法華経と浄土三部経(蓮如上人が出世本懐を開顕)
蓮如上人が釈迦出世本懐を明らかにされた御文と
いえば、御文章4帖目3通である。
「それ、当時世上の体たらく、
いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。
しかるあいだ、諸国往来の通路にいたるまでも、
たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても、
千万迷惑のおりふしなり。
これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。
これにつけても、人間は老少不定ときくときは、
いそぎいかなる功徳善根をも修し、
いかなる菩提涅槃をもねがうべきことなり。
かるにいまの世も末法濁乱とはいいながら、
ここに阿弥陀如来の他力本願は、
いまの時節はいよいよ不可思議にさかりなり。
さればこの広大の悲願にすがりて、
在家止住のともがらにおいては、一念の信心をとりて、
法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもって、
たからの山にいりて手をむなしくしてかえらんににたるものか。
よくよくこころをしずめてこれを案ずべし。
しかれば、諸仏の本願をくわしくたずぬるに、
五障の女人、五逆の悪人をば、
すくいたまうことかなわずときこえたり。
これにつけても、阿弥陀如来こそ、
ひとり無上殊勝の願をおこして、
悪逆の凡夫、五障の女質をばわれたすくべき
という大願をおこしたまいけり。
ありがたしというもなおおろかなり。
これによりて、むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、
一乗法華の妙典をとかれしとき、
提婆・阿闍世の逆害をおこし、
釈迦、韋提をして安養をねがわしめたまいしによりて、
かたじけなくも霊山法華の会座を没して、
王宮に降臨して韋提希夫人のために淨土の教を
ひろめましまししによりて、
弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、
このいわれなり。
これすなわち末代の五逆・女人に
安養の往生をねがわしめんがための方便に、
釈迦、韋提、調達、闍世の五逆をつくりて、
かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、
かならず安養の往生をとぐるものなりと、
しらせたまえりとしるべし。」
蓮如上人が釈迦出世本懐を明らかにされた御文と
いえば、御文章4帖目3通である。
「それ、当時世上の体たらく、
いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。
しかるあいだ、諸国往来の通路にいたるまでも、
たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても、
千万迷惑のおりふしなり。
これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。
これにつけても、人間は老少不定ときくときは、
いそぎいかなる功徳善根をも修し、
いかなる菩提涅槃をもねがうべきことなり。
かるにいまの世も末法濁乱とはいいながら、
ここに阿弥陀如来の他力本願は、
いまの時節はいよいよ不可思議にさかりなり。
さればこの広大の悲願にすがりて、
在家止住のともがらにおいては、一念の信心をとりて、
法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもって、
たからの山にいりて手をむなしくしてかえらんににたるものか。
よくよくこころをしずめてこれを案ずべし。
しかれば、諸仏の本願をくわしくたずぬるに、
五障の女人、五逆の悪人をば、
すくいたまうことかなわずときこえたり。
これにつけても、阿弥陀如来こそ、
ひとり無上殊勝の願をおこして、
悪逆の凡夫、五障の女質をばわれたすくべき
という大願をおこしたまいけり。
ありがたしというもなおおろかなり。
これによりて、むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、
一乗法華の妙典をとかれしとき、
提婆・阿闍世の逆害をおこし、
釈迦、韋提をして安養をねがわしめたまいしによりて、
かたじけなくも霊山法華の会座を没して、
王宮に降臨して韋提希夫人のために淨土の教を
ひろめましまししによりて、
弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、
このいわれなり。
これすなわち末代の五逆・女人に
安養の往生をねがわしめんがための方便に、
釈迦、韋提、調達、闍世の五逆をつくりて、
かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、
かならず安養の往生をとぐるものなりと、
しらせたまえりとしるべし。」