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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

最悪の政治家⑦-2(ネロ、母を暗殺)

2009年10月31日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑦-2(ネロ、母を暗殺)

母アグリッピナのお陰で
ネロは17歳で皇帝の座を射止めた。

皇帝ネロの治世初期は、家庭教師でもあった
哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカの
補佐を受け、名君の誉れが高かった.

しかし母アグリッピナとの関係が彼の性格を
変えていった。

何かにつけて干渉してくる母親。
ネロは干渉を疎ましく思うようになる。

何とか母から独立するネロだが
母は亡夫の先妻メッサリナの
子供ブリタンニクスに
肩入れするようになる。

それに危機感を覚えたネロは
55年、ブリタンニクスを暗殺。
母はさすがに茫然自失した。

ネロとアグリッピナは
一触即発状態となったが、
セネカが仲裁に入り、事無きを得た。

そのころネロは妻のオクタウィアに
不満を持ち、離婚をして、
新しい愛人ポッパエア・サビナと
再婚しようとした。
それに母は強く反対したのだ。

これで親子間の対立も深まるばかり。
思い余ったネロは母を
殺害しようと画策した。
そして近衛兵を引き連れて
母の寝所へ行くのだった。

母は殺される直前にこう言い放った。
自分のネグリジェを
まくり上げ下腹部を指して、

「さあ、ここを刺すがいい。
 ネロはここから生まれたんだから」

さすが猛女といわれた母の最期だった。


最悪の政治家⑦(ローマの暴君ネロ)

2009年10月30日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑦(ローマの暴君ネロ)

ローマ帝国はその巨大な勢力の裏で
カリギュラに続く暴君を生み出した。
権力はこうも人を変えてゆくのだろうか。

その中でローマ帝国で暴君の名をほしいままに
したのが5代目皇帝ネロ(37年~68年)であろう。

ネロが8歳の時、父は目の前で
皇帝カリギュラに暗殺された。
母アグリッピナは孤島へ、
ネロは奴隷の身分へと放り出された。

それから10年、
ネロは奴隷の女性と愛し合う
音楽好きの青年に成長していた。

そんな彼に転機が訪れる。
皇帝カリギュラが暗殺され、
母が帰国したのだ。

母アグリッピナはネロを
皇帝にするため動き出す。
自ら新皇帝の妻となり、
ネロを皇太子にしたのである。

54年、ネロの義父でもある
4代目皇帝クラウディスが毒殺された。
実はネロの母アグリッピナが毒殺したのだ。



最悪の政治家⑥―3(暴君カリギュラに変貌)

2009年10月29日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑥―3(暴君カリギュラに変貌)

病から立ち直ってすぐにカリギュラは、
狂ったように乱行を遂行していった。

巨大な芝刈り機での首刈り、
生きた女を地中に埋めたり、
果ては忠実な部下、親衛隊長のマクロにまで
ティベリウス殺害の罪を着せ、
貴族たち全員を観客とした
処刑ショーの餌食にした。

そんなカリギュラは、姉ドルシラを
ひたすら愛し、信頼した。
ドルシアのすすめでカエソニアを
妻にしたカリギュラは、ドルシラも含めた3人の
不思議な愛に歓びを感じていた。

カリギュラの奇行はエスカレートしていったが、
カエソニアが男児を出産した後の
ドルシラの病死で、それは頂点に達した。

最愛の人ドルシラを失ったカリギュラは、
宮殿の中に巨大な売春船を建造させ、
ローマ市民を相手に元老院の夫人たちに
売春を強要した。
この上なく異様な光景。
カリギュラは、この売り上げが
国家の財源だと宣言した。

しかし4年間のカリギュラの在位は
突然終りを告げることになる。

たまりかねた親衛隊員カエレア、医師らが、
傭兵を使って、カリギュラ、妻カエソニア、子供
そして側近の高官らの暗殺を実行するのだった。
29歳の短い人生を殺戮と狂気で駆け抜けたのだ。

しかし、その後を継いだ50歳の叔父クラウディウスは
知恵遅れで、ローマ大帝国の腐敗はカリギュラの死で
終わったわけではなかった。


最悪の政治家⑥―2(カリギュラの善政)

2009年10月29日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑥―2(カリギュラの善政)

25歳でカリギュラは3代目皇帝の位についた。
即位してから最初の7ヶ月間における治世は
まったくの幸福に満ち溢れたものだった。

カリギュラの最初の施政は非常に寛大なもの。
親衛隊や都市部の兵士のみならず
イタリア国外の軍まで含めた軍隊の
兵士たちに賞与を支給した。

また、ティベリウスの作成した反逆罪に
関する書類を破棄し、
これにまつわる裁判は過去のものだとして
追放者たちを呼び戻したのである。

さらに帝国の税制によって
逼迫(ひっぱく)した人々を保護し、
性犯罪者を帝国から追放したほか、
剣闘士による試合を復活させたりもした。

カリギュラはまた、亡き母や兄弟の遺骨を
集めて持ち帰り、アウグストゥス廟に安置した。

幸先よく統治を開始したカリギュラではあったが、
37年の10月に深刻な病に倒れる。

カリギュラは皇帝になってからというもの
入浴と飲酒とセックスに
耽溺するようになっていたため
ウィルスに感染したものだった。

やがてカリギュラは全快していたが、
このときの臨死体験こそが
カリギュラの治世の分岐点になった。

即位してから最初の2年間のカリギュラは
高貴で穏健な君主であったが、
それ以降暴君へ変貌していった。

最悪の政治家⑥(ローマの暴君カリギュラ)

2009年10月28日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑥(ローマの暴君カリギュラ)

ローマ帝国の皇帝で
ガイウス・カリギュラ(12年~41年)の
暴君ぶりは映画にもなり、有名になった。

短い在位期間に、カリギュラは
壮大な建設事業と領土の拡大に力を注いだ。
また最高権力者としての威信を高めることに努め、
彼を打ち倒そうと繰り返される陰謀から
自身の地位を懸命に守りつづけた。

しかし最終的には、元老院も関与した陰謀により、
41年に親衛隊の一部将校らに
よって暗殺された。

その治世を通じてローマ市民からは人気が高かったが、
カリギュラは狂気じみた独裁者であった為、
暴君として名を残すことになる。

紀元1世紀前半、ローマ帝国の王室は
腐敗しきっていた。
人々はひたすら快楽を求め、
2代目の皇帝ティベリウスは、
カプリ島での隠遁生活を終え、
皇帝の座に戻るが、病魔に犯された肉体は、
精神にまで異常を引きおこし、
その生活は凶暴な振舞いに満ちていた。

遂には甥の子、ガイウス・カリギュラを
秘かに毒殺しようとさえ考えていた。

元老院議員のネルバは、この政治の乱れを嘆き、
自らの命を絶って抗議の意志を示した。

カリギュラは、ティベリウスから後継者に指名された。
しかし、また皇帝の気がかわることを恐れた
カリギュラは、忠実な部下、親衛隊長のマクロに
病床のティベリウスの暗殺を命じた。


最悪の政治家⑤-3(始皇帝と焚書坑儒)

2009年10月27日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑤-3(始皇帝と焚書坑儒)

始皇帝の不老不死の話しには、
もっと悲惨な歴史があった。

始皇帝は法による統治を説いた法家の李斯の進言により、
紀元前213年に、周王朝の再興を願い、
秦王朝を批判する儒者達の書物を焼き払わせた。
ただし医療や農業などの実用書は許した。
これが「焚書」である。

翌年に不老不死の仙薬作りを命じていた侯生と盧生が、
仙薬ができないことで恐れて逃亡した。
怒った始皇帝は学者たちを取り調べて、
460人を穴埋めにした。
これが「坑儒」である。

元より体が強くなかった始皇帝は、
方士が飲ませた薬で
さらに体を悪くしたと思われる。

紀元前210年に5度目の巡遊を行い、
みずから海へ出て大魚を射殺したが、
その直後に発病。

咸陽へ帰れないまま、巡遊の途中で死去した。
始皇帝が死んだ翌年には陳勝・呉広の乱が起き、
秦は滅亡へと転がり落ちていく。

不老不死の薬を求めた、その結末は
多くの学者の惨殺事件と、国の滅亡への道。
そして、自らの命も風前の灯であった。
哀れなものである。

最悪の政治家⑤-2(秦の始皇帝 不老不死)

2009年10月26日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑤-2(秦の始皇帝 不老不死)

中国の歴史上で始皇帝ほど、斬新な改革を
推し進めていった者はいないだろう。
だから政治家としては評価されていい筈なのに
彼は後世に暴君として、言い伝えられた。

それは焚書・坑儒によるものだ。

中国統一の偉業を成し遂げた始皇帝であったが、
最後の望みは不老不死の願いだった。

絶大な権力、それを手にした者が最後、望むもの、
それは不老不死の生命である。
秦の始皇帝も例外ではなかった。

そこに現れたのが
「東方に霊薬あり」という方士“徐福”である。
始皇帝は徐福に莫大な資金を与え、
その「霊薬」を採りに行かせた。

9年後、徐福は始皇帝の前に再び、現れ、
「大鮫に邪魔されて、辿り着けなかった」という。
さらに「海神が「礼が薄い」といって
薬を採るのを許さない」といって、
良家の童男童女3000人とさまざまな技術者、
五穀の種などを始皇帝から貰い受け、
旅立っていった。

海を隔てた東方に「平原広沢」の地を得て王となり、
二度と秦に戻らなかったと『史記』に伝えられている。

始皇帝は生まれつきあまり体が丈夫ではなく、
徐福にせよ他の方士にせよ、最初から不老不死などできるとは
思っていなかった.
かつて人材を見極めることに驚異的な鋭さを見せた始皇帝も
晩年にはこのような人物に、よいように騙されていった。


最悪の政治家⑤(秦の始皇帝)

2009年10月26日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑤(秦の始皇帝)

始皇帝(しこうてい)(紀元前259年- 紀元前210年)
始皇帝はもともと秦の王であり、
紀元前246年 - 紀元前210年の間
在位して初めて中国を統一し、紀元前221年から
中国史上はじめて皇帝と称した。
50歳で亡くなった。

皇帝という言葉は始皇帝が
始めて名乗り始めた称号である。
以後、中国の君主は「皇帝」を名乗る。
その由来は、大きくは2つ説がある。

1:中国古代の伝説上の君主である
 「三皇五帝」より。

2:皇とは「煌」すなわち光り輝く、
  美しく、宇宙万物を主宰するという意味から。

始皇帝は、法家の人間である李斯を
丞相にして、法治主義に基づく政治を行う。

また、それまでは各地に有力者に土地を与え、
諸侯として政治を行わせるのが一般的だったが、
彼は中央集権主義を目指し、
役人を中央から派遣して政治を行わせる
「郡県制」を採用した。
こうして全国が郡と、その下に置かれた県に
よって分けられた。

また、北方の遊牧騎馬民族の対策として
「万里の長城」を建設した。
この万里の長城の建設により、
始皇帝は南へ進出する余裕ができ、
北ヴェトナムまで征服することになる。

その他に全国で度量衡(重さや長さなどの単位)、
貨幣、文字の統一をし、交通を整備し、
経済や文化面で中国を1つの基準にまとめあげた。
また、商業の発展に大きく貢献するのである。

これだけであれば、名君誉れ高い人として
尊敬されたであろう。

しかし、その始皇帝を狂わせていったのもは
自らの死に対する非常な恐れだった。



最悪の政治家④(周の王)

2009年10月25日 | 最悪の政治家
最悪の政治家④(周の王)
 
夏・殷と酒色に溺れた王によって
滅亡の時がきた。
しかし、殷を滅ばした周はどうか。

周の武王から数えて十代目の王に、
また暴虐のきざしが見えた。

王は暴虐無道であったので、
国民が王の悪口を言った。
王は立腹して悪口を言う者を監視し、
告発すると殺した。

それ以後、 国民は悪口を言わず、
道路の上では互いに目で合図した。

王は家来に言った。
「わしは悪口をやめさせたぞ。
 誰もよう言わん」

家来は言った。
「それはふさいだのです。
 民の口を塞ぐのは、川を塞ぐよりも危険です。
 川は決壊すれば、多くの人を殺傷するように、
 国民も同じです。
 川を治めるには、つかえた所を通して、
 水を導いてやります。
 民を治めるにも自由に言わせ、
 天子はその戒めを取捨選択して
 政治を行うのです。
 もしその口をふさぐならば、
 いく年もちましょうか」

しかし王を聞き入れなかった。
王が栄の夷公を寵愛したので、
家来が諌めて言った
「王室は衰微するでしょう。
  栄公は利益を独占したがって、
 大難を知りません。
 一人の男が利益を独占してさえ、
 盗といいます。
 王ともあろう者がそんなことをすれば、
 終わりをまっとうできなくなります」

しかし王は聴き入れず、
栄公を大臣とした。

そのため諸侯は来朝しなくなった。
大反乱が起こり、民衆は王宮を囲んだ。
王は逃亡し、14年後亡命先で没した。

夏の桀王、殷の紂王、彼らはともに
人並みすぐれた才智武勇の持主で
あったにもかかわらず、
その最後は妹喜と姐己という
稀代の艶女毒婦に魂を魅せられて、
理性を失い、酒色の享楽に耽溺して、
身を亡ぼし国を滅ぼした。

彼らは寵愛する女性の歓心を買うために、
帝王としての与えられた限りの
権力と富力を傾けつくして、
贅沢の粋を極めた。
「酒池肉林」の遊びというのも、
この帝王の絶大な権力と富力の背景なしには
とうてい考えられない。

そして、歴史は繰り返す。

最悪の政治家③-2(殷紂王 炮烙の刑)

2009年10月24日 | 最悪の政治家
最悪の政治家③-2(殷紂王 炮烙の刑)

殷の暴君紂王の
「酒池肉林」の遊びは日ごとに
淫乱を深めた。、
その淫楽に反対する人々に
は「炮烙の刑」が課せられる。

罪人は焼けた丸太を必死の形相で渡るが、
油で滑って転落しそうなる。
丸太にしがみつき、熱くてたまらず、
ついには耐え切れずに猛火へ
落ちて焼け死んでしまう。
この様子を観ながら紂王は妲己と
抱き合いながら笑い転げたという。

西伯昌(のちの周の文王)が廃止を懇願し、
紂王に領地を差し出して廃止させた。

王の暴虐を批判した補佐役の「三公」の内、
二人は惨殺され、西伯は幽囚の身となった。

酒色に溺れ理性を失った紂王の心には、
桀王の悲劇を顧みる余裕はない。

今や紂王の乱行・淫楽は募るばかり。
人民の怨嗟はやがて頂点に達し、
臣事する諸侯の心もすでに
王から離れ去った。
この天下の形勢をみてとったのは、
周の武王であった。
かくて第二の「革命」が繰りかえされるのである。