人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者② 拈華微笑 ねんげみしょう)
「拈華」は花をひねること。
「花をひねりて微笑する」ということ。
釈迦が霊鷲山(りょうじゅうせん)で
弟子たちに仏法を説かれた時、
金波羅華(金色の蓮の花)を
ひねって見せると
弟子達はその意味を
理解できず沈黙していた。
ただ一人、迦葉だけが
その意味を悟って微笑んだので
釈迦は彼だけに
仏法の真理を授けたと仰言った。
禅宗ではこれを
「以心伝心・不立文字」
といい、
釈迦は、迦葉が言葉で
表せない仏教の奥義を
理解できる者として、
彼に仏法の奥義を授けたことから
迦葉を禅宗の祖とあがめている。
真理というものは
言葉を離れたものであるから、
言葉を使わず、
心から心へ伝えること。
また、伝えることが
できることとしている。
離言真如=言葉を離れた真実であるが、
依言真如=言葉によらなければ、
誰にも伝えることは
できない。
ここに釈尊を初め、
善知識方の大変なご苦労が
あったことは決して
忘れてはならない。
大無量寿経には
弥陀の本願を聞信することが
如何に聞き難いかを
「如来の興世に値ひがたく、
見たてまつる こと難し。
諸仏の経道、得がたく聞きがたし。
菩薩の勝法・諸波羅蜜、
聞くこ とを得ることまた難し。
善知識に遇ひ、法を聞き、
よく行ずること、
これまた 難しとす。
もしこの経を聞きて
信楽受持することは、
難のなかの難、
これに過 ぎたる難はなし」
(大無量寿経下巻)
と御教導なされ、
親鸞聖人は
「善知識にあうことも
教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ
信ずることはなお難し」
(浄土和讃)
と、ご自信の体験を通して
教えて下された。
不可思議なる弥陀の救いを
我々凡夫に伝えるに
お釈迦様をはじめ、
七高僧、親鸞聖人、蓮如上人
のご苦労は並大抵の
ことでなかった。
「叫べども 叫べども
声を限りと 叫べども
なぜにとゞかぬ この六字
力とぼしき われを悲しむ」
善知識方の切実なる
お気持ち一杯を、
表わされたお歌である。
善知識方ははいつも、
出来うる限り、
力一杯話しておられる。
なのに何故に届かぬこの六字。
何故、共に喜んで下さる方が
少ないのであろうか。
それは、自分の伝え方が、
導き方がいけないのであろうか。
私は、自分の力一杯
やっているんですから、
それでもあかんとすれば、
私に、それだけ力が
ないということだ。
と、親鸞聖人は
「三朝浄土の大師等
哀愍摂受したまいて
真実信心すすめしめ
定聚のくらいにいれしめよ
(正像末和讃)
七高僧に応援に来てくださいと
まで仰言っておられる。
救おうとなされている
弥陀も命がけ。
伝えようとされている
善知識方も命がけ。
しかし、助けて頂く
私達がいい加減では
申し訳がたたないではないか。
深く反省したい。
「拈華」は花をひねること。
「花をひねりて微笑する」ということ。
釈迦が霊鷲山(りょうじゅうせん)で
弟子たちに仏法を説かれた時、
金波羅華(金色の蓮の花)を
ひねって見せると
弟子達はその意味を
理解できず沈黙していた。
ただ一人、迦葉だけが
その意味を悟って微笑んだので
釈迦は彼だけに
仏法の真理を授けたと仰言った。
禅宗ではこれを
「以心伝心・不立文字」
といい、
釈迦は、迦葉が言葉で
表せない仏教の奥義を
理解できる者として、
彼に仏法の奥義を授けたことから
迦葉を禅宗の祖とあがめている。
真理というものは
言葉を離れたものであるから、
言葉を使わず、
心から心へ伝えること。
また、伝えることが
できることとしている。
離言真如=言葉を離れた真実であるが、
依言真如=言葉によらなければ、
誰にも伝えることは
できない。
ここに釈尊を初め、
善知識方の大変なご苦労が
あったことは決して
忘れてはならない。
大無量寿経には
弥陀の本願を聞信することが
如何に聞き難いかを
「如来の興世に値ひがたく、
見たてまつる こと難し。
諸仏の経道、得がたく聞きがたし。
菩薩の勝法・諸波羅蜜、
聞くこ とを得ることまた難し。
善知識に遇ひ、法を聞き、
よく行ずること、
これまた 難しとす。
もしこの経を聞きて
信楽受持することは、
難のなかの難、
これに過 ぎたる難はなし」
(大無量寿経下巻)
と御教導なされ、
親鸞聖人は
「善知識にあうことも
教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ
信ずることはなお難し」
(浄土和讃)
と、ご自信の体験を通して
教えて下された。
不可思議なる弥陀の救いを
我々凡夫に伝えるに
お釈迦様をはじめ、
七高僧、親鸞聖人、蓮如上人
のご苦労は並大抵の
ことでなかった。
「叫べども 叫べども
声を限りと 叫べども
なぜにとゞかぬ この六字
力とぼしき われを悲しむ」
善知識方の切実なる
お気持ち一杯を、
表わされたお歌である。
善知識方ははいつも、
出来うる限り、
力一杯話しておられる。
なのに何故に届かぬこの六字。
何故、共に喜んで下さる方が
少ないのであろうか。
それは、自分の伝え方が、
導き方がいけないのであろうか。
私は、自分の力一杯
やっているんですから、
それでもあかんとすれば、
私に、それだけ力が
ないということだ。
と、親鸞聖人は
「三朝浄土の大師等
哀愍摂受したまいて
真実信心すすめしめ
定聚のくらいにいれしめよ
(正像末和讃)
七高僧に応援に来てくださいと
まで仰言っておられる。
救おうとなされている
弥陀も命がけ。
伝えようとされている
善知識方も命がけ。
しかし、助けて頂く
私達がいい加減では
申し訳がたたないではないか。
深く反省したい。