空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく

アフガン緑の大地

2010-01-09 17:31:59 | こころに残るはなし
何年も前に、TVの何かのドキュメンタリーでアフガニスタンがソ連が侵攻する以前は豊かな緑の大地だった映像を見ました。驚いた。今は荒涼としたところというイメージだったので、それが戦争によって荒れ果てたという人災であったことに。

そして今、このDVDを見てまた驚いた。
美しい小麦畑。今?これは今なのか?
しかも、そのことに日本人が貢献していたということがまたしみじみうれしい。
中村哲さん。医師。ただ苦しんでいる人を自分ができることで助けたかった。
でも水も食べ物もなければ、病を治すどころか生きることもむづかしい。
現地で医療活動をする中で、そもそもの問題に行き当たり、2003年、このひとは乾燥した大地に水路を作ることに乗り出した。
土木には素人だから高校の教科書から勉強し、現地のひとがメンテナンスしていけるよう日本の昔ながらの人力を使った工法を学び、日本で訴え資金を募り、たくさんの現地の人々とほんとに作ってしまった。
初めて水路に水が流れる映像は感動します。

以前と今の違いは歴然。なみなみと流れる水路の両脇に緑は茂る。はじめに出てくる小麦が揺れる映像はこの困難な道のりを思えばよけいに美しい。

ニュースにもなったこのペシャワール会の若者、伊藤和也さんが殺された時、現地の人々が大勢伊藤さんを探し、嘆き哀しんだのは現地の人々の身になったこんな活動があったからでした。

日本が出来ることのお手本のよう。
こんなことを国が外国のためにやったらなんて進んだ国だろうって、誇りを持てるのになあ。

アフガンに命の水を
http://www.ndn-news.co.jp/shop/pickup/031212_6.html

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/

神様からのメッセージ

2009-11-14 10:17:18 | こころに残るはなし
45歳の時にトラクターに腕をはさまれ両腕を失くされて20年。
現在は詩画の美術館も出来ている大野勝彦さんの詩です。

******************************


神様からのメッセージ 
      大野勝彦

それでも生きるんじゃ
それだから生きるんじゃ
何だ偉そうに
「格好悪い。ああ人生おしまいだ」
なんて、一人前の口を叩くな

あのな、お前が手を切って
悲劇の主人公みたいな顔して
ベッドで、うなっていた時なー
家族みんな、誰も一言も
声が出せなかったんだぞ
ご飯な、食卓に並べるのは並べるけど、
箸をつける者はだぁれもいなかったんだぞ

これまで一度も、神様に手なんか
合わせたことがない三人の子どもらナ
毎晩、じいさんと一緒に、正座して
神棚に手を合わせたんだぞ

バカが
そんな気持ちも分からんと
「なんも生きる夢がのうなった」
「他の人がバカにする」
そんなこと言うとるんだったら

早よ、死ね
こちらがおことわりじゃ
お前のそんな顔見とうもナイワイ
どっか行って、メソメソと
遺言でも書いて、早よ、死ね

なー体が欠けたんじゃ
それでも生きるんじゃ
それだから生きるんじゃ
考えてみい、お前の両親いくつと思う
腰曲がって、少々ボケて、もう年なんじゃ
一度くらい、こやつが、私の子どもで良かった
「ハイハイ、これは私達の自慢作です」って
人前でいばらしてやらんかい
もう時間がなかぞ

両手を切って、手は宝物だった
持っているうちに、気づけば良かった
それに気づかんと、おしいことをした
それが分かったんだったら
腰の曲がった、親の後ろ姿よー見てみい
親孝行せにゃーと、お前が本気で思ったら
それは、両手を切ったお陰じゃないか……
今度の事故はな
あの老いた二人には、こたえとるわい
親父な、無口な親父な
七キロもやせたんだぞ
「ありがとう」の一言も言うてみい
涙流して喜ぶぞ、それが出来て
初めて人ってもんだ

子ども達に、お前これまで何してやった
作りっぱなし、自分の気持ちでドナリッパナシ
思うようにならんと
子育てに失敗した、子育てに失敗した
あたり前じゃ
お前は、子育ての前に
自分づくりに失敗してるじゃなかか
あの三人は、いじらしいじゃないか
病室に入って来る時ニコニコしとったろが
お前は「子達は俺の痛みも分かっとらん」
と俺にグチ、こぼしとった
本当はな、病室の前で、涙を拭いて
「お父さんの前では楽しか話ばっかりするとよ」と、
確認して
三人で頭でうなずき合ってからドアを開けたんだぞ
学校へ行ってなー
「俺の父さんは手を切ってもすごいんだぞ。
何でも出来て、人前だって平気なんだぞ」
仲間に自慢しているっていうぞ
その姿思ってみい
先に逝った手が泣いて喜ぶぞ

しゃんとせにゃ
よし、俺が見届けてやろう
お前が死ぬ時な
「よーやった。お父さんすばらしかった。父さんの子どもで良かった」
子どもが一人でも口走ったら俺の負けじゃ
分かったか
どうせまた、言い訳ばかりしてブツブツ言うだろうが
かかってこんかい!
歯をくいしばって、度胸を決めて
ぶつかってこんかい
死んだつもりでやらんかい
もういっぺん言うぞ
大切な人の喜ぶことをするのが人生ぞ
大切な人の喜ぶことをするのが人生ぞ

時間がなかぞ………………
時間がなかぞ………………

******************************

ホームページ
http://www2.infobears.ne.jp/oonokatuhiko/




いのちの作法

2008-12-02 13:48:02 | こころに残るはなし
沢内『生命行政』を継ぐ者たち
~地に足つけて語る希望~
11/29から東京・ポレポレ中野で上映。横浜、川崎でも。

 暗い話ばかりの近ごろ、これはしっかりとした希望を地に足のついた着実な態度で語る明るい映画である。 
 もう半世紀近い以前に日本で最初の老人医療費の無料化や乳児死亡率ゼロを達成して福祉行政のお手本になった岩手県の沢内村(現、西和賀町)が、いまどんなにその成果を発展させているか。
 かつて村長の強い希望で進められた政策が、いまでは町の人たちの自発的な活動となって多様な実りをもたらしている。
 たとえば知的障害者たちの施設では、休耕田を借りて彼らなりの米づくりをやっている。ここだけでなく知的障害のある人たちを仲間に入れた活動がしばしば出てくるが、彼らの仕合わせそうな表情がとてもいい。
 ある集落では、首都圏の養護施設から家庭で厳しい状況におかれていた子どもたちを迎えて、近くの素晴らしい自然で数日遊ばせて集落ぐるみで温かく見守る。別れるとき「人にありがとうとごめんを言うことが大事だ」と言ってあげる場面などに、真情あふるるものがあって感動的だ。
 そして老人を大事にすること。特別仕立ての雪橇(ゆきぞり)で老人たちに雪見してもらう計画がたてられる。ところがこの年は異例の雪のなさ。人々は雪を運んできて大通りに敷く。そのにぎやかなさわぎ。
 一貫して見られるのは昔からの村の共同体の助け合いの伝統が福祉という形式に鮮やかに受け継がれて新しい工夫が重ねられていることである。小池征人監督は描く相手の人柄が自然に画面に出るような撮り方でかずかずの秀作を作ってきた記録映画作家であるが、その資質が最もよく生かされた作品だと思う。風景もいいが人が素晴らしい。(佐藤忠男・映画評論家/朝日新聞)

いのちの作法
http://nishiwaga-film.main.jp/

苦しみ同じ

2008-05-20 13:31:18 | こころに残るはなし
分断●イスラエル・パレスチナ60年
~遺族同士 探る和解~

 エルサレムの自爆テロで11年前に長女(当時14歳)を殺されたラミ・エルハナン(58)は3月10日、ポーランドの首都、ワルシャワにいた。テロや紛争で肉親を失ったイスラエルとパレスチナの人びとでつくる「遺族の会」のイスラエル側代表として、会の活動を記録したドキュメンタリー映画の試写会に招かれた。
 パレスチナ側代表は公務員のバッサム・アラミン(39)だ。昨年1月、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸の町アナタで次女(当時10歳)をイスラエル警察によるとみられる発砲で亡くした。
http://blog.goo.ne.jp/ben-chicchan/e/4a38af3f8ef0b18bfa6c2a57a6855784
 彼も試写会に出るはずだったが、来られなかった。イスラエル人はポーランドへビザなしで入国できるが、パレスチナ人は事前に用意しなければならず、間に合わなかったからだ。
 試写会場にはイスラエルとパレスチナの駐ポーランド大使らも姿をみせていた。

 映画は、双方の遺族たちが苦しみの末たどり着いた平和への決意を伝えていた。
「復讐で肉親は戻らない。痛みも和らがない。平和をつくっていくしか道はない」
 会場は感動に包まれた。
 その時だった。
「われわれとパレスチナ人の苦しみは違う」
 イスラエル大使が突然、声を上げた。
「パレスチナのテロリストはイスラエルの市民を狙って殺す。パレスチナ市民の犠牲者は、イスラエル軍がテロを防ごうとして攻撃した結果、巻き添えになった人たちだ」
 会場はどよめいた。
 エルハナンは立ち上がった。
「私は同僚のバッサム・アラミンの思いを代弁する。最愛の肉親を失ったわれわれの苦しみに相違はない。アラミンがここに来られなかったように、パレスチナ人はより困難な境遇にあることを思いやらなければならない」
 イスラエル大使らの一行は無言で立ち去った。
 占領下のパレスチナの現実に、大多数のイスラエル市民は無関心だ。この深い溝を埋めるのは容易ではない。エルハナンは昼の仕事を終えると、夜は年間200日以上を遺族の会のボランティア講演にあてている。「1人でも説得できれば、1人の命が助かるかもしれない」と思うからだ。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥

 イスラエル建国の48年に生まれた女性実業家マシュカ・リトバク(59)はその年の戦争で父親を、70年にはエジプトとの戦争で兄を失った。いま、遺族の会で知り合ったパレスチナ人のエイド・アブアヤシュ(60)と交流している。アブアヤシュも父を48年の戦争で亡くしていた。
 昨年7月、アブアヤシュ夫妻を初めてイスラエルのリトバクの自宅に招いた。だが、それきりだ。夫妻の住むヨルダン川西岸のベトオマル村ではイスラエル軍と若者の衝突が頻発し、軍の封鎖で住民の移動が制限されてしまった。
 アブアヤシュの家に2月、イスラエル軍が押しかけた。壁は壊され、家具はひっくり返された。息子が「テロ組織とのかかわり」を疑われて連行され、数時間拘束された。
 アブアヤシュは嘆く。
「私はパレスチナ人たちにイスラエルとの和解を勧めたい。しかし、それをイスラエルに妨害されている」
 和解を求める人びとにも、互いに憎悪を増殖させてきた60年の現実が立ちはだかる。(朝日新聞 08.5.2)

※写真左/ラミ・エルハナンさん 右バッサム・アラミンさん

3. 熊森

2007-10-04 15:03:07 | こころに残るはなし
『クマともりとひと』より

私は森のことを調べながら、ふと、こんなことを考えました。日本は、なぜこんなに豊かになれたのかと。それは私たちの祖先が、つい最近まで、広葉樹の自然の森を、手つかずで奥地に残してくれていたからです。この森からは、一年中、大量の水がこんこんと湧き出していました。広葉樹の大量の落ち葉をくぐって森の中にいったんしみ込んだ雨水は、何十年後かに湧き水として出て来ます。その時は、もはや元の雨水ではなく滋養たっぷりの水になっており、この水を使って農業をすると農作物がよく育ちます。飲むと、とてもおいしい水です。清らかなこの水は、都市の水源となり、工業用水となって日本の工業を支え、海に流れていっては藻を育てて豊かな漁場を作り、魚介類を増やしていたのです。

もし、日本の奥地を、今のように行き過ぎた開発と人工林で荒らしたまま放っておけば、近い将来、次々と森は崩壊し始め、かつて森を失った文明が全て滅びたように、湧き水を失って全産業が衰退し、日本文明が滅びてしまうと、私は思うようになりました。
経済大国、軍事大国、文化大国、いろいろな大国があると思いますが、「何よりも自然保護大国でなければ、21世紀、この国は生き残れない」と、私は、はっきり確信を持つようになりました。

私たちが『熊森』と名付けたクマの棲む原生林に、入ってみました。こういう森は、今や例外的にわずかに点状で残っているだけです。そこは人間がほとんど入っていない森だということでした。人がほとんど入っていないのなら、植物が密生しているのだろうと私は思ったのですが、中に入ってみると、まるできのう、植木屋さんが入ったように大きな空間でいっぱいのきれいな森でした。
ブナやミズナラなどの落葉広葉樹の葉を通った日光が林床を照らし、森の中は緑色の大きなドームでおおわれたような明るい空間となっていました。この森には名前も知らない樹木や下草が、種々雑多に生えており、絵のような美しさでした。保水力は抜群で、あたり一面が、しっとりと湿っており、森のあちこちから清らかな水のしずくが滴り落ちて、岩まで(!)苔むしていました。

これが本当の森なんだ!!

初めて見た『熊森』に、私は感動してしまいました。そして、この森を歩きながら、動物は森に寄生しているんじゃない。植物と動物は密接な共生関係になっていて、動物はこういう豊かな森を造っているのだと、突然気がつきました。クマの通る大きなけもの道は、森に風を引き込みます。また、クマは習性として、高い木の枝を折りながら木の実を食べていくので、森に光を入れていきます。地域によってクマは、スギの木の皮をはぐので、林業家に害獣として目のかたきにされ、根絶をめざして現在もわなでどんどん補殺されています。このクマの皮はぎ行為の目的は謎とされていますが、あまりにも多く植えられてしまったスギを、森の生態系復元のために減らそうとしているのかもしれません。京都の芦生原生林を研究されている主原憲司先生によると、その行為は、将来いろいろな動物たちの冬眠穴になる樹洞(うろ)を形成するために欠かせないものなのだそうです。

延々と続く奥地の人工林の中へも入ってみました。外から見ると青々とした三角形のスギの木が整然と並び、本当にきれいな緑の森でした。しかし、一歩中に入ると、真っ暗。林床には一年中日がささず、草一本生えていません。雨水で表土は流され、がれきがむき出しになっていました。どこまでいっても、生き物の気配はなく、絶望的な死の森でした。

 ‥‥‥‥‥‥‥

この後も森山さんたちは集会を持とうとして、クマ問題を利用して利益をねらっている人たちに直前になって乗っ取られて深く傷つきます。悶々としているときに、森山さんは一冊の本に出会います。岡島成行著「アメリカの環境保護運動」(岩波新書142)。欧米では数十万人規模、百万人規模の、大きな自然保護団体がいくつも育ち、大活躍しています。そして、これらの自然保護団体が、実際に開発を止めたり、自然を守ることに成功したりしています。ここに進むべき道を見い出していくのでした。
「自然を守るのは、行政でもない、学者でもない、こういう動物たちが滅びていくことに胸を痛めて、動物たちの気持ちになることができる子供たちや、名もなき心やさしい一般国民なんだ。」

1997年春、『日本熊森協会』設立。かつての武庫東中学校の生徒たちが協会のリーダーとなって先頭に立ち、活動を大展開させ始めます。現在も使命感にあふれた志のある若者たちが多く活動しているようです。いまだにクマは殺され続けています。そのあたりは協会のホームページをご覧ください。

最後に森山まり子さんのコメント。
『今、私はこの活動をしてきて、本当によかったと思っています。私はおかしいと思うことに声を上げ、逃げずに行動してきました。おかげで、胸を張って生きることができます。私の師が、あるときこんなことを教えてくれました。

「人間はね、自分以外のもののために生き始めたときから、本当の人生が始まるんだよ。」

私はこの11年間、自分以外のもののために、自分のすべてをかけてきました。そして、この方が、逃げていたときよりもずっと人生が楽しくて、生き生きしたものになることを知りました。これが本当の人生だったんだ。私に本当の人生を歩ませてくれた教え子たちに感謝をしています。
わたしは今、マザー・テレサの言葉に、深く同感しています。
「愛は、言葉ではなく行動である。」』

『クマともりとひと』/日本熊森協会
(2007.1.1第一刷 現在第5刷累計10万1000部発行)
¥100+送料¥300
日本熊森協会
http://homepage2.nifty.com/kumamori/

2. 山動く

2007-10-03 18:48:35 | こころに残るはなし
『クマともりとひと』より

生徒たちが集めた署名を持って、各会の会長である16人の生徒たちと一緒に、私も県庁に行きました。
「明らかに、スギ・ヒノキの人工林が行き過ぎているので、止めてください。」と、林務課の係官にお願いすると、
「これからも兵庫県はスギ・ヒノキをどんどん植えていくんです。」と、反対に怒られてしまいました。生徒たちは1時間半必死で
「クマを絶滅させないで」と訴えましたが、何ひとつ聞き入れてくれませんでした。同行をお願いした自然保護の大家と呼ばれる大学教授は、「クマは絶滅の恐れがない」と、この前私に話したことと正反対のことを突然言い出すし、取材に来てくれた新聞記者は、
「記事になりません。降りさせてもらいます。」
と言って帰ってしまいました。当時兵庫県では、狩猟と有害駆除で年間約30頭のクマが殺されていました。60頭のこっていて、1年間に30頭ずつ殺していったら、絶滅が時間の問題であることは、小学生でもわかることではないですか。

今でも覚えています。三宮駅のプラットホームで、私と生徒たちは、茫然としてつっ立っていました。私はなんだか大人として、生徒たちにとても申し訳ない気持ちになって、
「悪かったね。」と謝りました。動物を絶滅から救おう、森を守ろうと、ここまで頑張って涙ぐましい努力を続け、毎日毎日動き回った中学生は、日本中探しても、いや世界中探してもどこにもいないだろうと私は確信していました。自然保護史上に残るような大変な動きを彼らはやったのです。でも、何もきいてもらえませんでした。
私は生徒たちがかわいそうになって、「来なければよかったね。」と、なぐさめました。すると、生徒がこう言いました。
「先生、ぼくら今日、県庁に行ってよかったですよ。大人の世界って汚いんですね。だんだんわかってきました。ぼくら、ものすごく闘志がわいてきました。これから猛勉強して、ぼくらの調べたこと、きっとあの人たちに聞かせてみせます。」
彼らはホームの上で、ひとりずつ順番に誓い始めました。

そして、その誓いどおりにこの後、進んでいくことになるのです。
その後、武庫東中学校が、文部省推薦のような信じられない学校に変わってしまいました。中学生たちが、自分たちの力で世の中を変えてみせると決意した瞬間、それまで無意味だった勉強が、すべて意味のあるものになったのだと思います。生徒たちは使命感に燃えて猛勉強を始めました。

いま、日本の学校がうまく作動しません。このことについて、学校が悪い。親が悪い。みんないろいろ言いますが、実はだれも悪くないことがわかりました。日本の学校が成り立たなくなったのは、世の中があまりにも豊かになり過ぎて、子どもたちが、どんな努力をしてでも獲得したいと思うような崇高な志をもてなくなったからです。

高い志を持った瞬間から、子供というのは、勉強しろなんて言われなくても、どんどんし始めることを知りました。いじめ問題もなくなりました。

その志が、自分以外のもののためだったら、なおさらです。自分のためだったら、苦しくなったらやめてしまいます。でも自分に救われることを待っているあわれな弱者のためだったら、苦しくなっても頑張りつづけられるのです。

 ‥‥‥‥‥‥

この後、必死になっていろんなところに手紙を出しても返事はなく、営林局や環境庁の係官にやっと会いに行っても茫然とする返事ばかりでした。それでも彼らはあきらめません。
当時の貝原俊民兵庫県知事に直訴します。これまでの行政の人々の反応から期待していなかったのですが、貝原知事は意外にも予想に反して最も生態学を理解していました。
「君たちよく勉強しているね。この問題は難しいよ。光の部分と影の部分があるからね。私の仕事なのでやってみます。」すぐに関係部署に予算がつきました。ですが、まだそれは調査・研究のためだけの予算でした。

さらに彼らは訴えます。そして、全国植樹祭で植えるスギの木を広葉樹に撤回してもらうことになります。新聞に発表されました。天皇・皇后両陛下のお手植えも広葉樹になりました。両陛下にも手紙を書きました。それがさらに新聞にのり、その日、いままで全く動かなかった環境庁で、臨時職員会議が開かれ、翌日環境庁長官が「兵庫県ツキノワグマ、絶滅のおそれにつき、狩猟禁止令を発令します。」と発表します。生徒たちは高校生になっていました。

※写真は貝原知事と武庫東中学校の生徒

詳しくは『クマともりとひと』/日本熊森協会
http://homepage2.nifty.com/kumamori/

1. ぼくら寿命まで生き残りたいねん

2007-10-02 17:12:41 | こころに残るはなし
『オラ、こんな山嫌だ
雑木林消え腹ぺこ、眠れぬ
真冬なのに里へ…射殺
ツキノワグマ環境破壊に悲鳴』(1992.1.14 朝日新聞夕刊)

1992年。
ひとつの新聞記事が兵庫県尼崎市立武庫東中学校の生徒たちと
森山まり子先生という理科教師を動かしました。実話です。

現在彼らは「かつて森を消した文明は全て、滅びている」ということを胸に<日本熊森協会>という活動にまでそれを育てました。そこが出している小冊子『クマともりとひと』よりの抜粋です。

 ──────────

「クマは本来森の奥にひとりでひっそりと棲んでおり、見かけと正反対で大変臆病。99%ベジタリアンで、肉食を1%するといっても昆虫やサワガニぐらい。人を襲う習性など全くない。」
<ツキノワグマ日記/宮澤正義著>
宮澤さんは人間が入ることなどほとんどなかった数十年前の長野の山奥で、1日に20頭のツキノワグマとすれ違っていた。けれども何かして来たクマなど1頭もいなかった---。

 ‥‥‥‥‥

ある女生徒が持ってきた新聞記事(冒頭の記事)を授業で読んだ後のことでした。当時、自然保護運動にマイナーで憂鬱で絶対したくないというイメージを持っていた森山先生でしたが、真剣な顔で
「かわいそうやんか。助けてやろうや。」
という生徒たちに押されるように調べはじめ、そんなことに取り組む団体がないことを知ります。生徒たちは顔を合わす度に
「先生、『クマ守れ』言う人、現れた?」と、きいて来ます。
返事に困り、追い詰められたような気持ちになってついに同じ学校の理科教師3人と<野生ツキノワグマを守る会>を立ち上げます。
「みんなにやいやい言われていた、クマを守ってやろうという話だけどね。誰も守る人はいなかったんよ。それで、先生たち、『野生ツキノワグマを守る会』という会をつくりました。声をあげてみるね。」

 ‥‥‥‥‥

その日、私が職員室で仕事をしていると、何人かの生徒たちが思い詰めたような顔をして、私の机の方に向かってきました。
一人の男の子が「先生、『野生ツキノワグマを守る会』に、ぼくらを入れてください。ぼくら、あの新聞記事を読んで、胸が痛くて耐えられないのです。」と言って胸を押さえ、本当に苦しそうでした。
私は現代っ子がこのことにそこまで苦しんでいたなんて想像もしていなかったので、本当にびっくりし、胸がいっぱいになりました。でも、生徒を入れると、生徒を扇動したなどと批判されるだけだと思ったので、断りました。すると次の日、今度は生徒たちは4~5人ずつのグループになって登場しました。
「先生、本日『野生動物を山に返そうの会』を結成しました。」
「『ツキノワグマよみがえれの会』を結成しました。」
「『熊の会』を結成しました。」などと、言います。
このときすでに、私が教えていない生徒たちの顔も交じっていました。『理科だより』が校内をかけめぐっていたことを、後で知りました。こうして武庫東中学校に、16のクマの保護団体ができたのです。

生徒たちはこの問題は森の問題でもあると、初めからわかっていました。家から関係がありそうな本を続々と持ってきて理科室に集まり、むさぼるように読んで調べ始めました。読めば読むほど、「日本の森と動物が大変だ」と、もう危機感でいっぱいになっていきました。
生徒たちの動きはとっても早く、テレホンカードを集めて、クマが残っている兵庫県北部の但馬地方に、どんどんと電話をかけ始めました。町役場の係の人に
「兵庫県のツキノワグマが絶滅してしまいます。殺すのをやめてください。」と、頼みました。町役場の方は
「クマ守れ!?わしらとクマとどっちが大事なんや。許さんぞ。」
とどなたもかんかんでした。
当時、私たちは、なぜそんなに地元の方が怒られるのか、わけがわかりませんでした。猟友会に電話をしたりもしましたが、法的に認められていることをしているだけだと、反論されてしまいました。

そこで、こんなときは署名だということになって、
『絶滅寸前兵庫県ツキノワグマ捕獲禁止緊急要請』という署名文を、理科教師たちで作りました。作ったのはいいのですが、大人ってだめですね。正しいことをしているとわかっていても、何か照れてしまって。私たちは市内の理科教師に署名の依頼を送っただけです。しばらくして、市内のほとんどの理科教師70名から賛同の署名が返ってきました。ところが、生徒たちの会の方が、連日どんどん署名を集めてきます。私は不思議でたまらなくなって、あるとき生徒たちにたずねてみました。
「君ら、どうやって署名集めてるの?毎日こんなにいっぱい。」
その答えをきいたとき、私は声も出ませんでした。
生徒たちがこう言ったのです。
「先生、ぼくらピンポン鳴らして町内を回ってんねん。」
「駅に立っててんねん。」
「わたしたちはスーパーの前に毎日立っています。」
現代っ子が、自分に何の利益にもならないことのために、ここまで頑張っていたなんて。私は涙があふれそうになりました。生徒たちは、何の罪もないクマなどの野生動物を、人間のせいで絶滅させるのは、あまりにもかわいそうだと必死になって署名を集めに集め続けました。私は最後には、本当にもうわけがわからなくなって、ある生徒にきいてみました。
「君ら、何でそこまでするんや。」
一人の男の子が言いました。
「先生、これクマだけの問題と違う。ぼくらの問題でもあるんや。先生、ぼくら、寿命まであと何年生きなあかんと思う。あと70年ぐらい生きなあかんねん。今の自然破壊見てたら、僕ら寿命まで生き残れられへんてはっきりわかるねん。ぼくら寿命まで生き残りたいねん。」
まさに中学生の叫びでした。
もう一人の男の子は、寂しそうな顔をして、こう言いました。
「先生、大人って、ほんまはぼくら子供に愛情なんかないんと違うかな。自然も資源もみんな、自分たちの代で使い果たして、ぼくらに何も置いとこうとしてくれへんな。」
私は、大人の一人として、この言葉が本当にこたえました。返す言葉が、見つかりませんでした。

それから彼らの驚くべきさらなる前進が始まります。
詳しくは『クマともりとひと』/日本熊森協会
http://homepage2.nifty.com/kumamori/

この小冊子『クマともりとひと』は、クマはもちろん、日本のゆくすえやひとの生き方に直接結びついた深くひろいテーマをはらんだほんもののドラマが描かれています。こどもたちや人間の可能性が深く胸に響き、視野がひろがる名著です。日本熊森協会に問い合わせれば
1冊¥100+送料¥300で入手できます。
ぜひ多くの方が手にされますよう。

天国の虹の橋

2007-08-28 14:37:26 | こころに残るはなし
いずれも原作者不明ですが、心に響きます。

天国のほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。飼い主と愛しあっていた動物は死ぬとそこに行き、幸せに満ちた生活を送ります。そして、ある日、「特別な誰か」と再会します。お互いの心から一日も消えることのなかったその瞳を確認し、一緒に虹の橋を渡ります。生きているときに誰にも愛されなかった動物もそこでは奇跡が生まれます。同じようにぽつんとたたずむ中から特別な人と出会い、そして一緒に虹の橋を渡るそうです。

「犬の十戒」は飼い主に向けたメッセージです。
1)私の一生は15年ほどしかありません。わずかな時間も離れるのは
  辛いから、私を飼う前によく考えてください。
2)あなたが望むことを私が理解するには時間が必要です。
3)私を信頼してくれるだけで幸せです。
4)私に辛い罰を与えないでください。あなたは自分の世界があるで
  しょうけれど、私にはあなたしかいないのです。
5)私に話しかけてください。
  言葉はわからなくても私は理解できるのです。
6)あなたの扱いを私は決して忘れません。
7)私を叩く前に思い出してください。あなたの手を噛み砕く歯を持
  っていても、それを使わないことを。
8)私を叱る前に原因があなたにないか考えてみてください。
9)私が年をとってもお世話してください。
  あなたも同じように年をとるのです。
10)最後の旅立ちのときは側で見送ってください。あなたが側にい
  るだけで、どんなことも安らかに受け入れられます。そして、
  どうか、忘れないでください。私があなたを愛していることを。

*写真は繁殖犬として用済みになったところをスタッフがもらい受けたパインちゃん。6年間幸せに暮らし、11日に生涯を閉じた。

(新潟動物ネットワーク 岡田 朋子
       /新潟日報より抜粋 07.8.23)

伝説のスピーチ

2007-06-27 14:12:35 | こころに残るはなし
mixiのマイミクのケロちゃんが日記で紹介していました。
聞けば聞くほどぐっときました。

1992年6月。ブラジル、リオ・デ・ジャネイロでの「環境と開発に関する国連会議( 環境サミット)」に集まった世界の指導者たちを前に、たった12歳の少女、セヴァン・ スズキは伝説のスピーチをした---。

セヴァンからのメッセージ。
http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg

敵兵を救助せよ

2007-05-07 19:27:58 | こころに残るはなし
先日TVで見ました。
戦争の最中にこんなこともあったのですね。
このことが広く知られたのは平成になってからのことのようです。

 ――――――――

 平成10年4月、英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問へ
の反対運動が起きていた。その中心となっていたのは、かつて日本
軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた処遇への恨み
が原因であった。

 その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文
を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解するこ
とに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、
自身の体験を語った。

 ――――――――

■「オラが艦長」
 
 工藤俊作が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15年
11月1日だった。大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある
細い目をしていた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、
乗組員たちはたちまち魅了されていった。

 着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに
鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには「兵の失敗
はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように
命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告し
ても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。

 酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交
わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士官室での
エビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換せんか」と言
ったりもした。

 2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と自慢
するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」
とまで公言するようになった。


■「これは夢ではないか」

 英国海軍の駆逐艦「エンカウンター」は日本艦隊の追撃を受け、
撃沈された。「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出
した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。
その状態で、約21時間も漂流する。

 そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張りが
「漂流者400名以上」と報告した。潜水艦に攻撃を受ける可能性
もある危険な海域であった。150名の乗組員を預かる重責にも関わら
ず、工藤艦長は敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」
と命じた。それは大変な勇気の要る決断だった。
  
 「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿を
差し出した。重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り
絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したの
か、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板
上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」
と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら海に
飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

 しまいには最低人員のみ残して総動員の救出劇である。こうなる
と、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人である。甲板上で日
本人乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。無事、救出され
た英兵の体についた重油は日本人乗組員が布とアルコールで拭き取
った。そして新しいシャツと半ズボン、靴が支給され、熱いミルク
やビール、ビスケットが配られた。

 ――その時20歳だったフォールズ卿はこう回想している。

 私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢ではないかと、
自分の手を何度もつねったのです。
 間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられまし
た。すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りて
きてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。我々も遅ればせなが
ら答礼しました。

 キャプテンは、流暢な英語で我々にこうスピーチされたのです。

「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲスト
である。」

 「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たと
え遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、
救助した。水没したり、甲板上で死亡した者を除いて、午前中だけ
で404人、午後は18人を救助した。乗組員約150名の3倍近
い人数である。

 翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡された。
移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍
艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に敬礼した。工藤
艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。


■「サイレント・ネービー」の伝統

 フォール卿は、戦後、外交官として活躍しサーの称号まで得、定
年退職後、平成8年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、
その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。

 平成15年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。84歳を迎
える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤
艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。
しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは
叶えられなかった。

 工藤俊作氏は自身が離艦した後に乗組員とともに撃沈された「雷」
のこともあったのか、その後、自衛隊の仕事には就かず、戦友とも
連絡をとらなかったので行方が分からなかったのである。

 工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は
「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口
外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統を忠実に
守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と職務を忠実に果たして、静
かにこの世を去っていったのである。