goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(阿難尊者④ 頼まれたら嫌といえない)

2011年04月20日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿難尊者④ 頼まれたら嫌といえない)

阿難は気の優しい、
頼まれたら絶対に
嫌とはいえない、
そんな性格をしていた。

こんなエピソードが残っている。

ある日のこと、
阿難が托鉢をしていると、
子供が二人泣いていたので、

「どうしたのか」

と尋ねた。
他の修行者は、
声を掛けなかったが、
阿難は放っておけなかった。

話を聞くと、
両親が亡くなってしまい、
いくところがないという。

阿難は仕方なく、
二人の子供を精舎に連れてきた。
そのころ、仏教教団では、
子供の出家は親の許可が
なければ認めない、
という方針を採っていた。

でないと、子供が親の
知らないうちに勝手に
出家してしまい、
親が怒鳴り込むという問題に
発展してしまうからである。

ところが、この二人の少年は、
親がいない。

さてどうしたものか。

長老たちは、子供を置いても
やることもできないし、
修行にならないから、
どこかの大きな商家で
働かせるのがいい、
という意見だった。

しかし、阿難はお釈迦様に
二人の出家を願い出た。

「商家で働かせても、
 いじめられるばかりで
 いいことがない、
 ここなら平和に安楽に過ごせるし、
 やがては修行ができるようになる。
 食事は、自分が托鉢したものを
 分け与えるから、
 どうか出家を許可して欲しい」

と。その熱意にお釈迦様は、
二人の少年の出家を
認めるようになった。

その後、親がない場合は、
本人の希望があれば
子供であっても出家を認めてよい、
という戒律ができた。




人間の実相を語る歴史人(阿難尊者③ 御同朋、御同行)

2011年04月19日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿難尊者③ 御同朋、御同行)

釈尊は三千年の昔に、すでに

「万人は平等なり」

と叫ばれた。
しかもかゝる如来の教法を、
身を以って実践なされた人こそ、
真宗の祖師、親鸞聖人であった。

あの階級対立の、
きびしい封建社会にあって、
全人類に向かって

「御同朋、御同行よ」

と愛の手をさしのべ、

「親鸞は、弟子一人も持たず」

と宣言なされている。

剣を抜いて迫りくる
弁円に対してさえも、
立場を変えれば、
この親鸞が他人を殺しにゆくのだと、
底の知れない慈愛で諭されている。

一視同仁の仏智を持たずして、
言えることではない。

戦後、特に自由平等が
強調せられるようになったが、
真の平等自由の天地は、
他力の大信心の世界にしか、
絶対にないことを知らねばならぬ。

「念仏者は無碍の一道なり
 そのいわれいかんとなれば
 信心の行者には
 天神地祇も敬伏し
 魔界外道も障礙することなし」
   (歎異抄)



人間の実相を語る歴史人(阿難尊者② すべての人は平等である)

2011年04月18日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿難尊者② すべての人は平等である)

阿難が、或る夏の暑い日、
行乞より祇園精舎に帰る途中、
余りにノドが乾いたので、
樹の蔭で一人の若い女が手桶に
水を汲んでいるのを見て、
一杯の水を求めた。

阿難は美男で有名だった。
釈尊在世中、遂に悟ることが
できなかったのは、
余りにも女難が多かった為だ
と言われている。

その阿難に言葉をかけられた娘は、
赤面しながら小さな声で、

「私は卑しい素性の女です。
 貴方のような尊い身分の方に、
 あげたくてもあげられません」

と断わった。

当時のインドには、
・婆羅門=僧侶
・刹帝利=王族
・吠舎 =平民
・首陀羅=奴隷
といわれる、
厳として破ることのできない
社会の階級があった。

婆羅門(僧侶)と刹帝利(王族)は、
殆ど同等の尊い身分とされていたが、
吠舎はそれらに対して、
婚姻は勿論、交際から
職業までも禁じられていた。

首陀羅に至っては、
直接それらと言葉も交されぬという、
虫ケラ同然にみなされていた。

今の娘は、その首陀羅であったのである。
釈尊は、かゝる四姓の鉄壁を打ち破って、
総ての人々は平等である、と喝破せられた。                                        

阿難は、優しく娘を慰めて

「人間は生まれながらに
 貴賤が定まっているのではない、
 仏の教えは一切の人々は、
 生まれながらに平等であり、
 自由だと教えられているのです。
 どうか遠慮なさらずに
 私に水を一杯布施して下さい」

と少女をはげましている。

「天は人の上に人をつくらず、
 人の下に人をつくらず」

明治の先覚者の言葉に、
当時の人々は驚いたが、
釈尊は三千年の昔に、
すでに

「万人は平等なり」

と叫ばれたと
いうことは、実に
驚嘆すべき事実である。




人間の実相を語る歴史人(阿難尊者① 釈尊のお世話を任されたお弟子)

2011年04月17日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿難尊者① 釈尊のお世話を任されたお弟子)

阿難は釈尊の従兄弟にあたり、
提婆達多の弟である。

阿難25歳の時、出家して
釈尊に仕えること25年、
常に釈迦に随従し、

「多聞(たもん)第一」

と讃えられる。

「釈迦の説法を最も多く聞いていた」

という意味だ。

お釈迦様より30才くらい若く、
美男子、やさしい、世話好き、
と伝えられている。

釈尊から大変可愛がられ、
身の周りのお世話を
任された。

『大無量寿経』において
「光顔巍巍」たる釈尊の輝きを見抜き、
大無量寿経こそが出世本懐の説法で
あることを語らしめるという、
重要な役割を演ずるのである。

釈尊の侍者として仕え、
今でいう秘書のような
役割を果たした。

それは釈尊晩年まで及び、
その入滅にも立ち合った。

仏の入滅の前後には
人事不省におちいり、
悲嘆慟哭したので、
阿那律から制止されたほどである。

釈迦如来が涅槃の雲に隠れられた時、
仏の慈悲はあらゆる動物たちにも
かけられていた為、
多くの動物達が集まった。

ただ、その中に猫だけは
いなかったといわれる。
猫が恩知らずといわれるのは、
このあたりからくるのだろう。
そういえば釈迦の臨終を
描いた涅槃図には
猫は書かれていない。






人間の実相を語る歴史人(ラゴーラ尊者② 蜜行第一)

2011年04月16日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(ラゴーラ尊者② 蜜行第一)

ラゴーラは釈尊と
ヤショダラ姫との間に生れた。

太子は我が子が産まれたとき、

「ラゴーラ(さわり)が生れてきた」

と言われた。
既に出家を決意されていた
太子にとって、
子供の存在は決意を
鈍らせることになる。

障礙(さまたげ)は
原語でラゴーラ。
それが命名の謂れであった。

釈尊のご教導で
生まれ変わったラゴーラは
周囲はどうしても
尊者を釈尊の子として
特別な目で見てしまいがち。

だからなおのこと、
ラゴーラは戒律を遵守された。
密行第一と称される所以である。

お釈迦様の仰言った
とおりの修行を厳密に
守っていかれたのであった。




人間の実相を語る歴史人(ラゴーラ尊者① 釈迦のご教導)

2011年04月16日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(ラゴーラ尊者① 釈迦のご教導)

出家前の釈尊とヤショダラ姫との
間に生れた子。
それがラゴーラであった。

成道跡、帰郷した釈尊に
よって出家させられ、
20歳で具足戒を受けた。

釈迦の子というので
特殊な眼でみられがちであったが、
よくその分をわきまえて、
制戒を守り、
十大弟子の一人に
数えられるようになった。

とにかく二代目は
駄目になりがちである。

釈尊の実子ラゴーラも
沙門となっていたが、
誰からも強く叱られない為に、
いたずらばかりしていた。
舎利弗に落書きをして困らせたり、
お釈迦様が竹林精舎に
お出かけなのに、
阿難には霊鷲山(リョウジュセン)だと言って
平気でウソをついて、
みんな手をやいていた。

それを聞かれた釈尊、

「そのまま放置して
 おくわけにはいかぬ」

と仰って、
ラゴーラのもとへ行かれた。

ラゴーラは喜んで、
父である釈尊の仏足を
タライの水で清めた。

ラゴーラが洗い終えた時、
釈尊はラゴーラに対して、

「ラゴーラよ、お前は
 その水が飲めるか」

と尋ねられた。

「え、飲めません。
 汚れています」

とラゴーラが答えると、

「お前もこの水のようなものだ、
 水は元来美しい。
 私の子でありながら
 道を励まず、心も清めぬ。
 汚れた水のようだ」

と釈尊は戒められた。

次に、その水を捨てさせた後、

「お前はこのタライに
 食べ物を入れて
 食べる気になるか」

「なりません。
 手足を洗う水を
 入れましたから」

「お前もそのタライのようなもの。
 出家の身でありながら
 口にマコトなく、
 徳を修める気もない。
 不浄の水を入れたようなものだ。
 人の心の糧を入れる
 わけにはゆかぬ」

ラゴーラには釈尊に
返す言葉がなかった。

釈尊はさらにタライを
蹴飛ばされた。そして、

「お前はタライがどうなったか、
 気になるか。
 壊れたかなと思ったか」

「あ、いいえ。粗末なものですから、
 あまり気になりません。」

「お前もこのタライのようなもの。
 僧でありながら言行を慎まず、
 人を悩ませる。
 結果は誰にも愛されず、
 惜しまれもしない。
 勿論、悟りは開けず、
 迷いに迷うこと、
 あのタライの如し」

ラゴーラはこれほど
父を厳しく恐ろしく
思ったことはなかった。

ラゴーラはその時、
心を入れ替えようと決心した。

同じことを言っても
聞いてもらいる人と
もらえない人がいる。

言行を慎んで、
心の器を磨かねば、
自分の話は聞いてもらえない。

仏法は全ての人の心の糧。
仏法を話す者。
求める者は特に自分の徳を
磨いてゆかねばならない。





人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者⑥ 第2回経典結集・アショカ王②)

2011年04月15日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者⑥ 第2回経典結集・アショカ王②)

堪忍の袋という宝をみつけた
アショカ王の家来は
城に赴く前に家に戻った。

愛妻にあっておきたいし、
身支度を整えてからと思い、
家に帰ったのである。

ところが家に戻ると
昼なのにカギがかかり、
家の中からは
妻と誰かの話し声が聞こえる。

「俺がこんなに苦労している時に、
 あいつは浮気を
 していたのか」
 
妻の裏切りに激怒した家来は
刀を抜き、家の中に
暴れこもうとした。

その時だった。
刀を抜こうとしていた手に
ポンと当たるものがあった。
あの首にかけていた堪忍袋だ。

急いで袋の中をのぞいた。

「怒りの心が起きた時、」 

今がその時だった。

「怒りのままに行動するのではなく」

このまま行動すれば、
家の中に入って、
妻も浮気相手も
惨殺することは間違いない。

「数を数えよ」

家来は怒りながらも
数を数えはじめた。

「イチ、畜生、俺がこんなに
 苦労して帰ってきたのに」

「ニイ、あいつ、
 誰と浮気をしているのか」

「サン、シイ」

と数えている内に大分、
心が落ち着いてきた。

「怒りの出所を考えよ」

とある。そこで思惟した。

「あいつが浮気したからだ。」

「でもまだ浮気したかどうか
 確証はないぞ」

「しかし昼にカギをかけ、
 ひそひそ話はおかしいではないか」

「でも誰と話をしているか、
 分からないじゃか」

そうだ、刀を抜くのは相手を
確かめてからでも遅くないと、
家来は抜きかけた刀を鞘にもどした。

そして、平常心を取り戻し、
家の中に入ってみて、驚いた。

夫を待ちわびて妻が大病にかかり、
実家の母がその看病に来て、
娘をなぐさめていたではないか。

家来はつくづく思った。
怒りのままで行動していたら、
大変なことになっていた。
最愛の妻を殺していただろう。

殺さなくても二人の間に
取り返しのつかない亀裂が
生じたに違いない。

この堪忍の袋、私にとって
千金どころか万金、億金に値した。

堪忍の袋によって、
夫婦の絆を護れた家来は
貴重な体験と共に堪忍の袋を
王に献上したのである。

するとアショカ王。

「よくぞ、素晴らしい宝を
 見つけてきた。
 この堪忍の袋、
 お前には千金か、
 万金かもしれぬが、
 私には大変な宝だ。
 王が怒れば、
 隣の国と戦争になり、
 何千、何万の若者が戦死し、
 その家族も泣くであろう。
 それもたった一時の怒りからだ。
 この堪忍袋、億金、兆金に値する」

と大変喜び、
これが釈迦の金言と知るや。
厚い仏法の外護者となったのである。

その後、貴重な仏典がまだ、
結集(けつじゅう)
されていないことを知り、
仏典を後世に残すことが
今までの罪の償いとともに、
真実を知らされたご恩返しになると
仏典結集を決意した。

これが有名なアショカ王の
第2回仏典結集である。

堪忍の袋の教訓がなければ
成し得なかった素晴らしい業績では
なかろうか。

「堪忍のなる堪忍は誰もする
 ならぬ堪忍、するが堪忍」




人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者⑤ 第2回経典結集・アショカ王)

2011年04月14日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者⑤ 第2回経典結集・アショカ王)

経典の結集は迦葉らの手で行われたが
1回では終わらなかった。

その経典結集に大いに貢献したのが
インドのマウリヤ朝の
第3代の王、アショカ王だ。

漢訳では阿育王と書かれている。
生没年は不明だが、
王権に在位していた時期は
紀元前268年-232年とされていて、
インド亜大陸をほぼ統一した。

古代インドにあって
仏教を守護した大王として
知られている。

伝説では、アショーカ王の
通った所は、すべて焼き払われ
草木が一本も生えていない、
といわれるほどの暴君だった。

あまりにも無残な戦争を反省し、
仏教に深く帰依した。

なぜアショカ王が
仏教を聞くことになったのか。

「堪忍の袋、値千金」

という諺を聞いたことが
あるだろう。

この王も堪忍の袋が縁で
仏道を求めるようになったのある。

アショカ王は金に恵まれ、
財産、地位や名誉、家族にも
不自由はしていなかった。

ところが心が恵まれて
いなかったのだ。

ある日、王は家来に命じた。

「この世の中で最も必要な
 宝を天下に求めよ」

すると、一人の家来が
「私に」と喜んで命を受けた。

彼は新婚まもなく、
この宝を見つけ、出世して
新妻を喜ばせようと考えたのである。

宝探しの旅にでかけたが、
王様を満足させるような
至宝を見つけることは困難を極めた.

何しろ、金や宝石は
充分に所持している王だ。
国中探しても見つからず、
年月が過ぎ去ってゆく。
家に残した最愛の妻の
ことが気にかかる。

そんなある日。
ある町の骨董屋の前を
通り過ぎようとすると、
気になる看板が目に入った。

「堪忍の袋、値千金」

どんな値のある物かと、
店に入り、店主にたずねた。

「堪忍の袋、値千金とあるが、
 そんなに価値のあるものか」

すると主人、

「ハイハイございますとも、
 使い方によれば千金にも万金にも
 値します」

「それならば買い求めよう」

と大枚千金を投じて、
堪忍袋を買うことに決めた.

しばらくして店の主人が
持ってきたのは、
首からかける袋で
中には紙切れが入れてある。
読んでみると、

「長く慮(おもんばか)りて、
 諦(あきらか)に思惟せよ。
 まさににわかに怒りを行うべからず。
 今日用いずといえども
 たまたま、まさに用ゆる時もあるべし」

と記されていた。

簡単にいうと、こうなるだろう。

怒りの心が起きた時、
そのまま行動するのではなく、
数を数えて、時間をとって、
怒りがおさまるまで動くな。
そして、少し心が落ち着いたら、
怒りの出所を考えよう。
それから行動しても遅くはないぞ。
堪忍の袋、値千金

といったところだろう。

家来は宝物を早く王様に献上しようと
帰りを急いだ。


人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者④ 経典結集)

2011年04月13日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者④ 経典結集)

釈尊は80才2月15日、
涅槃の雲に隠れられた。

ちょうどその頃、迦葉尊者は、
遠くの土地で托鉢をして、
五百人の修行僧と歩んでいた。
そこで釈尊の入滅を知ることになる。

どの弟子達も悲歎にくれた。

ところが悲報を聞いた中に一人、
スバッダという修行僧が

「釈尊入滅によって我々は
 解放されたのだ。
 これからは欲望の
 おもむくままにしよう」

と、暴言を吐いた。

これには迦葉も驚き、心を痛め、
正しい教法と戒律を定める
必要を感じたのである。

釈迦教団の後継者に
選ばれていた迦葉は
釈尊の葬儀の為に
旅先から戻ったが、
葬儀の開始時間には
間に合わなかった。

葬儀が執り行われ、ついに
棺に火をつけることとなった。

しかし、一向に棺が
燃え上がることはなかった。
何度も試みるが火は
くすぶるばかりであった。

そこに遅れて
迦葉尊者が到着した。

迦葉は釈尊の棺の前で
声高らかに誓った。

「この迦葉、これからは
 真実開顕に燃え上がり、
 破邪顕正の闘士となります」

と、燃える決意を述べ、
経典結集を誓ったのである。

その迦葉の燃える決意と共に、
今までくすぶっていた
釈尊の棺の火は
燃え上がったのである。

迦葉は早速、500人の
優れた仏弟子を王舎城に集め,
戒律については優波離尊者が,
経法については
阿難尊者が伝えたものを
全員が検討して,
これを成文化して承認した。

その資金は王舎城の悲劇で
仏縁を結んだ阿闍世王が
惜しみなく布施を
申し出られたのである。

これが有名な第1回結集だ。
もし、迦葉が経典結集を
決意しなかったなら、
今日、残る七千余巻の経門は
なかったのである。

迦葉尊者、最大の功績では
なかろうか。






人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者③ 頭陀第一)

2011年04月12日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(迦葉尊者③ 頭陀第一)

迦葉尊者は釈迦十大弟子の中で
頭陀第一といわれる。

「頭陀」とは、衣食住に関する貪りを
払い除く修行のこと.
打ち捨てられた汚いぼろ布で
作った僧衣だけを身に着け、
常に托鉢乞食によって食を得る。
乞食(こつじき)するのに家
の貧富を選ばず、
一日の食事は午前中の
一食だけとし、食べ過ぎない。

「頭陀第一」とは、
こういった頭陀行の実践を
だれよりも厳格に
行っていたのが迦葉尊者であった。

こういった頭陀の生活実践は、
本来の出家修行者としては
当然の習慣だったが、
教団が発展するにつれて、
比丘たちは僧院に定住するようになり、
寄進された綺麗な僧衣をまとったり、
招かれて信者の家で
食事の供養を受けることも、
ごく普通となって来た。

だが、迦葉は頭陀行を
かたくなに守り続けていた。

迦葉がいつも貧しい村に
托鉢に行くのを不信に感じた
他の釈迦の弟子達が
迦葉の後をつけてみた。

いつものように迦葉は
貧しい村へと出かけていった。
どの家からも門前払い。
誰も布施する者はいなかった。

村はずれにくると、
一人の年取った女乞食が
物乞いをしていた。
ライ病のかかり、
近寄る人もいなかった。

その老婆の前に立った迦葉は

「お婆さん、私はお釈迦様の弟子
 迦葉というもの。
 どうか、何か布施をしてはもらえぬか。」

と言った。

するとお婆さん、
迦葉の真面目な姿に

「見ての通り、差し上げたくとも、
 私には何もあなたに
 布施できるものはありません」

と断ると、
目の前の汚いお椀の中にある
腐ったお粥、
自分でも食べるのを
躊躇しているお粥を指差され、
迦葉は言った。

「ここにお粥があるではないか。」

「こんな物は私でさえ、
 食うことのできないもの。」

とお婆さんが答えるが、
迦葉は有難く頂戴する。

その時、差し出した
お婆さんの指からライ病の
膿が一緒にお粥の中に入ったが、
気にせず、迦葉は飲み干した。

「お婆さんの尊い布施のお陰で
 今日一日の生きる糧を
 得ることができた。
 この功徳でお婆さんよ、
 幸せになれるご縁を結ばれた」

お婆さんは自分が
我利我利亡者の心の報いで
今日の貧しい辛い生活が
あることを知らされ、
改心したのである。

この一部始終を見ていた仏弟子達は
迦葉の元で修行する道を選んだ。