空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく

月に願いを

2006-12-26 13:57:47 | 面白情報
宇宙航空研究開発機構(JAXA)では
平成19年の夏に打ち上げ予定の
月周回衛星『SELENE(セレーネ)』に載せる
名前とメッセージを募集しています。
セレーネは応募した人の名前とメッセージを載せて
約1年間月を周回するそうです。

なんだかちょっとワクワクしませんか?(^-^)”

JAXA『月に願いを!』キャンペーン
2007年1月31日まで
名前10文字以内/メッセージ20文字以内
詳しくはこちらへ。
問い合わせ/Tel:03-5200-1309
財団法人日本宇宙フォーラム内『月に願いを!』キャンペーン事務局
http://www.jaxa.jp/pr/event/selene/index_j.html

クリスマスハウス

2006-12-24 23:38:35 | つれづれ
うちから車で20分くらいのところの
フツウの民家です。

仰天。
パーソナルクリスマスランド。

ビックリの後にしみじみワクワクが湧いてきました。
この家を見に、遠くから車で来る人もいるそうな。

ひとを楽しませるためにここまでやるか!
(モチロン自分が楽しいんだろうケド。)
脱帽。クリスマス万歳!

きぼうのいえ

2006-12-22 00:24:44 | Tao
東京に山谷というところがあります。
日雇い労働者のドヤ街として有名ですが、
そこに山本雅基さんという方が
看護師の奥さんの美恵さんと私財を投じ借金をして
身寄りのない人のためのホスピスを創りました。

『きぼうのいえ』といいます。

きぼうのいえの屋上には小さな礼拝堂が造られています。
その壁に飾られているのは
『聖アッシジのフランシスコ』の言葉です。

<平和の祈り>

『主よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところに許しを、
分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
闇に光を、悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。
慰められることよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、許すから許され、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。』

この想いから山本さんはきぼうのいえを創られました。

先日うかがった時、
入居者のKさんとお話がはずみました。ふたりともよく笑いました。
Kさんは夜になるとからだがつらく、眠れません。
そんな時はTVを見ています。
「何を見てるんですか?」と尋ねると、笑いながら
「Dr.コトー。先週はまいったよ。初めから終わりまで泣かせっぱなし。あれはないよな。・・あんな先生にかかりたいよね。そうはいないだろうけど。」

わたしも毎週見ていました。
今日の最終回はKさんと一緒に見ている気分でした。
たぶんまたKさんは泣いているだろうな。

人は想像を絶する肉体の苦痛とともにありながらも
こんな風に人と穏やかに話し、笑うことができるのですね。

初めのうちはそこがホスピスであることが
実感として感じられませんでした。
思ったよりもずっと明るい印象だったからです。
けれどもお会いする人たちが
櫛の歯が抜けるように旅立たれてゆくことに
あらためてホスピスであることを感じさせられています。
けれども厳しく孤独な人生を歩んだ人が
人生の終わりに「ありがとう」と言ったり
安らかに旅立たれたエピソードを聞く度に
生きるとは、そして、死ぬとは
もっとおおらかでひろく大きいものではないか
という実感を得てきています。

死ぬということを超えて生きるのではないかと。

しあわせというのは
ただなんの苦痛もなく平安に長生きすることだけではなく
苦しみの中にさえもあるのだと。
何気ない会話の中に笑いとなってそれは現われます。

わたしはもう死が近いといわれた人が
死が近いとは思わなくなりました。
亡くなった方でさえ、死んだとは思っていません。
礼拝堂にはお墓のない方の遺骨がそのまま安置されていますが
手厚く送られたせいかとてもあたたかいです。
山本さんはおっしゃいました。
「ここを、よくある結婚式場のチャペルのような、
その場限りのようなところではなく
祈り込んでいきたいと思います。」
マザーテレサのしていた行動する祈りですね。
信念を持ち誠実な方ですが、
そこはかとないユーモアもにじみでた方です。
美恵さんもそうで、あたたかい方です。

毎月赤字で「無謀のいえ」と呼ぶ人もいます。
けれども、ここに、
ひとの現世の最後のあり方の
きぼうの灯を見るような想いで通っています。

きぼうのいえ
http://www.kibounoie.info/

9歳の哲学

2006-12-15 14:25:28 | こころに残るはなし
朝日新聞の『ひととき』欄に載っていた投稿です。

 ―*―*―*―*―*―*―

 ある朝のことです。フルタイムで働く我が家のシングルマザーの娘に代わり、小学校3年生の孫息子の朝の支度は、私がしていました。
 朝食のデザートに、山形から届いたラ・フランスを出してやると、「おいしい、おいしい」を連発。「朝ごはんをおいしく食べて学校に行けるなんてしあわせねえ」と言うと、しばらく間を置いて孫が言いました。
 「しあわせっていうのはもっと違うことなの!ぼくの考えでは、いのちがあることをしあわせっていうの」と。「まあ、すばらしい。校長先生が朝の会でそういうお話なさったの?」と聞けば、「2年生のとき、本を読んでいて、世界で一番大事なことは何かなって自分で考えたんだ。ぼくにいのちがあることがしあわせって考えた。」「そうね、だからお友達のいのちも、みんなのいのちも大事だね」
 すると、また少し黙ってから言いました。「それも少しだけ違うの。自分のいのちをみんなが自分で大事にすればいいんだよ」
 9歳なりに精いっぱい考えているんだ。子ども扱いしちゃいけない。私はしばし言葉を失いました。
 父親と離れて、アメリカからやってきたこの子の育ちゆく先に平穏あれ。そう祈りながら、小学校に向かうランドセル姿を見送りました。
            
     (東京都練馬区 杵渕 智子 市民団体役員 73歳)

 ―*―*―*―*―*―*―

今子どもである子どもたちはわたしたちよりもさらに
進化した子どもたちだと思うことが多々あります。
その直感の素晴らしさは
ますますオープンになってきている感触がします。
ほんとうの意味の強さとやさしさを兼ね備えた
新しい人類の予感がします。
この子が自分の中でたしかめておばあちゃんに
「もっと違うことなの!」という感覚がわかります。
少し黙って「それも少し違うの」と
言いたくなったわけもわかります。
一番の本質にまっすぐです。
それがあって、おばあちゃんのいうことが現われてくる。
・・・(^-^)子ども扱いどころではありません。
それはお釈迦さまに説法するようなものかもしれません。
そして、子どもや孫に平穏あれと願うのは世の常ですが、
ほんとうのしあわせからするとそれはどうでしょうか。
成長するための試練ならそれはあることを願う方が
厳しくもほんとうの親心かもしれません。
この方はとてもよきふつうの市民の方です。
けれども時代はさらに本質へと向かわざるを得なくて、
そして、子どもたちはそれを教えに来てくれているようです。

ホテルルワンダ

2006-12-09 17:29:25 | 映画
泣いた。
映画が終わってしばらく外に出たくなかった。
目が真っ赤だったから。

わたしが一番泣いたのは、
白人の人たちがルワンダの人々を見捨てて
逃げてゆこうとする場面だった。
ルワンダ人のホテルマンが
雨の中出てゆく白人のカメラマンに傘をさした。
「ささないでくれ。恥ずかしい。」
そう言って彼はいたたまれない面持ちでバスに向かう。
まるで自分がその人であるようないたたまれなさを覚えた。

殺戮する者、それに怯える者、その場から逃げ去る者。
その全てが限りなく哀しい。
なぜならわたしはその全てだから。そのどれにもなりうるから。
人間の哀しさを何よりも一番感じたシーンだった。

これは実話です。
1994年、100日で100万人が大虐殺されたルワンダで、
1268人の人々を支配人である自分のホテルでかくまった
あるホテルマンの緊迫の日々を描いています。
ただこれを特別な場所の
ひとりの特別な人間の話で終わらせてしまっては、
ルワンダで払われた100万人の犠牲に対し申し訳ないし、
このホテルマンのポール・ルセサバギナさんの本意から
はずれるでしょう。
日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺から
まだ100年経っていないのです。

元々共存していたツチ族とフツ族を
あえて人為的に分裂させていった根深い西欧の強権的利権的エゴと、
それに助長された人間の奥深いエゴがこの悲劇をもたらしました。

とてもリアルだった。
心情を表現するために監督と主演のドン・チードルが
たましいをそそいだシーンがあります。
大量の虐殺死体を見た後にポールが着替えようとして
手がわなないてネクタイを結べず、
引きちぎって慟哭するシーンです。
その場ならおそらく、そうでしかないであろうというシーンです。
妻のタチアナが民兵に殺されそうになった後に
ヒリヒリするような取り乱し方をするのもそうです。

ここにあるのは、誰かを虐げることで鬱憤を晴らし
自分を優位に置こうとする“人の根源的なエゴ”で、
それはわたしたち自身の中に毎日、
毎瞬間のように浮上するものです。
マッチのような火が集まり、山火事になってしまったのです。
殺戮する者ではあり得ないと思い上がる自分を
まず観る必要があるし、
目をつぶり、いつも逃げたい自分であることも観る必要があり、
ここに横たわるものはまったく対岸の火事ではありません。
日本にも毎日のように虐殺は起こっています。
目には見えなくとも心は殺されます。
自分と人を分けて断罪してゆく自らのこの性(さが)を、
せめていつも自分の中に
白日にさらしていかなくてはならないのでしょう。
誰かを判断して悪く言う、攻撃するという、
我が少しでも人の上に立とうとする
空しい作業を断ち切ってゆかないと、
いつでもどこでもこれは起こるし、起きていることです。
判断・断罪ではなく、違うなら違うという識別に留め、
むしろ違いをこそ尊重してゆかないと
争いはなくならないのでしょう。
そしてそういったエゴを助長する行き過ぎた欲得は
手放さないと・・。

ただ、ひとつ印象的な救いを感じたシーンがありました。
ポールがスタッフに言います。
「あらゆるツテに電話するんだ。
現状を伝え静かにさよならを言うんだ。
けれどもその時、電話の相手と手をにぎりなさい。
その手を離されたらわたしは助からないと。」
取り乱すことなくとても、静かな口調です。
それは、助からないということを覚悟しながらも
最後まで状況も人間もあきらめないという
静かな決意が込められた言葉でした。
実際にそういったあらゆる努力で
ルセサバギナさんはこの難局を乗り切ったのでした。

*写真は実際のポール・ルセサバギナさん

ホテルルワンダ
http://www.hotelrwanda.jp

いじめている君へ

2006-12-06 22:45:14 | こころに残るはなし
何日か前の新聞記事です。
シリーズで「いじめられている君」と
「いじめている君」へ
各界の人々からメッセージが載せられています。

作家・カヌーイスト
野田 知佑さん

 ぼくは四国の吉野川で「川の学校」の校長をしている。毎夏、小5から中3までの子どもを集めて、川遊びを教える。今年の参加者のA君は中1。先日ぼくに手紙をくれた。
 A君は、最近までいじめっ子だった。ブループをつくって、変わったところがある子や生意気な子、ぼんやりした子をいじめていた。
 A君は、「川の学校」に入って驚いたらしい。彼の学校なら、いじめにあいそうな子がたくさんいたからだ。でも、一緒に遊んでいるうちに、その子たちが違って見えた。
 どんくさそうに見えた小6の女の子は、エビをとるのがうまくて、夜、たき火の前で話をすると、自分の知らないことをたくさん知っていた。カヌーが転覆した時、まっ先に助けてくれたのは、中3の男の子だった。体が大きく、力もある。魚とりもうまい。
 それに講師のおじさんたち。魚を素手でつかんでとり、コイやナマズをもりで突いてくる。大人はなんてかっこいいんだと思った。
 自分がやっていたことが幼稚なものに感じた。人をいじめるなんて、後味が悪いし、格好悪い。小さな世界でいい気になって、はずかしい。「ぼくは早く大きくなって、かっこいい大人になりたい。」その手紙はしめくくってあった。
 A君は他人をいじめるみじめで小さな世界より、もっと自由で楽しい場所があることを知り、いじめから脱出した。
 自分の小さな空間から出て、それまで知らなかった物や人に会うこと。それは君の人生を変える。いじめている君へ。一人で外に出て、いろいろな人に出会ってごらん。

 ―*―*―*―*―*―