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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

最悪の政治家⑨-4(ヒトラーとユダヤ人)

2009年11月10日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑨-4(ヒトラーとユダヤ人)

ユダヤ人は二千年前、
ローマ帝国の殖民地だったイスラエルを
追われてヨーロッパ各地に
難民となって流れた。

しかしユダヤ人は、聖書の中で神に選ばれ、
神と契約した民族としての誇りを持ち、
そのユダヤ教の仲間の団結心は強固だった。

その為にどの国にいても地元の宗教や文化を受け入れず、
自分たちだけの社会を作っていた。

しかも、商人としての才覚があって
金儲けがうまかったのだ。

ユダヤ人を特に憎んだのは
第一次大戦後のドイツ人だった。
敗戦国として莫大な賠償を背負わされ、
経済が破綻したのである。

ドイツ人の大半が貧困のどん底にあるのに、
国内のユダヤ人は金持ちが多く、
貧しいドイツ人が借金をする状態。
そこへヒトラーが現れた。

「ドイツ人は優秀で世界を
 リードするべき民族だが、
 あくどいユダヤ人がはびこり、
 妨害している。」

ドイツが豊かな国だったら、
変人扱いされたヒトラーも、
たちまち英雄になっていいたのである。

ヒトラーは「わが闘争」の中で
自分の思想の集大成の中で
世界を支配するドイツを
実現する政策の1つとして、
ユダヤ人の排除を掲げたのであった。


最悪の政治家⑨-3(ヒトラーの独裁政治)

2009年11月09日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑨-3(ヒトラーの独裁政治)

1933年に政権につくとともに、
ヒトラーはプロイセン州内相に
最大の腹心であるヘルマン・ゲーリングを任じた。

ゲーリングは就任後ただちに
プロイセン州警察に政治警察ゲシュタポを設置した。
ゲシュタポには「予防保護拘禁」と称して
その場の判断で令状なしで国民を自由に逮捕して
強制収容所へ送れる権限が与えられた。

プロイセンはドイツの国土の半分以上を
占める巨大州であり、
広範な国民がゲシュタポの猛威にさらされることとなった。

しかし、まもなくヒトラーは
長いナイフの夜事件での速やかな粛清実行や
バイエルン州で徹底した反体制取り締まりをした
ハインリヒ・ヒムラーと親衛隊(SS)
を高く評価するようになり、
中央集権化とあわせて各州の警察権力を
ヒムラーの下で一元化しようとした。

ゲーリングのゲシュタポの指揮権も
ヒムラーに譲渡させた。
ヒムラーは1936年に内相ヴィルヘルム・フリックより
全ドイツ警察長官に任じられた。

ヒムラーは親衛隊内部に
国家保安本部を立ち上げた。
国家組織であるはずの警察がナチス党に
吸収された瞬間であった。

国家保安本部には
悪名高い政治警察幹部の名がずらりと並ぶ。
国家保安本部は日夜国民を監視していた。

1941年にゲーリングは
親衛隊初代長官のハイドリヒに
「ユダヤ人問題の最終的解決」権限を移譲しており、
国家保安本部はホロコーストの作戦本部ともなったのである。
これがユダヤ人虐待の悲劇の始まりであった。



悪の政治家⑨-2(ヒトラーの善政)

2009年11月08日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑨-2(ヒトラーの善政)

ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働者党党首として
アーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げる。
1933年首相となり、
1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、
国家元首に就任した。

当時のドイツは世界恐慌の影響で失業者が
700万人にも達していた。
この膨大な失業者をナチスは僅か数年で
殆どゼロにしてしまったのだ。

ヒトラーはケインズ経済学を
世界に先駆けて導入し、
公共事業によって経済の立て直しを図った。

この公共事業がアウトバーン(高速道路)建設や
ベルリンオリンピックの為の
競技場、野外劇場などの建設だった。
特にアウトバーンは1933年から3年で1000キロに達し、
終戦までに4000キロの建設が行われた。
この建設費の内46%は労働者の賃金に充てられ、
これによってドイツ国民の生活水準は
非常に上がることになる。

またナチスは世界に先駆けて
8時間労働を法的に実施し、
労働者の通勤時間を30分以内にさせたり
時差出勤を採用させるように指導した。

また福利厚生制度も充実させ
従業員100名以上の会社には
格安の社員食堂を設置、
大きな工場には休憩室・食堂・医務室などを
設置することが義務づけられた。

会社が労働者住宅を建設できない場合には
周辺の賃貸住宅を労働者のために
借り上げることも義務づけた。

また格差の解消を政策の一つに
労働者でも買える大衆車「フォルクスワーゲン」を
開発した。

こういった失業対策、福祉事業が
成功した背景には、ナチスドイツが全体主義国家
だったからという事がある。

ナチスドイツは理想的な社会主義国家を目指そうと
していた。

だがそれが狂い始めた。


最悪の政治家⑨(独裁者アドルフ・ヒトラー)

2009年11月07日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑨(独裁者アドルフ・ヒトラー)

アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)は
ドイツの政治家。
歴史上の人物で独裁者といえばヒトラーであろう。
今でもヒトラーに憧れる者、
ヒトラーの影におびえる者がいるほどである。

近代に入って、法律上国民に選ばれた形になっているが、
現実には一人の人物に権力が集中し、
その者が国政を操っている状態を独裁制、
そしてその権力が集中した人物のことを独裁者と呼ぶ。

(民主主義)
①多数決の原則によるとされる民主主義であるが、
 これは民主主義の一面でしかなく、
 実際には少数意見の尊重こそ民主主義の要である。
 多数決ですべてが決められたなら、
 少数意見の者は常に無視され、
 幸せの道を閉ざされてしまうからだ。

②ゆえに、実際の政策を決める際には
 多くの話し合いや手続きを要する。

(独裁制)
①独裁制は、少数意見尊重の民主主義に付き物の
 数々の煩雑な手続きが無くなるため、
 目的を達成する効率が良い。

②また、独裁者が有能な場合は、
 国民の大多数の意見を伺ってそれに従うよりも、
 より高所に立った合理的判断をすることができる。

(独裁制の暴走)
①問題は、独裁者の判断が偏狭または不合理であっても、
 それを止める方法が合法的に存在しないことにある。

②システムとしての独裁制には、
 独裁者の暴走へのチェック機能が存在しないことが
 問題点となり、常に暴政に変貌する危険を秘めている。

(独裁制の危険)
①独裁者が暴政を行った場合、
 その国は非常に不安定となる。
 またそうなった場合、
 その国全体が人の命の危険に晒される。

②それは独裁者も常に政敵からの暗殺の危険に
 怯えなくてはならない。
 独裁者に次ぐ人間は
 常に独裁者からの粛清の危険に晒される。

③そして、そういった暴政には多くの場合
 言論の自由の侵害が付き物である。
 報道機関は管制され、
 一般国民も自由に意見を述べる権利が
 大幅に削られることが多い。

④大多数の国民の支持によって独裁者が誕生した時は、
 それは国民の大多数の利益に反する者を
 排除するという事で、
 多くの国民に支持される政策であったものが、
 独裁者が多数意見と乖離した時には、
 大多数の国民に対しての権利侵害となるのである。

(独裁者の悲劇)
独裁者は一般的に民族や国家を自分と同一視させる。
そして自分に反対する者を民族、
国家の裏切り者として弾圧する傾向にある。

また、国民の不満を逸らすためにも意図的に
反対派や少数民族を弾圧することも多い。

そのように独裁者によって引き起こされた悲劇は、
粛清、民族浄化など枚挙に暇が無い。

イギリスの政治家チャーチルは
独裁制に魅力を感じる風潮を戒め、
次のように述べている。「

「民主主義は最悪の政治体制といえる。
 これまで試みられてきた、
 民主主義以外の全ての政治体制を除いた場合だが。」


最悪の政治家⑧-5(ムッソリーニの最期)

2009年11月06日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑧-5(ムッソリーニの最期)

第二次世界大戦は1942年中盤までは、
ドイツ・イタリアの枢軸国が有利だった。
ドイツ軍はヨーロッパの大半及び
北アフリカの一部を占領。
大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが
連合軍の輸送船団を攻撃していた。

イタリアはリビア、ギリシャ、エジプトなどに
大規模な軍隊を送ったが、
世界最弱と名高いイタリア軍は
全ての戦線で無残に敗退、
ドイツの尻馬に乗ったつもりが
ドイツに尻拭いしてもらう始末であった。

イタリアが無駄に戦線を広げてしまったため、
本来戦わなくてもいいアフリカ戦線の
連合軍まで敵にまわしてしまい、
ドイツのロシア侵攻が一ヶ月遅れた。
そして一ヶ月早く到来した冬によって、
ドイツ軍はすんでのところでモスクワ攻略に失敗し、
不敗を誇ったドイツ軍は敗北の足がかりを
作ることとなってしまった。

イタリア南部のシチリア島に連合軍が上陸した。
するとあっさりムッソリーニは解任され、
イタリアは連合軍に無条件降伏、
逆にドイツに宣戦を布告する。

ムッソリーニは連合軍に逮捕されるが、
ナチス親衛隊の特殊空挺部隊によって救出され、
社会主義に立ち戻って、
北イタリアでサロ共和国を建国するが
従う者はなかった。

1945年4月、連合国軍の進撃に敗走を続ける枢軸軍と
ともに中立国のスイスに向かっていた途中、
コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザンに捕縛され、
ヒトラーの死に先立つこと2日前の4月28日に銃殺された。

その死体は同行していた愛人のクラレッタ・ペタッチの
死体とともにミラノのロレート広場に
逆さ釣りにして晒された。
ムッソリーニは死刑の通知をするレジスタンスに対し、
「胸を撃て!」と叫んだとされる。

ムッソリーニの死体が民衆の前で晒し者にされた事を
聞いたヒトラーは強い衝撃を受け、
自決の際に「彼のようになりたくない」
と自身の死体を焼却するよう部下に命じたと言われる。



最悪の政治家⑧-4(ムッソリーニとヒトラー)

2009年11月05日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑧-4(ムッソリーニとヒトラー)

ムッソリーニはヒットラーよりも6歳年上、
総統になったのは11年先輩、
ヒットラーが首相になってから
二人は会合をもち始める。

ライバル同士の切磋琢磨が
悲惨な第2次世界大戦につながった。
ムッソリーニは
「ヒットラーがいなかったら、
 無理をしなかった」、
ヒトラーは
「ムッソリーニがいなかったら、
 あれほど野心をむきだしにしなかった」
ともいわれる。

1937年にヒトラーとムッソリーニは会見しており、
ムッソリーニはヒトラーに
「比類なき世界一の政治家である」
と褒め称えられたが、
ムッソリーニは心中完全に圧倒されていた。

ドイツの圧倒的な国力、国民の団結力、勇壮な軍隊、
どれ一つとってもイタリアの勝てるところは
何一つなかった。

これをきっかけに独自の外交政策を
推し進めていたムッソリーニは
ヒトラーに追従することを決めるのである。
それはイタリアの歴史的汚点だった。

1939年ナチスのポーランド進撃の折には
ムッソリーニは準備不足を理由に参戦を見送ったが、
ドイツ軍がパリ陥落寸前にまでフランスを
追い詰めるとドイツの勝利間違いなしと見て、
1940年、参戦した。

最悪の政治家⑧-3(ムッソリーニは偉大な指導者)

2009年11月04日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑧-3(ムッソリーニは偉大な指導者)

ムッソリーニのファシスト政権の初期は
有名なキャッチフレーズ
「プロレタリアのイタリアよ、
 ファッシストのイタリアよ、
 革命のイタリアよ、全員起立」、
のもと、まず公務員から意識改革を始め、
3年で見違えるような国になった。

最初はアルベルト・デ・ステファニに経済政策が任され、
民間企業をほとんど国有化することなく、
一時過剰であったストライキが衰退し、
景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した。

治安も改善して、特にマフィアをはじめとする犯罪組織は
徹底的な取り締まりを受け、
その殆どが壊滅状態に追い込まれたために
犯罪件数は減少した。

その一連の成果に民主主義国家の
指導者や評論家の中にも
「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」
と称える動きがあり、
辛口な論評で知られたイギリスのチャーチルも
「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。

しかし、1929年の世界恐慌の影響で
失業者が100万人以上に膨れ上がり、
次第に財政支出を増やし始め、
イタリアはソビエト連邦の次に
国有企業が最も多い国となった。



最悪の政治家⑧-2(ファシズム)

2009年11月03日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑧-2(ファシズム)

ファシズムとは、資本主義が脆弱な、
ないし危機的な状況にある中にあって、
共産主義を排除するのみならず、
一切の自由主義、民主主義、平和主義を排撃し、
内にあっては極端な国粋主義による暴力的独裁、
外にあっては公然たる侵略主義をとる体制を言う。
従って第二次世界大戦中のドイツ・イタリアは
典型的なファシズム体制であった。

1925年10月28日のムッソリーニの演説に
登場する以下の言葉はファシストの行動原理を
端的に示している。

「すべてを国家のもとに。
 国家の外にいるもの・
 国家に反するものがいてはならない」

ムッソリーニは矢継ぎ早に
独裁政治に繋がる法案を提出、可決してゆく。

1923年の選挙法改正で、
「選挙で25%以上の得票率を得た第一党が
議会の議席の3分の2を獲得する」
として権力を集中し強化した。

1925年に労働組合の解散・言論出版取締令を制定した。

1926年にムッソリーニ暗殺未遂事件が多発したため
首相の暗殺には未遂でも死刑を適用するようになった。

1927年には控訴が認められない国家保護特別裁判所を
設置し政敵、特に共産党を弾圧した。
こうして独裁政治の基礎が固められ、
1928年9月、大評議会が国家の最高機関として認められ、
権力がムッソリーニに集中。独裁体制が完成した。



最悪の政治家⑧(ファシズムの創始者ムッソリーニ)

2009年11月02日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑧(ファシズムの創始者ムッソリーニ)

ムッソリーニ(1883年~1945年)は、
イタリア王国の政治家である。
ファシスト党党首であり、
ファシズムの創始者であることで有名だ。

第一次世界大戦後、イタリアは経済が悪化し
政情不安に陥っていた。

反体制意識の強い中部イタリアの職人の子に
生れたムッソリーニは苦労して育ち
社会主義のリーダーになった。

しかし、ストばかりやっても
暮らしは楽にならない。
階級闘争に嫌気がさし、
919年3月23日にミラノで
ファッシスト党をつくる。
「前進」という社会党系の新聞で書いたり、
各地で演説したりして同志が急速に増えた。

1920年9月の革命勢力の退潮に乗じたムッソリーニは
「黒シャツ隊」と呼ばれる行動隊を
駆使して勢力を伸ばした。

1922年10月28日に始まる数万人のファシスト武装隊の
「ローマ進軍」を背景として、
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王は
ムッソリーニに組閣を命じ、
以後イタリア王国は1943年までの約20年にわたる
ファシスト政権時代に入るのである。


最悪の政治家⑦-3(ローマの暴君ネロ)

2009年11月01日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑦-3(ローマの暴君ネロ)

皇帝ネロは自分の権力を守る為には
暗殺も辞さなかった。

55年の義理の弟ブリタンニクスの殺害に始まり、
59年に母(アグリッピナ)、
62年に妻(オクタウィア)、
65年には良き人生のアドバイザーのセネカをも
殺害するに至った。

加えて64年に発生したローマ大火の犯人として
キリスト教徒を迫害したことから、
後世からは暴君として知られるようになる。

ローマ大火は64年7月19日に
ローマで起こった大火。

チルコ・マッシモから起こった火災は
市内のほとんどを焼き尽くし、
多くの被災者と死傷者を出した。

ネロはこの火災に際して、
的確な処置を行い、
陣頭で救助指揮をとったといわれ、
被害が広がらないよう真剣に対処したものの
火災後のローマ再建で
宮殿建造を行ったこともあり、
市民の間ではネロの命によって
放火されたとの説が流れた。

こうした風評に対してネロは
当時の新興宗教であったキリスト教の
信徒を放火犯として処刑した。
こうしてキリスト教徒へ迫害を行い、
犯人としたにもかかわらず、
ネロがローマ復興の際に
広大な黄金宮殿(ドムス・アウレア)の建造を
行なったため新宮殿の用地確保のために
放火したという噂は消えることはなかった。

また、奇行の多いことでも知られる。
女装しては解放奴隷の
ピュータゴラースやドリュプォルスと
正式に結婚して彼らの花嫁となったり、
美少年スボルスを去勢し女装させては、
これまた正式に結婚して
自らの正室に迎えたりした。

68年、反乱勃発、波及して各地の属州総督が
これに次々に同調し、ついには元老院からも
「国家の敵」、即ち公敵としての宣告を受けて
ローマを追われる。

68年6月9日自らの喉を剣で貫き自殺。
31歳の短い人生に幕を下ろした。

ネロの死によって
ユリウス・クラウディウス朝は断絶。
ローマは内戦状態に陥り、ユダヤ属州や
ゲルマニアでも反乱が勃発、
戦乱期に突入することとなる。