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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

最悪の政治家⑩-6(恐怖の大粛清)

2009年11月20日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-6(恐怖の大粛清)

スターリンの独裁はついに
恐怖の大粛清への繋がってゆく。

第一次五カ年計画が終わる頃、
農民の強制集団化で富農層をほぼ撲滅した。

しかし、スターリン独裁の陰では、
トロツキー、カーメネフ、ジノビエフと
言った反対勢力がまだ幅をきかせていたし、
党の幹部の中には、粗暴なスターリンを嫌って
排除しようという動きもあった。
ここでスターリンは再び狡猾な手段に出る。

かつて、党から、追放したはずの
カーメネフ、ジノビエフらを再び党員に迎え、
要職につけたのである。

しかし、これは、さらなる大嵐が
来る前の凪(なぎ)のようなものだった。

キーロフの暗殺が大粛清のきっかけとなった。
キーロフは、共産党の中央委員でもあり、
人気があった。
実際、スターリンの後継者と見なす党員がほとんどだった。

スターリンは、表向きは、
キーロフを同志として信頼しているように
振る舞っていたが、本心は、
彼の存在が我慢ならなかった。

結局、キーロフの暗殺は、
カーメネフ、ジノビエフらの犯行ということになり、
彼らは、即刻、銃殺刑にされた。
しかし、これはでっち上げで、
キーロフの暗殺を仕組んだのは、
スターリンの仕業に他ならない。

後は、さらなる大粛清を行い、
自らの独裁を揺るぎないものにして
ゆくことであった。
粛清の死の嵐は、たちまちソ連全土に波及していき、
37年には空前絶後の規模で行われた。


最悪の政治家⑩-5(シベリア強制労働)

2009年11月19日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-5(シベリア強制労働)

スターリンは矯正労働収容所と称して、
シベリアなど、ロシア北西部に
数えきれない収容所をつくっていた。
その数、百カ所以上。

彼は、囚人を矯正し魂を鍛え直す労働だと
言い張っていたが、
その実態は、恐怖の強制労働に他ならなかった。

スターリンは、国家の工業化のために、
大量のただ働きの奴隷労働者が欲しかっただけなのである。

国家建設のプロジェクトの担い手である
労働力を大量に確保するために、
彼は、抜け目なく、
第58条という新しい条例をつくっていた。

1926年に交付されたその条例によれば、
政府の転覆、崩壊、もしくは革命的成果を崩壊、
弱体化させる行為は、反革命的と見なされ
祖国の裏切り者と見なされるというのである。

数百万の無実の人間が、囚人呼ばわりされ、
全財産を国家に没収された上、処刑されるか、
過酷な重労働を強制されることになった。

この条例の目的は、
罪のない人々を囚人にでっち上げ、
スターリン体制を維持するための奴隷を
合法的につくり出すことなのであった。

裏切り者のレッテルを張られた者には、
銃殺刑か荒涼としたシベリアへの流刑が待っていた。

シベリアに送られた囚人たちを待っていたのは、
金鉱の採掘、運河や鉄橋の建設などの
過酷な強制労働であった。

その労働は、想像を絶するほどひどいもので、
一日に16時間以上の重労働が課せられるのである。
真冬ともなると、あらゆる物が凍りつき、
気温は零下60度にも下がる。
当然、多くの囚人が凍傷にかかった。
医者が、まるで植木職人のような手さばきで、
凍傷にかかった囚人の手足を
パチンパチンとハサミで切り落としていった。
激しい飢餓に耐えきれずに、
死体置き場から死人の肉を切り取って
食べた者も少なくない。

かくして、50年代の初めには、
国家が保有する貴金属は、
金2千トン、銀3千2百トン、プラチナ30トンと
いう莫大な量にまで跳ね上がったのであった。

しかし、それらを採掘するために
強制労働に従事した数百万の人々は、
とうにシベリアの凍土と化していた。

最悪の政治家⑩-4(スターリンの私生活)

2009年11月18日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-4(スターリンの私生活)

生活でも、スターリンは、大変な独裁者で、
冷酷非情な面を、度々、見せている。

彼は、美食家で、国民が飢餓に苦しんでいようとも、
毎日、たらふく食べねば気がすまなかった。

料理が気に入らないと言って、
皿ごと床にぶちまけたこともあった。

また、妻の寝室に情婦を連れ込んで来ることもあったし、
酔うと粗暴な振る舞いが多かったという。

愛人の浮気の現場を押さえた時など、
ものすごい癇癪を起こして、何度も殴りつけた上、
二人の髪の毛をわし掴みにして、
裸のまま部屋から引きずり出し、
監獄にぶちこんでやるとののしった。
二人は、即刻、連行され、
裏切り者として銃殺されてしまったという。

また、スターリンは、女性の嫉妬という
感情には耐えられない面があった。
例え、献身的に尽くそうが、
嫉妬ゆえに彼に疎ましく思われ、
闇に葬られて消息を絶った女性はあまりにも多い。

最悪の政治家⑩-3(スターリンの大粛清)

2009年11月17日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-3(スターリンの大粛清)

スターリンの大粛清は
まもなく、農民だけでなく、
民族主義者、知識人など彼の体制に批判的な人間も、
すべて、その対象になっていった。

彼らは、「人民の敵」と名指しされ裁判にかけられた。
裁判とは名ばかりの大量処刑であった。
容疑がかけられると、
陰惨な拷問や薬によって強制的に自白させられ、
即刻、銃殺刑かシベリアの強制収容所に送られるのである。

時間のムダを省くために、
トロイカ(三頭だての馬車を意味する)と
呼ばれる機関が暗躍することになった。
それは、被告も原告もいなくても、
その場で判決が下せると言う簡易型の移動式裁判であった。
多くの者は、一方的に死刑判決を言い渡されると、
10分以内に処刑されてしまった。
全く、信じられないほどの素早さであったという。

日々の配給は、わずかパン数十グラム程度。
これでは、大人一人生きていくことは、
到底不可能だった。
人々は餓死から逃れるためには、
ありとあらゆる努力をしなければならなかった。
路上には、パンを求める孤児の群れが溢れ返った。

あるウクライナから帰って来た学生は、
身の毛もよだつ話をした。
彼らによると、飢饉のために、
食べるものがなくなった地方では、
人肉を食べていると言うのである。
餓死したと思われた死体は、
細かく切って解体され、
商品のように売りさばける準備が
なされていたということであった。

当然、この二人は秘密警察に逮捕され、
拷問の上、銃殺に処せられたのは言うまでもない。
スターリンは、自らの考えを
イメージダウンさせるものは、
事実であろうが、すべて隠蔽し、
片っ端から闇に葬っていたのだ。

最悪の政治家⑩-2(スターリン血の粛清の開始)

2009年11月16日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-2(スターリン血の粛清の開始)

1929年、スターリンは、
第一次五カ年計画の発動を命じた。
農業国ロシアを工業国に変えるのが
その目的であった。

その要となる政策は、農民の強制集団化であった。
すべての農民をコルホーズと呼ばれる
集団農場に一括してまとめ、
そこで収穫される穀物を国家が
すべて徴発しようというのである。
農機具は共同で用いられ、
一切の私有は禁じられる。

こうした彼の強引なやり方は、
これまで、着々と富と財を蓄えていた
クラークと呼ばれた富農層から猛烈な反発を食った。
彼らにしてみれば、これまでの財産をすべて失い、
以後も財を貯めることも許されないからだ。

しかし、スターリンは、
農業集団化に従わない農民には、
情け容赦のない弾圧を加えた。
29年だけでも、1000万人近い農民が、処刑されたり、
シベリアなどに送られている。
ある農民などは、見せしめのため、
広場で自らの墓穴を掘らされた上、
銃殺されたのである。

しかし、これは、まだ序曲であった。
血の粛清は、ますます本格化し、
やがて凄惨なクライマックスに
向かってゆくのである。


最悪の政治家⑩(凶悪な独裁者スターリン)

2009年11月15日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩(凶悪な独裁者スターリン)

ヨシフ・スターリン(1878年~1953年)は、
ソビエト連邦の政治家。
1922年から死去する1953年まで
ソビエト連邦共産党書記長を務めた。

彼の本名はヨシフ・ジュガシビリと言い、
スターリンという名は、
党の機関誌「プラウダ」の編集長をしていた時に
考えたペンネームである。
スターリンとは、鋼鉄の人という意味があり、
考案者はレーニンだと言われる。

1924年、レーニンが脳梗塞で再起不能の状態になると、
スターリンは、レーニンの後継者として名乗りを上げ、
ついに、党の実権を把握し事実上の
最高指導者の地位に躍り出ることになる。

しかし、時が経つにつれて、
彼は、急速に凶悪な独裁者の本性を
さらけ出し始めた。
対立者を巧妙で悪徳の限りを
尽くした手段で倒していくのである。

まず、最大のライバル、革命の功労者だった
トロツキーを国外追放し、
カーメネフ、ジノビエフなど自分と
意見主張を異にする政敵たちを、
除名処分にして党から追い出したのである。

それが済むと、スターリンは、
ゲ・ペ・ウと呼ばれる秘密警察を設立した。
ボルシェビキ的規律と秩序を確立するのが
その目的だったが、その実態は、
権力を思いのままに操るために、
彼の意にそぐわない人物を手足となって
粛正してゆく組織だった。

まもなく、独裁体制樹立と同時に、
恐怖の鎌首をもたげ、
計り知れない恐怖の原動力となって
活動を開始するのだ。

最悪の政治家⑨-8(ホロコースト)

2009年11月14日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑨-8(ホロコースト)

第二次世界大戦における
ナチスの最大の「戦争犯罪」とは一体何か? 
と質問したとすると、大抵誰しも、
「ホロコースト」と答えるだろう。

ヒトラー率いるナチスが、当時、
迫害の対象としていたユダヤ人を、
アウシュウィッツ等の「絶滅収容所」に収容、
処刑用ガス室において、
実に600万人にも及ぶ大量殺人を行ったとされるものだ。

ナチスは、ベルゲン・ベルゼンをはじめとする
ドイツ国内の「強制収容所」の他に、
アウシュウィッツをはじめとする
「絶滅収容所」をポーランド領内に建設した。

ナチスは、ユダヤ人を「強制収容所」
及び「絶滅収容所」に収容した。

とりわけ、「絶滅収容所」には、
ユダヤ人の大量殺人を可能とする処刑用の
「ガス室」が設けられた。
処刑用「ガス室」では、
「チクロンB」と呼ばれる毒ガスを使って、
ユダヤ人が600万人も処刑された。

処刑後、ユダヤ人の遺体は、
焼却炉をフル稼働して、焼却処分された。

600万人の大量殺人の数字が本当かどうか、
ガスで殺したのか、疑わしいという議論が
盛んに行われているが、
問題は人間が人間を裁き、殺す権利が
どこにあるかということだ。

一人の独裁者の為に尊い人命が
いとも簡単に葬り去られていいのかと
いうことだろう。



最悪の政治家⑨-7(独裁者ヒトラーの最期)

2009年11月13日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑨-7(独裁者ヒトラーの最期)

ヒトラーは着々とナチズムに基づくドイツを
作り上げていった。
その最終目的は『我が闘争』に示されたように
東方における「生存圏」の獲得であった。
その目的のため、この計画に批判的であった
ブロンベルク国防相らを陰謀によって追放し、
独立傾向があった軍を完全に掌握した。

軍事力による領土拡張を進める。
1939年のポーランドへの侵攻は
第二次世界大戦を誘引した。

大戦初期からドイツ軍は機甲部隊を駆使し,
空軍を組み合わせるという連携作戦を取って、
デンマーク、ノルウェー、オランダ、
ベルギー、フランスと瞬く間に
多くの西ヨーロッパを制圧するに到った。

しかし、彼の野望もこれまでだった。
同盟国のイタリアの拙い戦いもあり、
世界一優秀なドイツ機甲部隊も
連合軍の猛反撃に敗北を認めざるを
得なくなるのである。

1945年4月29日に、ハインリヒ・ヒムラーが
ヒトラーの許可を得ることなく英米に対し
降伏を申し出たことが世界中に放送され、
ヒトラーに最後の打撃を与えた。

終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、
個人的、政治的遺書の口述を行い、
ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げる。
その翌日、総統官邸総統地下壕において、
愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、
妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。

政権掌握までの過程は民主的であったものの、
政権掌握後に「指導者原理」を唱えて
民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたため、
独裁者の典型とされる。

その独裁者が誤ると、その被害は甚大だ。



最悪の政治家⑨-6(ヒトラーの演説)

2009年11月12日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑨-6(ヒトラーの演説)

ヒトラーは演説の天才だった。

近代の政治家の演説が残されているが、、
ヒトラーの演説はあまりの凄さに圧倒される。

もし、同じ演説会場にいたなら誰しも
彼の一言一言、一挙手一投足に
陶酔してしまっただろう。

1934年9月4日から6日間行われた
国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の
第6回全国党大会を記録した映画が残っている。

『意志の勝利』と名付けられた
白黒モノラルの映画である。
製作に使用されたカメラは16台、
スタッフは100人以上、
撮影フィルムは60時間分に上り、
当時としては大がかりなものだった。
リーフェンシュタール監督は
この映画の監督をヒトラー自身から直接依頼された。

ヒトラーが壇上に立つ。
聴衆の拍手とザワメキが会場が包んだ。
誰もがヒトラーの第一声を待つ。
が、ヒトラーは神経質そうに指を動かし、
語ろうとしない。

段々と会場が静まってゆき、
咳払い一つ聞こえなくなった。

その瞬間、ヒトラーは小さな声で静かに
演説を始めるのである。

これが圧巻。凄いの一言に尽きる。

総統が演説をする。

「第6回党大会は終わりを迎えた。
 党外の何百万ものドイツ人は、この党大会を
 政治的権力の荘厳な見世物だと
 見なしただけかもしれない。
 しかし、この党大会は、何十万もの戦士たちにとっては、
 それを遥かに超える意味を持つものであった。
 これは、古き戦士及び戦い続ける同志たちの、
 偉大な人格的・精神的大会であったのだ。」

次第に口調が激しさを増し、身体全体を使って
国民に呼びかける。
ドイツが如何に優秀な民族でありんがら、
無能な政治家の為に国民が苦しんでいること。
そして、ナチスが政権をとった今、
ドイツの栄光が永遠であることを。

分りやすい言葉で
同じことを繰り返す。
聴衆すべてがヒトラーの言葉に
歓喜した。
国家社会主義運動万歳!
ドイツ万歳!

また、ハーケンクロイツ(鉤十字)は、
ナチスの党章及びドイツ国旗に採用された。
親衛隊の服装や、火を使ったパレードの演出など
ヒトラーの国民の士気高揚の演出は
見事なものであった。

ドイツ民族はヒトラーの野望の渦に
飲み込まれていくのである。

最悪の政治家⑨-5(強制収容所)

2009年11月11日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑨-5(強制収容所)

ヒムラーとハイドリヒは
ドイツ国内・併合地・占領地を問わず
各地に強制収容所を設置させた。

政権掌握直後の1933年には
はやくもバイエルン州で
ダッハウ強制収容所が設置され、
さらに1936年にはベルリン北部に
ザクセンハウゼン強制収容所、
1937年にはヴァイマール郊外に
ブーヘンヴァルト強制収容所が
設置されている。
その後も続々と収容所が建てられた。

第二次世界大戦の際に占領した地域にも
強制収容所が立てられ、
ポーランドに建てられた収容所のなかには
ホロコーストのための絶滅収容所も置かれていた。

特にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、
ベウジェツ強制収容所、
ソビボル強制収容所、
トレブリンカ強制収容所などが
絶滅収容所として著名である。

1945年1月27日、ポーランド南部の
県都クラクフの西50キロメートルにある
都市アウシュビッツを占領したソ連軍は、
ナチス・ドイツの強制収容所を解放した。
正門には「働けば自由になる」との
スローガンが掲げられていた。

ナチスは戦況の悪化とともに
収容所そのものを隠滅しようとしたが、
それに失敗、ソ連軍がそこで見たのは
20世紀の悪夢「ユダヤ人絶滅工場」だった。

アウシュビッツのガス室では
1日350人の死体が焼かれた。
その犠牲者は100万人以上といわれる。

ホロコースト(大虐殺)。
原語はギリシャ語で「焼き尽くす」の意味である。