桃太郎⑫(遠仁の心が地獄の鬼を生み出す)
「皆人の心の底の奥の院、探してみれば本尊は鬼」
といわれたように、凡夫のマコトというのは、
マコトのないのが凡夫のまことである。
これら欲・怒り・愚痴を代表としているのが煩悩である。
この外に105あり、百八の煩悩と言われる。
除夜の鐘を108鳴らすのも、その為だ。
煩悩に目鼻をつけたようなものが私の相。
煩悩で出来あがっているのが私だから、
朝から晩、晩から朝まで、悪の造り通しである。
そして、悪因悪果・自因自果で、この世も苦しみ、
死んでからも本当の地獄へと堕ちてゆかねば
ならないのである。
それを後生の一大事という。
ジゴクと言うのは中国の言葉で、
釈尊は印度の方だから、
印度の言葉でナラカという。
ナラカというのは、我々に判る言葉になおすと
「苦しみの世界」ということだ。
ジゴクは、この世にも死後にもあると教えるのが仏教である。
この世のジゴクというのは、
自業苦(自分のやった行いで苦しむ世界)と書く。
毎日が不安で暗い心で、
生き甲斐のない生活をしている人をいい、
これをただ今がジゴクへ堕ちている人ということだ。
「私ほど業なものはいない」と
他人をウラミ、世間をノロイ、
苦しみ悩みの不幸の絶えない生活が、
この世のジゴクなのである。
殆どの人が仏教でいうこのジゴクへ
堕ちているばかりではなかろうか。
ところが『大無量寿経』には
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と説かれている。
今苦しみ悩みの絶えない者は
必ず死後もジゴクの苦を受ける。
現在が闇の生活を送っている人は、
死後もまた闇のジゴクへと堕ちて苦しまねばならない。
では死後のジゴクとはどんな世界かというと
、『賢愚経』に釈尊は
「如何なる喩をもってしてもジゴクの苦は説けない」
と言われている。
未来のジゴクは、現在のジゴクの延長だから、
現在のジゴクを解決することが
一切の救いの根本になる。
親鸞聖人の教えの一枚看板は、
平生業成(平生に救う)。
これが渊源、肝腑なのだ。
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といわれたように、凡夫のマコトというのは、
マコトのないのが凡夫のまことである。
これら欲・怒り・愚痴を代表としているのが煩悩である。
この外に105あり、百八の煩悩と言われる。
除夜の鐘を108鳴らすのも、その為だ。
煩悩に目鼻をつけたようなものが私の相。
煩悩で出来あがっているのが私だから、
朝から晩、晩から朝まで、悪の造り通しである。
そして、悪因悪果・自因自果で、この世も苦しみ、
死んでからも本当の地獄へと堕ちてゆかねば
ならないのである。
それを後生の一大事という。
ジゴクと言うのは中国の言葉で、
釈尊は印度の方だから、
印度の言葉でナラカという。
ナラカというのは、我々に判る言葉になおすと
「苦しみの世界」ということだ。
ジゴクは、この世にも死後にもあると教えるのが仏教である。
この世のジゴクというのは、
自業苦(自分のやった行いで苦しむ世界)と書く。
毎日が不安で暗い心で、
生き甲斐のない生活をしている人をいい、
これをただ今がジゴクへ堕ちている人ということだ。
「私ほど業なものはいない」と
他人をウラミ、世間をノロイ、
苦しみ悩みの不幸の絶えない生活が、
この世のジゴクなのである。
殆どの人が仏教でいうこのジゴクへ
堕ちているばかりではなかろうか。
ところが『大無量寿経』には
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と説かれている。
今苦しみ悩みの絶えない者は
必ず死後もジゴクの苦を受ける。
現在が闇の生活を送っている人は、
死後もまた闇のジゴクへと堕ちて苦しまねばならない。
では死後のジゴクとはどんな世界かというと
、『賢愚経』に釈尊は
「如何なる喩をもってしてもジゴクの苦は説けない」
と言われている。
未来のジゴクは、現在のジゴクの延長だから、
現在のジゴクを解決することが
一切の救いの根本になる。
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