道綽禅師⑧(聖道・浄土の関係)
道綽禅師は何故、
龍樹菩薩が難行道・易行道
曇鸞大師が自力仏教・他力仏教と
いわれたのを、
聖道仏教・浄土仏教と
言われたのであろう。
聖とは聖人(ひじりびと)
=立派な人格や教養を備えた徳の高い理想的な人物
のことであるから、
立派な人しか歩むことができない道と
いうことになる。
修家し、険しい山々を厳しい修行に
耐えられるのは並大抵の人では無理だ。
立派な人しか行くことのできない道が
聖道仏教であるという意味もある。
だが、道綽禅師が聖道・浄土と分けられたのには
もう一つ大事な意味が込められている。
聖道の聖も清らか、浄土の浄も清らかと
いうことである。
道はある目的地に向って造られる。
道がなければ目的地に進むことはできない。
だから道は重要であり、必要なものだ。
しかし、それは目的地がハッキリしてのこと。
その到達すべき土地こそ弥陀の浄土なのである。
浄土とは清らかな世界。
清らかな世界に行くには清らかな道を
歩まなければならない。
浄土(真実)へ行く為の清らかな道(方便)が
聖道仏教なのである。
聖道=清らかな道=方便
浄土=清らかな世界=真実
聖道仏教と浄土仏教の関係が
見事に表されているではないか。
道綽禅師の功績絶大なものがある。
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道綽禅師は何故、
龍樹菩薩が難行道・易行道
曇鸞大師が自力仏教・他力仏教と
いわれたのを、
聖道仏教・浄土仏教と
言われたのであろう。
聖とは聖人(ひじりびと)
=立派な人格や教養を備えた徳の高い理想的な人物
のことであるから、
立派な人しか歩むことができない道と
いうことになる。
修家し、険しい山々を厳しい修行に
耐えられるのは並大抵の人では無理だ。
立派な人しか行くことのできない道が
聖道仏教であるという意味もある。
だが、道綽禅師が聖道・浄土と分けられたのには
もう一つ大事な意味が込められている。
聖道の聖も清らか、浄土の浄も清らかと
いうことである。
道はある目的地に向って造られる。
道がなければ目的地に進むことはできない。
だから道は重要であり、必要なものだ。
しかし、それは目的地がハッキリしてのこと。
その到達すべき土地こそ弥陀の浄土なのである。
浄土とは清らかな世界。
清らかな世界に行くには清らかな道を
歩まなければならない。
浄土(真実)へ行く為の清らかな道(方便)が
聖道仏教なのである。
聖道=清らかな道=方便
浄土=清らかな世界=真実
聖道仏教と浄土仏教の関係が
見事に表されているではないか。
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