空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく

本質のカラー

2006-06-28 00:05:02 | プロフィール
ネットでできるオーラソーマカラーリーディング
自分の本質のボトル

ドルフィンでした。

今日のボトルもわかる。
ついてくる言葉がけっこういい。
ちょっとしたヒント?

色がきれいなんで前から色を見ては楽しんでました。

どですか~?
http://woman.excite.co.jp/fortune/color/essence/

紫陽花

2006-06-25 11:48:35 | 面白情報
きのう道端でキレイな紫陽花を見ました。

花弁がまるくてかわいらしい。
なんという名前なのかなぁ?

名前といえば
こんなサイトを見つけました。
携帯で花の名前を探せるそうで
日本初の植物図鑑のサイト。

約2万種類搭載のデータベースから
たくさんの写真や解説などを見たり、
掲示板で携帯のカメラで撮影した花などの名前を
教えあうことができるそうな。

サイトから登録(無料)すれば利用・閲覧は無料です。
http://aboc.jp

あとでやってみよっと!

善魔と悪魔

2006-06-22 16:47:35 | つれづれ
悪魔というのはわかりやすい。
360度どっからみても悪役。

やっかいなのが善魔。
一見正しそうな言葉や行ないでつっこみづらい。

けれども正しさを“武器”とした善魔は
時として悪魔よりもおそろしい。

考えてみれば、どんな戦争も正しさを振りかざして行なうんだった。

正しさが武器になると自分にとっての悪魔を作り出して
自分の正義の城を築くことに精を出してしまい、
何かを城の外に置き捨ててしまったりする。

正しさにせよ、なんにせよ、
なにかに執着しすぎるのはこわいことでもあるというおそれを
ほんのすこしでも抱きながらでないとき
それは善ではなく善魔になっているのかもしれない。

善魔になってしまう時、ほんとに必要なのは、
相手の上に立った
“外にいる悪魔の改心”のためにエネルギーを注ぐことじゃなくて
自分の解決していないこころの痛みに
正面から向き合うことだと、痛く、思わされたことがありました。

自分で作り出した悪魔と闘って
善魔どころか悪魔にまでなってしまった人が、
もし、自分の奥深い痛みにちゃんと向き合って
他のせいにしなかったら・・。
歴史は変わっていたかもしれない。
そこからやっとやっと一面的な正しさでなく、
人の痛みに出会うことができるかもしれない。
はじまりにもどることができるかもしれない。

そして善魔はこう言っているまさにわたしの中にもいるのです。
あの人は善魔だといっているあの人とは、
わかりやすく拡大されたわたしです。

読んだ本の中で忘れられない一節があります。

《「気と経絡」癒しの指圧法~決まった位置にあるツボなどない
                 遠藤喨及著 講談社+α新書》

『経典に「魔に取り憑かれることによって、5つまでは仏とまったく同じ神通力がつくことがある。そのようなグルは、あなたの過去世を言いあて、探しものを見つけ、空中から物品を出すなど不思議な現象など奇跡を見せて、巧みに信者にするが気をつけるように」と説いてある。
 魔であっても5つ目までは、仏と同じ神通力をもっているから、過去世も当てるし、人の心も読めるのである。ところが、6つ目の神通力だけは仏はもっているが魔にはない。それは漏尽通(ろじんつう)といって、煩悩をもらし尽くした、あらゆる執着から解放された精神のことである。』

煩悩をもらしつくした人はまだ見たことがありません。
これだけ“神通力”があってもまだ仏じゃない。
そうでないなら人は多かれ少なかれ魔が差している。

自分が善魔か、悪魔であるくらいにせめて思っておかないと
人を悪魔呼ばわりして闘うことになりかねない。
自分の中の解決していない自分を相手に、闘っているとも知らず。
(モチロン自分のことです。)
口角泡を飛ばすというよりは、冷や汗をかきながらゆきます。

ガーダ パレスチナの詩

2006-06-12 22:06:35 | 映画
日本人の女性の監督が12年に渡って取材した
パレスチナの女性ガーダのドキュメンタリーが
今、東京渋谷で上映されています。

パレスチナの実際の生活はよく知らないでいました。
人間と人間の根深い衝突の現実には
生半可な言葉では表せないものがあります。
13才の息子を銃弾で失った両親(ガーダの親戚)の嘆きは
言葉を失います。
それでも厳しい状況の中でもひとは歌い、食べます。

よくぞいのちがあったものよという
銃弾飛び交う現場映像。

2ヶ月も、威嚇なのでしょうか?
監視塔からマシンガンやら夜昼となく意味もなく撃たれる生活。
それでも女たちはお菓子をつくります。

ガーダは23才の頃、古い因習に反発する女性でしたが、
結婚し、子供を育て30を越えて
自分の祖母や上の世代の歴史や伝統を伝える必要を感じ
聞き書きを始めます。
本を出そうと努力しはじめるガーダの姿を監督は追い続けます。

監督、古居みずえさんは37才で原因不明の難病を発病して
歩行器がなければ歩けないほどでしたが、
使った薬が劇的に効いて奇跡的に回復。
真剣に人生と向き合ってこなかった自分を悔やみます。
そして「一度きりの人生、何かを表現したい。」と
OLからフォトジャーナリストへと転身された方です。
そこには1歩も引かぬ気迫がみなぎっています。

映画のあとのトークショーで、現場のお話を聞きましたが
女性は禁止されているところも髪をまるめて女性であることを隠して
なんとしても撮りたいと登って撮ったようなことを
一緒に現場にいた広河隆一(フォトジャーナリスト)さんが
おっしゃっていました。
「これは本気だと思った。」と。
この映画は結果的に
イスラムの男性社会への挑戦にもなったのでした。

また、あまりの危険に他のジャーナリストが引き返す状況の中でも、
古居さんとガーダは活動を続けました。
古居さんはガーダの身の安全を気遣い、
ガーダも古居さんを気遣います。
でも“失うものは何もない”と
大きく人生をシフトした古居さんは言います。
「これはわたしの仕事で、責任だから。」

取材したガーダや家族や街の人々に信頼を得て
この映画はいきいきとしたにんげんをとらえた映像となっています。
ガーダの父は近所の人にこう紹介されるそうです。
「彼には娘が6人いる。5人はパレスチナ人で1人は日本人なんだ。」

ガーダは言います。
「わたしたちがずっと前に捨てた報道に対する信頼を、
わずかでも取り戻させてくれた数少ない人物なのです。」

前述の広河さんも言います。
「ガーダとその周辺の人々が古居のビデオカメラの前では、本音を語り続けたことも驚異的なことである。ガーダだけでなく、周囲の人々も、古居が何を写し撮ろうとしていたのか、感じ取っていたと信じるほかない。そしてこうしたことが可能であるためには、取材者にどれほど『ともに生き、ともにたたかう』感性を要求されたことか、察するにあまりある。」

背の低い小さな方でした。
人はシフトするのに年齢も性別も病気も障害にはならないですね。

最後にこの映画に寄せられた声のひとつ
「女の情感こそが、もしかしたらこの世界を変える可能性を持つのかもしれない。」森 達也(映画監督/ドキュメンタリー作家)

東京渋谷UPLINKでは6/30まで上映が続くそうです。
以降も延長の可能性あり。
7月もUPLINKにて上映&監督のトークショーあります。
7/15(土)・7/17(祝)・7/21(金)
※21日は女優の根岸季衣さんもゲストです。

詳しくはホームページをご覧ください。
http://ghada.jp

栗の花

2006-06-07 17:25:56 | 感動*好きなもの
新緑がきれいになってくる今頃
栗の木に花(?)が咲きます。

花の中でもこの花ダイスキです。
ちっとも花らしくないデショウ?

デモ、遠目に見ると陽にあたると輝いて
何事ぞ!と思います。

せいめいの大合唱という印象です。

ススキの穂もスキです。
これはまだ先。秋ですが。

これまたススキの海に夕陽が当たった日にゃあ、あなた。
この星に生まれたかいもあるというもので。

まずは今は栗の花ですね。
せいめいの謳歌ですね。

はたらくおじさん

2006-06-04 12:10:24 | 面白記事*面白番組
今朝、
何気につけたTVに引き込まれてしまった。
NHKのドキュメントふるさと発 にっぽん再発見
「神の湖に生きる~福井 三方五湖一年神主」
漁師の村で村の人が一年交替で
地元の神社の神主役「祝り(ほうり)」を勤めるのですが、
1年がかりで取材したドキュメンタリー。

自然を相手の生業ですから、
神様への信仰は厚いです。
神に仕える身となった人は毎日の参拝や季節の神事に加え、
死の穢れに触れることを禁じられ家族の葬式にも出られません。
「不浄の者ご遠慮ください」の札が玄関にかけられます。
家にはその「祝り(ほうり)」用の部屋が決められ、
穢れた人が出入りすることも禁ぜられます。
獣肉やにらやにんにくを食べることも禁止。

何百年も続いた決まりごとをしっかりと守り、
村の安全と大漁を祈願する重大なおつとめ。
違うことをして何かあったらたいへん。

なんだかこう書くときゅうくつなように見えますが、
わたしが感動したのは
何度も死ぬ想いをして漁をしている
その70を超える現役の漁師金森さんが
村の人のために神様へ謙虚なまごころを持って仕えている姿。
その想いは自然とのかかわりと生活と生死がひとつで
村の人々とともにある感謝からくるような・・。
昔ながらの共同体というものにひとの真ん中のものを見る想いで、
懐かしさと憧憬を覚えて
思わず涙がこぼれてしまったのでした。

小学校の時、授業で「はたらくおじさん」という番組を見ました。
ブルーカラーのおじさんがはたらく
現場のドキュメンタリーのようなものだったように思いますが、
それがとても好きだった。
そういうなんというか地道な庶民の暮らしというのに弱い。

どんなドラマティックな人生よりも、
この年になるとはらはら泣けてきたりする。

ほんものの男、とか、女、というのは、
こういった黙々とはたらき、生かしてくださるものに謙虚で
家族やまわりの人たちのことを想い
それぞれの性の役割で支えるにんげんのことをいうのだ、と、
金森さんと奥さんを見て思いました。

どんな世になろうと、
そういうひとたちはいますね。

本埜村から惑星へ

2006-06-02 16:33:30 | つれづれ
実は住んでるトコの隣の隣に村があります。
本埜(もとの)村といいます。
ウチから車で20分くらいかな?

北総開発鉄道(コレもスゴイ名前)の
終着駅があるところあたり。
いずれ成田まで延びるんですが、
交通が不便だったおかげで今も豊かな緑が残ってマス。

隣村の印旛村には、
樹齢400年だったか、山桜の巨木があったり
かと思えば天皇の娘の松虫姫がお告げでここまで下ってきて
今、松虫寺というかわいらしいお寺が残ってたりと
このあたりはナカナカいいトコです。

栄福寺という天台宗の小さなお寺には
室町時代に作られた重要文化財の薬師堂があります。
茅葺きで美しいお堂です。

今日は用があったついでに久しぶりに寄ってみました。
以前よりさらにさっぱりときれいになっていると思ったら、
境内の熊野神社が立派に改築されていました。
地元の人に大事にされているなあという印象。

その印象通り、
鳥居をくぐると指先まで満ち満ちるご神体のパワーです。

小さな村の小さなこういう拠り所でさえ
こういう何か畏れ多い有り難い場所。

日本には八百万のかみさまがいらっしゃるといいます。
たしかにどんな街にもお寺があり、神社があり・・。

要所要所にはまた特別に大きな聖域として
守り伝え栄える神社やお寺があり・・。

にほんはあらためてとても興味深いところです。

ある時、思ったことがありました。
にんげんにツボがあるくらいなら、
国土にもあるんじゃないかなーって。

神社・仏閣は案外そういったものなんじゃないかって・・。

で、ニンゲンでいうたとえば“湧泉”っていう名前の
大きなツボがありますけど、(名前はなんでもいいんですが)
それはにほんでいうと富士山じゃないかなって
思ったことがあります。
あれだけ大きな出口だから、あんなにも大きな山が出来ちゃった?

ああ、だから火山もツボかなぁ?

フォッサマグナという面白いものもありますね。
富士山はその影響もあるのかなぁ?
日本て世界的にも珍しい場所だそうですよ。
地球の地殻のプレートが
押し合いへし合い4つも集まってるんですから。

デ、飛躍します。国にあるくらいなら、星にだって・・。

富士山が地球の湧泉のひとつだったら?

ト、想像がふくらむと、なんだか面白くなるじゃあーりませんか?