死の名場面(31)-6(スコットの敗北の理由)
スコット隊がアムンセン隊に敗れ、
遭難死した理由については、
その当時から数多くの者が分析を行っている。
中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、
スコット達の捜索隊にも参加した、
アスプレイ・チェリー=ガラードらは、
スコットがアムンセンに遅れをとった事や
遭難死に至ったその敗因について、
以下の様な分析を残している。
①アムンセン隊は犬ゾリとスキーによる
移動を行い、極点に到達したが、
スコット隊は当初使用した雪上車、
主力とした馬による曳行が悉く失敗し、
人力でソリを引かざるを得ず、
いたずらに体力の消耗を招いた。
寒冷な気候に強いとされる品種
の馬を用意していたものの、
馬そのものの体重が重いため
雪に足をとられたり、
クレバスに転落した事などに加え、
馬が生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、
馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。
②アムンセン隊では現地に棲息する海獣を
狩るなどして携行食糧を少なめに抑えた。
この肉は人だけでなく犬ぞりの犬も食している。
一方スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。
特に馬のための干草類は現地では
全く入手できるものではなかったうえに、
馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。
③アムンセンの探検隊が南極点到達を
最優先していたのに対し、
スコットは地質調査等の
学術調査も重視しており、
勢力を分散させる結果となった。
④アムンセン隊は南極点への最短距離にあたる
クジラ湾より出発したが、
スコット隊は学術的調査の継続のため、
より遠いマクマード湾より
出発せざるを得なかった。
スコット隊の最終メンバーは30代が中心であり、
30歳以下の隊員はバウアーズ一人だけだった。
夏期としては異例の暴風雪にみまわれた。
人類史上初の南極点到達を競うことになるが、
2着に終わり、さらに帰路1912年3月29日、
死去した。享年43。
同年10月に救援隊により遺体・遺品が発見される。
スコット隊がアムンセン隊に敗れ、
遭難死した理由については、
その当時から数多くの者が分析を行っている。
中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、
スコット達の捜索隊にも参加した、
アスプレイ・チェリー=ガラードらは、
スコットがアムンセンに遅れをとった事や
遭難死に至ったその敗因について、
以下の様な分析を残している。
①アムンセン隊は犬ゾリとスキーによる
移動を行い、極点に到達したが、
スコット隊は当初使用した雪上車、
主力とした馬による曳行が悉く失敗し、
人力でソリを引かざるを得ず、
いたずらに体力の消耗を招いた。
寒冷な気候に強いとされる品種
の馬を用意していたものの、
馬そのものの体重が重いため
雪に足をとられたり、
クレバスに転落した事などに加え、
馬が生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、
馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。
②アムンセン隊では現地に棲息する海獣を
狩るなどして携行食糧を少なめに抑えた。
この肉は人だけでなく犬ぞりの犬も食している。
一方スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。
特に馬のための干草類は現地では
全く入手できるものではなかったうえに、
馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。
③アムンセンの探検隊が南極点到達を
最優先していたのに対し、
スコットは地質調査等の
学術調査も重視しており、
勢力を分散させる結果となった。
④アムンセン隊は南極点への最短距離にあたる
クジラ湾より出発したが、
スコット隊は学術的調査の継続のため、
より遠いマクマード湾より
出発せざるを得なかった。
スコット隊の最終メンバーは30代が中心であり、
30歳以下の隊員はバウアーズ一人だけだった。
夏期としては異例の暴風雪にみまわれた。
人類史上初の南極点到達を競うことになるが、
2着に終わり、さらに帰路1912年3月29日、
死去した。享年43。
同年10月に救援隊により遺体・遺品が発見される。