goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

桃太桃太郎⑮-6(佛の字の謂れ)

2009年06月03日 | 桃太郎
桃太桃太郎⑮-6(佛の字の謂れ)

今ではホトケは略され仏と書いているが、
一昔までは佛と書いていた。

これは「人に非ず」から佛となったのである。

「弗」は「非ず」という意味で使われる。
?(さんずい)の横に弗と書くと、
沸騰の沸の字になる。
水が沸くとどうなるか。水蒸気と変身する。
液体が気体に大変わりする。
もとの水ではないのだ。

釈尊も元は人間である。
だから食事も取られるし、眠りもされる。
トイレにも行かれる。
当たり前である。

仏と聞くと食事もしない、トイレもいかない
そんなイメージを持っている人が多い。
とんでもない話だ。仏違いもいいところ。

お釈迦様時代にも仏弟子たちにこんな騒動があった。
釈尊が仏の覚りを開かれてより、大変やさしくなられたので
女性になったのではないかと思う者が少なからずいた。

弟子たちの中で
「釈尊は男に決まっている」
「いや、あんなやさしい男があるか。女性になられたのだ」
と喧嘩が始まったのである。

この収集は釈尊は男性か女性かの証拠を見るしかない。
選ばれたのが釈尊の身の周りのお世話をしている阿難である。
阿難は釈尊には申し訳ないが、弟子の喧嘩を収めるのに
仕方がないとお昼寝しておられた釈尊の寝室に忍び込んだ。

そして、着物のすそをあげ、あるものがあるか確かめた。
すると男の証拠があったので喜んだ。

その時、釈尊が目を覚まされ、
「阿難、何をしておるか」と厳しく叱られたと
いう話が残っている。

こんなことが問題になるほど、仏の覚りを開かれた
釈尊は変わられたのである。
それは男が女に変わられたような肉体のことではない。

人間は持つことのできない仏徳を兼ね備えられたのである。
その仏徳とは智慧と慈悲なのである。
その二つの偉大な御徳により、すべての人を
本当の幸せに導いてゆかれたのが
この地球上では釈尊であり、
本当の幸福に救って下される仏こそ、
諸仏の本師本仏である阿弥陀仏しかないのである。

ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑮-5(仏の智慧)

2009年06月03日 | 桃太郎
桃太郎⑮-5(仏の智慧)

あるとき、邪教徒の若い男が釈尊の所にきて、
さんざん、悪口雑言ののしった。
黙ってきておられた釈尊は、
彼が言い終わると静かにたずねられた。

「おまえは、祝日に、肉身や親戚の人たちを、
 招待し、歓待することがあるか」
「そりゃ、あるさ」

「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」

「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、
 その罵詈雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくても、与えた以上は与えたのだ」

「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、
 どういうのを受けとらないというのか」

「ののしられたとき、ののしり返し、
 怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。
 闘いを挑めば闘い返す。
 それらは与えたものを受けとったというのだ。
 しかし、その反対に、なんとも思わないのは、
 与えたといっても受けとったのではないのだ」
 
「それじゃあなたはいくらののしられても、腹は立たないのか」

釈尊は、おごそかに、偈で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。
 よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。
 怒りに怒りをもって報いるは、
 げにおろかもののしわざなり」

「私はばか者でありました。どうぞお許しください」
外道の若者は、落涙平伏し帰順したという。

ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑮-4(仏の慈悲)

2009年06月03日 | 桃太郎
桃太郎⑮-4(仏の慈悲)

仏心とは如何なる内容のものをいい、
どんな、はたらきを持っているのだろう。

『観無量寿経』の中に
「佛心とは大慈悲これなり」という有名な金言が示すように、
仏心とは大慈悲心に外ならない。

大きな慈悲をもたれた方が仏様である。

では慈悲といわれるものは如何なるものか
どんな力を持つものであろうか。

中国の名僧曇鸞大師は
「苦を抜くを慈といい、楽を与うるを悲という。
 慈に依るが故に一切衆生の苦をぬき、
 悲に依るが故に無安衆生心を遠離せり」
と教えられている。

慈悲には抜苦与楽の活動がある。
慈には他の苦しみを見ていることが出来ないで
共に泣き悲しみ、何んとか苦痛をなくしてやろうと
発動する心であり、
悲は与えて共に喜びたいの心である。

子供が病で苦しむ時、
親は「医者じゃ、病院じゃ」と騒ぐのは、
「一刻も早く苦を取り除いてやりたい」の親の慈の心であり、

財布のあり金はたいても買い求めて来る洋服も、
娘を喜ばせてやりたいの親の悲の心がなかったら
出来ることではない。

誰が苦を求め、楽を厭う者があるだろうか。
されば絶対の幸福を獲ることこそ全人類の生きる目的である。
すべての人の苦しみの根源を取り、
すべての人の本当の望みである絶対の幸せを与えてみせる
という働きが仏の慈悲である。

ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑮-3(文殊菩薩と普賢菩薩)

2009年06月03日 | 桃太郎
桃太郎⑮-3(文殊菩薩と普賢菩薩)

文殊菩薩と普賢菩薩は釈迦如来の弟子である。
二人は大変な仲良しであったが、今生だけの
友達ではなかった。
これは二人の過去世の話を釈尊が教えられたのだ。

過去世に於て、普賢と文殊は大の親友で
共に芸術家であった。
ある日、普賢が文殊から急に呼ばれ、慌てて彼の家を訪ねた。
文殊の部屋に入ると驚いた。、
文殊が椅子にもたれかかって死んでいるではないか。
「どうした、何があったのだ」
驚いて近づいてみると、文殊本人ではなかった。
自分の姿を彫った彫刻でイタズラだった。

文殊はさぞかし普賢はたまげているだろうと
部屋をあけると、今度は普賢が首をつって
死んでいるではないか。
「済まなかった、オレがあんな悪ふざけをしたために」
と言って近づくと、それは普賢が書いた絵であった。

それ程、二人とも絵が上手く仲も良かった。

二人の名声は国中に轟いていた。
そんな二人に国の王様が新築した廊下に
同じ時間に始め、同時に終了し、同じ絵を
書いてもらいたいと命じたのである。
二人は目を合わせただけで相談することなく、
普賢はひたすら絵を描きはじめた。
文殊はしばらく考えたあげく
廊下の壁を一生懸命に磨き始めた。
そして、普賢が描き終わったのと、
文殊が磨き終えたのが同時であった。

王様が来てみると、寸分違わぬ絵が
できているではないか。
よく見ると文殊の方の壁は鏡のようになって、
普賢の絵を映し出していたのである。

この話は二人の特色を上手く伝えられている。

慈悲の普賢は努力家で、こつこつと地道に活動をしてゆく。
やさしさ、愛情。挨拶、笑顔は、
たまに与えていても効果がない。
毎日、毎日、続けていってこそ、相手を幸せに
することができる。
しかし、やさしさだけでは溺愛になり、
相手を甘やかし放蕩息子にしてしまうことがある。

智慧の文殊はどんな難題も智慧で切り開いてゆく。
やさしさも智慧がなければ、活かすことができない。
智慧ある者は言うこと、やることが理にかなっている。
しかし、一つ一つ厳しくやられたのでは、
相手は堪ったものではない、
怖がって、近づいてこない。
「ここぞ」という時に厳しく教えることが大切なのだ。

智慧に裏付けられた慈悲、
慈悲に裏づけられた智慧。
この二人の特徴を備えておれば鬼に金棒である。


ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑮-2(仏の智慧と慈悲)

2009年06月02日 | 桃太郎
桃太郎⑮-2(仏の智慧と慈悲)

仏とは最高無上の覚りの名前である。
仏の覚りとは慈悲と智慧の覚体といわれる。
それを表したのが仏の脇侍なのだ。

一番有名なのが仏の本師本仏である阿弥陀仏の
両脇に立つ勢至菩薩と観音菩薩である。
勢至菩薩は阿弥陀仏の智慧を表し、
観音菩薩は阿弥陀仏の慈悲を表す。

この地球上の仏といえば釈迦如来である。
文殊菩薩と普賢菩薩が釈迦の脇侍として、
釈迦三尊を構成する。

仏の覚りとは智慧と慈悲の覚体である。
智慧と慈悲の2つが備わらなければ、仏の覚りとはいえない。
なぜなら、仏の智慧(仏智)と慈悲によって、
衆生を済度できるからである。

その特徴を現す為に
また釈尊の脇侍として文殊と普賢が置かれている。

文殊菩薩は「三人寄れば文殊の智慧」といわれるように
仏の智慧を表わす菩薩である。

普賢菩薩は
普は遍く一切の意。
賢は最妙善の義で
身口意の三業を消滅する慈悲の徳
を表わす菩薩である。

文殊が智・慧を代表するため獅子にのり、
普賢が定・行を代表するため白象にのっている。

智慧をなぜ獅子と例えたのか。
百獣の王ライオンには誰も恐れるものはない。
ジャングルを堂々と歩める。
智慧あるものに恐れなし。

慈悲は表すのが象であるが、
象は胴体が大きいが、気はやさしい。
その大きさに誰も立ち向かえるものがいない。
ジャングルの中を一歩一歩確実に
歩んでゆく。
釈尊の二大の徳を象徴した
文殊と普賢には、この世だけの友達ではなく、
過去世からの友達であった。

ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑮(猿=智慧)

2009年06月02日 | 桃太郎
桃太郎⑮(猿=智慧)

人間に次いで賢い動物といえば
陸上なら猿、海ならばイルカであろう。
チンパンジーの学習能力の高さには驚かずにおれない。

猿がどれほどの智慧を持っているか
学者が試したことがある。

10名の猟師が猿山に入った、
見張り猿が大声で騒ぎたて、
仲間に侵入者のあることを伝える。
猿達は洞窟の中に逃げ込んだ。

猟師たちは打ち合わせの通り、
一人一人、猿達に姿を見せて、
山を下りていった。
すると3名の猟師がいなくなったのを見て、
洞窟から出てきたのだ。

そこへ7名の猟師が「わぁ」と現れる。
驚いた猿達はまた洞窟の中へ。
また、3名の猟師が出てゆくと
洞窟から恐る恐る出てくる。

すると4名の猟師が現れた。
猿は洞窟へ飛び込んでゆく。
3名の猟師が下りてゆくと
穴から顔を出す。

残りの一人が現れると
猿達は・・・・・・・

こんなことを繰り返し続けたところ
猿が3つ以上は数えられないことが分かったという。
3つ以上は無限ということになるようだ。

だから猿は毛が3本足りないと
言われるのだろうか。

しかし、志村動物園のパン君の頭の良さには
毎回、感心させられる。
昔、テレビで見た『わんぱくフリッパー』の
イルカのフリッパーは凄かった。
人間の言葉を理解する能力は人間よりも
優れているのかとさえ思った。
この智慧で多くの難題を解決していた。

智慧がなければ、本当の問題の解決は
できないことはお解かりの通りだ。
家来になった猿は智慧を表している。

ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑭-2(人身受け難し 今已に受く)

2009年06月01日 | 桃太郎
桃太郎⑭-2(人身受け難し 今已に受く)

人間に生れたことを喜べと教えられるが
私たちは喜ぶどころか産んだ親をうらむことさえある。
なぜ人間に生れたことが有難いのだろうか。

自殺するのは、生きる喜びのない人達のすることだ。
仏教では人間に生れたことは大変有難いことだから
喜ばねばならないと説かれている。

『雑阿含経』の中には有名な盲亀浮木の譬喩がある。
 或る時、釈尊が
「たとえば大海の底に一匹の盲亀がいて百年に一度、
波の上に浮び上がるのだ。
ところがその海に一本の浮木が流れていて、
その木の真中に一つの穴がある。
百年に一度浮ぶこの亀が、丁度この浮木の穴から
頭を出すことが一度でもあるだろうか」
と尋ねられた。

阿難という弟子は
「そんなことは殆ど考えられません」
と答えると、釈尊は
「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。
しかし、全くないとは言い切れぬ。
人間に生れるということは、
今の喩よりも更にあり得ぬ難いことなのだ」
と仰言っていらる。

私達は日常、「有難い」と言うが、
あることがまれだということから
出た言葉なのだ。

『涅槃経』には
「地獄に堕ちるものは十方世界の土の如く、
人間に生れるものは爪の上の土の如し」
とも説かれている。

このように、受け難い人身を受けたということは、
人間界に出なければ果せない重大な問題がある
ということなのだ。
人間には大切な聖使命があって、
それを達成する為に生れ来たということなのである。

その唯一の聖使命とは、真実の仏法、阿弥陀仏の本願を聞信し、
魂の解決をするということ。
これを仏教では信心決定という。

しかもこのようなことは何億年に一度しかめぐって来ない
絶好のチャンスなのだ。
かくて、仏法を聞き絶対の幸福を獲得した時こそ、
人間に生れた本当の有難さ、尊さが判る。
仏法を聞き開かぬ限り人間に生れた喜びなど絶対に判るものではない。

以上のことを釈尊は
「人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、今すでに聞く。
この身、今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」
と仰言っていられる。

生まれ難い人間に縁を結んで下され、大きくして下された親の恩、
人間に生まれた目的を教えて下された人生の師に対する恩
無上の幸福に救って下された阿弥陀仏のご恩
恩の中で生きているのが人間なのだ。
よくよくかみしめて味わなければならない。

ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑭(犬=仁義)

2009年06月01日 | 桃太郎
桃太郎⑭(犬=仁義)

犬は仁義に厚い動物
犬というのは動物の中で一番義理がたい。
餌を与えてくれた人をご主人とし、
そのご主人の恩返しの為にはどんな命令にも素直に従う。
受けた恩を知り、強く感じ、ご恩返しをしようとする。

恩というのは、中国で恵みという意味で
日本ではおかげという言葉にあたる。

おかげというのは樹のカゲに雨ツユをしのぐとか、
夏の暑い時木カゲで日光をさける
というようなことから来た言葉である。

何でも人間は恩の集積であるから
恩を知り(知恩)、
恩を感じ(感恩)、
恩に報いる(報恩)
ということは仏教でやかましく言われる。

恩の対象の第一は何といっても仏恩であり、
善知識の恩、次いで親の恩等になる
であろう。
これら御恩を受けた人々に対する布施は
尊い福徳を産むのである。


ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑬(家来とキビ団子)

2009年06月01日 | 桃太郎
桃太郎⑬(家来とキビ団子)

(原文)
「旅の途中で、イヌに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。
おともしますよ」
イヌはきび団子をもらい、桃太郎のおともになりました。
そして、こんどはサルに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。
おともしますよ」
そしてこんどは、キジに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。
おともしますよ」
こうして、イヌ、サル、キジの仲間を手に入れた
桃太郎は、ついに鬼ヶ島へやってきました。」


「犬・猿・雉(きじ)を吉備団子で家来に」

この鬼退治に桃太郎が選んだ家来が犬・猿・きじである。
よりによって、この三匹を家来に選んだのか。
また、三匹もキビ団子でなぜ家来になったのか。
ここにも大事な意味が隠されていた。

ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


桃太郎⑫-2(火の海・氷の山)

2009年05月31日 | 桃太郎
桃太郎⑫-2(火の海・氷の山)

経典の中に地獄を表された話にこのようなのがある。

地獄へ堕ちた罪人は先ず、火の海へと堕ちる。
身体をジュウジュウ焼かれ苦しむ罪人は
どこかに涼しいところはないかと探し回る。
すると遠くに氷の山が見えるではないか。
「あそこにいけば楽になれる」と思った罪人は
氷の山へと一生懸命に泳いでゆき、氷の山へ辿りついた。
その途端、丸裸の罪人に凍てつく寒さ。
「ああ、寒い」と思うが、火の暑さも知っている。
この氷の山のどこかに幸せがあると氷の山を歩き出す。
しかし、氷の山の寒さに今度は暖かい所はないかと
探し回るが氷の山に迷って見つからない。
その内に目の前に暖かそうな火の海が見えてきた。
罪人は火の海で苦しんできたことはすっかり忘れ、
自ら、火の海へ飛び込んだ。
「わわ、熱い。熱い」
しかし、まだ氷の寒さを知っているので、
火の海のどこかに幸せはないかと泳ぎ始めた。
さんざん火の海で苦しんだ挙句、また氷の山に遭遇し、
その山へ駆け上がってゆく。
このように地獄の寿命がつきるまで、
火の海、氷の山を入ったり、来たりするのだ。
と経典に説かれてあった。

しかし、これはこの世のジゴクも表している。
男にとって火の海は家庭だ。
妻からはののしられ、母親から嫁の悪口を聞かされ、
子供からも馬鹿にされる。
まさに腹が立ちケンカが絶えない怒りの火の海だ。

だから、朝飯もソコソコに会社へ出勤。
ところが行った会社は出世を争う冷たい関係ばかり。
仕事で会う人は金での付き合いだけ。
「ああ、なんと世間は冷たいのか」
と氷の山に落胆する。
やはり家庭は温かいと終了時間が気になりだす。
そして帰宅。そこはまたしても火の海だ。
男はこんな火の海、氷の山を行ったり来たり。

女というと家が火の海に変わりはない。
甲斐性なしの主人と夫婦喧嘩。
憎い姑とは舌頭での争い。
言うこと聞かない子供に頭がくる。
逃げ場のない火の海にうんざり。

だからたまに里帰りをする。
しかし、実家には長男の嫁がいる。
帰るなり、「いつまでおられるの」と
先制パンチを食らう。
ここも居辛い氷の山になっていた。
やはり家がいいわと戻ってみると
いつもの火の海が待っていた。
こんなことが続く毎日。

しかし、年寄りになると大転換。
家が氷の山になるのだ。
話しかけても息子夫婦は返事もしない。
孫も年寄りをあざ笑う。
病気をしても心配もしれくれず、
死ぬのを待っているようだ。
なんと冷たい氷の山のよう。

だから、思い余って老人ホームへ
逃げてゆく。
しかし、ここは修羅場であった。
一人のおじいさんをめぐり、
お婆さん同士が取りあいのケンカが始まる。
こんなことなら子供と同居のほうが良かったと
子供に相談するが、どの子も嫌がって
受け入れ拒否。
やっと一人の子が引き取ることになるが、
そこは冷たい冷たい氷の山。
部屋を与えられても座敷牢である。

人間世界、みな生きてる間から
火の海、氷の山を行ったり来たり。
その延長が死んでからの地獄なのだ。
苦から苦の綱渡り、闇から闇への綱渡り、
この世のジゴクが死後のジゴクを
生み出している。

ここをクリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村