聞いてみる。」

心を許した友達と先生と
見たことがないこの星のダイナミックな美しい不思議を見にゆく。
彼らの心に、この日は永遠に輝くでしょう。

こどもたちに腹いっぱい食べさせることのしあわせ。
こどもたちの成長をただひたすら願う先生たち。
海を見に行った時のこどもたちの
輝く笑顔を見る時の
先生たちのこれ以上ないしあわせに満ちた溢れる笑顔。

本来のおとなのしあわせな顔もここにはありました。

ひとの情がふれあい
ともに苦労し
いっしょに感動する。

どんな高価な物もかなわない財宝が
ここには光っていました。

*写真は校長先生とワルット君

15年に渡り教育支援活動を行っている
地球市民ACTかながわのHPに詳しく載っています。
http://www.tpak.org/dek/home.htm

海を見たことがない子どもたちが

2007-03-15 15:19:34 | 映画
タイのドキュメンタリー映画です。
『デック~子どもたちは海を見る~』

この「海を見る旅」は
子どもたちの通うメートー学校の校長先生が発案したものだった。
校長先生は、
都会から遠く離れたタイ北部の山の学校で学ぶ生徒たちが
広い視野を持って成長してほしいと考えてきた。
生徒たちは中学3年の卒業試験に無事合格すれば
海を見に行く卒業旅行のチャンスを得られるのだ。

子どもたちは勉強のかたわら野菜を作って売ったり
ニンニク農家の手伝いをしたりしてお小遣いを稼ぎ
旅行費用を作った。
家族の中でそれぞれの民族の言葉で会話して暮らしている
山岳民族の子どもたちにとって
タイ語を勉強するだけでも大変なことなのだ。

そして、長い長い時間をバスに揺られ
ついに子どもたちは海を見た----。
自分の暮らす村以外の世界がどれほど大きいかを
自分自身の目で確かめたのだ。
子どもたちは今まで
限りなく広がる海に太陽がオレンジ色に光り輝く光景なんて
見たことがなかった。
小さな貝殻の中に隠れて生きる小さな生き物も
見たことがなかった。
子どもたちは、走った、笑った、飛び回った。
我を忘れて波間に身を委ねた。

「ふたつのお日様を見たのは、村では僕が初めてだ。」
14歳の少年が海水を入れたビンを抱えて叫んだ。
村に残っている弟へのお土産として持ちかえるのだと。
ふたつのお日様というのは
海の向こうに輝く太陽と水面に映った太陽のことなのだ。

子どもたちは心から人生の喜びに浸っていた。
驚きと感動に満ちた人生。子どもの目で見る人生。
これこそが、人生の本来の姿だろうと、私はこのとき感じた。
(アリヤー・チュムサイ監督)

*明日から3日間と、4/6、4/7に
東京広尾のJICA地球ひろばで上映されます。(予約が必要です)

詳しくはJICA地球ひろば
http://www.jica.go.jp/hiroba/

600年に一度の金の豚の年

2007-03-14 14:19:26 | つれづれ
ラヂオで言ってました。
今年は日本では「猪年」ですが、
韓国では「豚年」なんだそうです。
もともと韓国では豚はとても縁起がいいものとされているそうで
今年は、そんな縁起のいい「豚」の年であり、
更になんと、600年に1度の『金豚』の年なんだそうです!

今年生まれた子は一生お金に困らない
とまで言われるくらいのいい年なんだそうで。
いや、知らなかった。金の豚年なんつうのがあったとは。

600年に一度とは巡りあうのはなんと希なことでせう!

design 神棚

2007-03-11 12:09:27 | shop*spot
オドロイタ。
神棚をデザインして
ライフスタイルを提案しようという
メーカーがあった。
自分がデザインしたものも作ってもらえるようです。

以下はそこ《Life style》のコンセプト。

------みなさまは初詣には行かれた事はありますか?

大抵の人は一度は行かれた事があると思います、
又、毎年行かれてる方も多いかと思います。
その時みなさまは何をされますか?

お参りをする、おみくじを引く、御守や御札を購入する、
その辺が一般的かと思います。
その時みなさまは買った御札などは、
どちらに置いてあるのでしょうか。
一般的には神棚でしょうが現代建築では和室も少なく
現代人のライフスタイルにはインテリア的に合わない理由で
無造作に御札だけを立て掛けている御家庭も多いかと思います。

ではソファーやテーブル等はデザインが充実しているのに
神棚はないのでしょうか?

そんな事を考えた私共は「デザイナーズ・アルター」と言う商品名で
今現在ある神棚と言う物をファニチャーとして商品化致しました。
このデザイニングなら現代住宅に対しても
提案出来ると考えたからです。
又、古い仕来りにこだわる事なく現代人が自由な発想のもと
ライフスタイルを築いて行く手助けが出来ればと考えます。

Life style
http://www.lifestyle-japan.net/home.html

10万の敵にたった一人で挑む

2007-03-07 15:10:02 | 映画
大国が小国に攻め入り、力で制する――21世紀になってもそれは絶えることはないが、強者のエゴに敢然と立ち向かい、弱者を守り抜こうとした集団が2000年以上も前の中国に存在した。儒家と並ぶ勢力を誇りながら、歴史の闇に葬られた<墨家>である。戦乱の世に「非攻」や「兼愛」を掲げ、自らは決して攻撃を仕掛けることはなく、しかし守るためには戦闘のプロとなった。この集団は、春秋時代末の紀元前5世紀に思想家・墨子によって創始された。そして紀元3世紀、始皇帝の中国統一によって戦国時代が終わると忽然として消えた。

以上はかんたんな<墨家>の説明ですが、
これを日本人が漫画化して大反響となり、海外でも反響を呼び
日本、韓国、香港、中国が手を組んで映画化したそうです。
現在上映中。
『10万の敵にたった一人で挑む』は映画のキャッチフレーズです。

2000年前にそういった集団がいたことがオドロキでした。
映画、観ました。
アンディ・ラウさんははじめてみましたがこの映画にはピッタリ。
単純にかっこいいです。
映画自体はエンターテイメント性を意識したのか
原作にないアンディの相手役の若い女性が出て来て
リアル感がちょっとばかしそこなわれた感はありましたが、
<墨家>というのがあったということを歴史から掘り起こして
人目に触れた功績はおっきいと思いました。

墨家には十論というのがあって、
●「兼愛(自分を愛するように他人を愛せ)」●「非攻(侵略と併合は人類への犯罪)」●「天志(天帝は侵略と併合を禁止する)」●「明鬼(鬼神は善人に味方して犯罪者を処罰する)」●「尚賢(能力主義で人材を登用せよ)」●「尚同(指導者に従って価値基準を統一せよ)」●「節用(贅沢を止めて国家財政を再建せよ)」●「節葬(贅沢な葬儀を止めて富を蓄えよ)」●「非楽(音楽に溺れず勤労と節約に励め)」●「非命(宿命論を信じず勤勉に労働せよ)」
だそうです。

ちょっと残念なのは「非楽」。
音楽がないと生きていけないのでこれだけはごかんべんを・・。
ま、溺れて怠惰になるのを戒めたんでしょうね。
それにしても2000年前とは・・。

始皇帝にとってはあまり都合がよくないので、
掃討されたという説があるそうです。

墨攻
http://www.bokkou.jp/

龍は珠がお好き

2007-03-04 21:53:15 | nam amita-yusu
My木魚です。
はしっこの指でわかる通り、幅約10cmくらいのちび木魚ですが
桜の木のいい音がします。
ふつうはこれを寝かせて使いますが
立てているのはこの模様のご紹介。
龍が2匹、珠をくわえています。

秩父の今宮神社に行った時に、
そこにお祀りされている八大龍王の解説を見て
乱暴者だった龍が観音様の慈悲にふれて帰依し
観音様の慈悲の心(宝珠)をいただいて仏法の守護神になった
というような話を知りました。

宝珠をくわえているということでしょうか。
うろこは魚のうろこだそうです。

木魚、というのは禅寺で人を集めるときに
叩いて音を出した魚板が形を変えたものだそうです。
なんで魚の形をした板を使ったかというと
魚は目を閉じないので修行中に寝ないよう魚にあやかったそう。

浅草の仏具店で出会って“ひと耳惚れ”し
つい買ってしまいました。
どこで育った桜なのだろうと思いを馳せたり。

ものにも出会いというのはありますね。
これを買ったのはお香や石や素敵な小物や
仏具・仏像などを扱う入りやすい店でした。


念珠堂
http://www.nenjudo.co.jp/