先日TVで見ました。
戦争の最中にこんなこともあったのですね。
このことが広く知られたのは平成になってからのことのようです。
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平成10年4月、英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問へ
の反対運動が起きていた。その中心となっていたのは、かつて日本
軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた処遇への恨み
が原因であった。
その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文
を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解するこ
とに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、
自身の体験を語った。
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■「オラが艦長」
工藤俊作が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15年
11月1日だった。大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある
細い目をしていた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、
乗組員たちはたちまち魅了されていった。
着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに
鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには「兵の失敗
はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように
命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告し
ても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。
酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交
わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士官室での
エビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換せんか」と言
ったりもした。
2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と自慢
するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」
とまで公言するようになった。
■「これは夢ではないか」
英国海軍の駆逐艦「エンカウンター」は日本艦隊の追撃を受け、
撃沈された。「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出
した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。
その状態で、約21時間も漂流する。
そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張りが
「漂流者400名以上」と報告した。潜水艦に攻撃を受ける可能性
もある危険な海域であった。150名の乗組員を預かる重責にも関わら
ず、工藤艦長は敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」
と命じた。それは大変な勇気の要る決断だった。
「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿を
差し出した。重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り
絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したの
か、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板
上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」
と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら海に
飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。
しまいには最低人員のみ残して総動員の救出劇である。こうなる
と、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人である。甲板上で日
本人乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。無事、救出され
た英兵の体についた重油は日本人乗組員が布とアルコールで拭き取
った。そして新しいシャツと半ズボン、靴が支給され、熱いミルク
やビール、ビスケットが配られた。
――その時20歳だったフォールズ卿はこう回想している。
私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢ではないかと、
自分の手を何度もつねったのです。
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられまし
た。すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りて
きてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。我々も遅ればせなが
ら答礼しました。
キャプテンは、流暢な英語で我々にこうスピーチされたのです。
「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲスト
である。」
「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たと
え遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、
救助した。水没したり、甲板上で死亡した者を除いて、午前中だけ
で404人、午後は18人を救助した。乗組員約150名の3倍近
い人数である。
翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡された。
移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍
艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に敬礼した。工藤
艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。
■「サイレント・ネービー」の伝統
フォール卿は、戦後、外交官として活躍しサーの称号まで得、定
年退職後、平成8年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、
その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
平成15年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。84歳を迎
える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤
艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。
しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは
叶えられなかった。
工藤俊作氏は自身が離艦した後に乗組員とともに撃沈された「雷」
のこともあったのか、その後、自衛隊の仕事には就かず、戦友とも
連絡をとらなかったので行方が分からなかったのである。
工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は
「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口
外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統を忠実に
守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と職務を忠実に果たして、静
かにこの世を去っていったのである。