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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

道綽禅師⑭-5(命濁 平均寿命)

2009年07月17日 | 七高僧
道綽禅師⑭-5(命濁 平均寿命)
 
⑤命濁(みょうじょく)
衆生の寿命が次第に短くなること。

しかし、これは現代には当てはまらないのでは
と思う人もいるだろう。

昔は人生50年といわれたのが、
今や50歳は洟垂れ小僧である。

平成20年の日本人の平均寿命は
男性が79.29歳、女性は86.05歳で、
前年をそれぞれ0.10歳、0.06歳上回り、
3年連続で過去最高を更新した。

厚生労働省によると、
女性は24年続けて世界で最も長寿で、
男性は4位だった。
がん、心疾患、脳血管疾患の3大疾患による
死亡率が下がった影響が、最も大きかった。

厚労省が把握している海外の最新データと比較すると、
男性の平均寿命が最も長いのは
アイスランドで79.6歳、
スイスと香港が79.4歳で続いた。
女性は日本に次ぐ香港が85.5歳、
フランスが84.3歳だった。

日本人が3大疾患により死亡する割合は、
男性が約55%、女性が約52%。
3大疾患による死亡がなくなったとすると、
平均寿命は男性が87.39歳、
女性は93.05歳まで延びるという。

では寿命が短くなるとはどういうことか。
 
一つには昔は生まれたばかりの
幼い子供が多く死んだ為、
平均寿命が短くなっているからである。
二つには長生きしても
鼻から管を入れられ、
昔なら死んでいてもおかしくない人が
生きていても、長生きしたとは
いえない。

周りの人から死ぬことを望まれ、
死ぬに死ねない。
これは生きているとはいえない。

問題なのは
健全な精神を持って、
生きているかどうかである。

人生の目的に向って、
生涯を光に向っている生命が
どれだけあるか。

現代人は殆どないのに近いのでは
なかろうか。
正に命濁であろう。

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道綽禅師⑭-4(衆生濁、世界戦争)

2009年07月16日 | 七高僧
道綽禅師⑭-4(衆生濁、世界戦争)

④衆生濁(しゅじょうじょく)
人が集まるとそこには必ず争い事が起きる。
大きくなると戦争が始まる。
それが衆生の濁りなのだ。

原始人の時代はケンカといっても
親子ゲンカか、縄張り争いぐらいだろう。

ところが人が集まり、村を作り、町になり、
国になってゆくと、そこには必ず諍いが起こり、
戦争が始まる。

日本では法然上人・親鸞聖人のおられた時代
公家政治から武家政治に変わり、
世の中が一変した。

蓮如上人時代には戦国の世となり、
大虐殺が頻繁に起こった。

そして20世紀、
1914年から1918年まで続いた第一次世界大戦。
機関銃が猛威をふるい。
飛行機や戦車も現れた。

1939年から1945年には第二次世界大戦が
勃発した。
戦闘機、戦艦、空母、戦車の性能が高まり、
最終兵器として、日本に原爆が落とされた。
全世界で数千万人もの死者が出たのである。

21世紀に入って
今では北朝鮮・イランといった小さな国が
核を武器に世界を相手に戦いを挑んでいる。
人類滅亡の時機が迫ってきた。

まさに人の行き来が多くなると
摩擦が生じ、争いが増える。
これが衆生濁なのだ。

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道綽禅師⑭-3(煩悩濁、煩悩渦巻く地獄絵図)

2009年07月15日 | 七高僧
道綽禅師⑭-3(煩悩濁、煩悩渦巻く地獄絵図)

③煩悩濁(ぼんのうじょく)
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)等の
煩悩が盛んになること。

昔の楽しみといっても、
のんびりと和歌をたしなむ。
釣りに一日興ずるなどであろう。

ところが現代はどうなっている。
テレビをつければ、
「これはお安いですよ。今から1時間以内なら
 特別料金、すぐお電話ください」
と、これでもかこれでもかと欲をかき立てる。
新聞と共に束となったチラシが舞い込む。
凄まじい宣伝合戦だ。

欲をかきたてられた者達は
踊らされて買いあさる。
その為にローン地獄に陥り、
犯罪へと手を染めてゆく。

また女性が着飾り、魅力を振りまく
男性がその魔力の虜となり、
彼女の為には、会社の金を誤魔化しても
貢ぎ物を贈る。
そんな記事が新聞紙上を埋め尽くす。

正に煩悩逆巻く地獄絵図になってきている。

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道綽禅師⑭-2(見濁、外道が百鬼夜行)

2009年07月14日 | 七高僧
道綽禅師⑭-2(見濁、外道が百鬼夜行)

②見濁(けんじょく)
見とは思想・考えのことだから
見濁とは思想の乱れをいう。
邪悪な思想、見解がはびこることである。

お釈迦様時代にはインドに、はびこっていた
外道・邪教と呼ばれるものは95だった。
これを
「九十五種世を汚す、唯仏一道清くます」
と言われている。

ところが現代はどうだ。
日本だけでも、
18万2千の宗教団体が登録されている。
釈迦時代のインドの2000倍である。
まさに宗教のオンパレード。
いや、百鬼夜行といったほうが正確だ。
 
解脱したといいながら、サリンを撒いて
無差別殺人を計画した輩。
題目を唱えるとどんな借金苦からも逃れられる
といいながら借金踏み倒して夜逃げの一番多い宗教団体。
手かざしで病気が治ると病院に行かずに
盲腸で死んだ者。
初詣に交通安全の神社へ行き、
帰り道、交通事故で死亡する連中。
お前に取り付いている悪霊を追い払ってやると
祈祷の末、窒息死させられた者。

多種多様な宗教が乱立し、
世間を騒がしている。
これを見濁という。

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道綽禅師⑭(劫濁、世界終末時計)

2009年07月13日 | 七高僧
道綽禅師⑭(劫濁、世界終末時計)

①劫濁(こうじょく)
劫とは非常に長い時代ということ。
劫濁とは時代の汚れということである。
 
時代が流れるにつれ、人間が自ら自然を破壊し、
天変地異が頻繁におきるようになる。
大雪、水害、日照り、飢餓というような
人災、天災が増大することである。

今、世界終末時計というのが
世間で盛んに使われている。

これは原爆投下から2年後の1947年に
アメリカの科学誌「原子力科学者会報」
の表紙に初めて掲載された。
実物はシカゴ大学にあり、
同誌によって管理されている。
最近は1950年代のころの冷戦時と異なり、
必ずしも核からの脅威のみで
時計の針の動きが決められているわけではなく、
世界の様々な紛争状況、
さらに環境破壊による人類滅亡をも
考慮して針が決定されている。

この「終末時計」というのは、
核戦争によっておこりえる地球破滅の危険度を
「12時までの残り(のこり)時間」で
あらわしている時計のこと。
我々の生活は科学の発達によって、
すごく便利になっているい一方、
科学によって作られたさまざまな危険に
さらされている。

この時計の針(はり)が動かされるたびに、
世界中のマスコミが大きく報道する。
1990年には、時刻の決定基準に
地球の環境も取り入れられ、
10分前からのスタートになった。
今の地球の状態を考えると、
核兵器よりもオゾンホールや温暖化と
言った環境の危険度の方が怖い。

平成21年は5分前。
人類に危機がまじかに迫っている。

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道綽禅師⑬(末法五濁)

2009年07月12日 | 七高僧
道綽禅師⑬(末法五濁)

末法になると世の中が濁りに濁ると
多くの経典に説かれている。

これを末法濁世といい、
末世(まつせ)といわれる。
避けがたい五種の汚れのことを
末法五濁というのだ。

その五つの濁りとは
阿弥陀経に
「劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁」
と説かれている。

平成21年6月、岡山でひったくりの事件があり、
75歳の女性のかばんを取った男を
高校生2人が捕まえた。
犯人を捕まえてビックリ。
警察官ではないか。
それも窃盗などを捕まえる盗犯係の巡査部長。
笑うに笑えない話だ。
捕まえたのは男子高校生2人の言った感想が
印象に残った。
一人の男子学生が
「捕まえる側の警察官が捕まるなんて信じられない」
とあきれて言うと、
もう一人の高校生曰く
「世も末だと思った」

若者でも現代は末法濁乱を感じとっているようだ。

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道綽禅師⑫(三時=正法・像法・末法)

2009年07月11日 | 七高僧
道綽禅師⑫(三時=正法・像法・末法)

インドから『大集月蔵経』という経典が伝わって来た。
この経には、仏教の教えは、釈尊が亡くなられた後、
時代がへだたるに伴って
世に正しく伝わらなくなり、
やがて仏法は衰滅する時が来ると説かれている。
いわゆる「末法」の到来が説かれている。

道綽禅師が生まれられたのは、
すでに末法の時代に入って
11年目のことであったとされている。
その上に、武帝による過酷な廃仏があったから、
まさに仏法は衰滅に向かいつつあるという、
強い危機の意識が広まっていた。

仏教では釈迦一代の教説の弘通する年代を
正法、像法、末法の三時機に区分せられている。

『賢劫経』や『大集経』には
釈迦入滅後五百年間を正法の時機とし、
その後一千年間を像法の時機、
像法後一万年を末法の時機
と説かれている。

そして釈尊入滅後、千五百年後には災起って
釈尊の教法は悉く滅びつくしてしまうであろう。
即ち、末法の時代には釈迦の教法は
全く残らないと説かれている。

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道綽禅師⑪(安楽集)

2009年07月11日 | 七高僧
道綽禅師⑪(安楽集)

人間が真の人間の実相を知るのは
命の消えゆくことに身ぶるいするところからであることを
仏教の先覚者達は体認していられる。

釈尊以来二千五百余年の
仏教の歴史上の高僧偉人を眺めても、
この念々に消えゆく無常を凝視し
驚かれなかった方はない。

釈尊に於いては阿含経の有名な四門出遊で
老苦・病苦・死苦の無常観を知らされ、
出家なされた。
生後七日にして母君に死別せられた釈尊には、
深刻な無常観があった。
真実の仏法に入られた動機は
無常刻々に迫る体験であった。

又道綽禅師の安楽集に
「譬えば人有りて空昿のはるかなる処に
 於て怨賊、刀をぬき勇をふるいて
 直に来りて殺さんと欲するにあい
 此人直に走りて視るに一河を渡るべし、
 未だ河に到らざるに即ち此の念を作さく、
 我河岸に至らば衣を脱ぎて渡るとせんや、
 衣を着けて浮むとせんや
 若し衣を脱ぎて渡らんには唯ひまなきを恐る。
 若し衣をつけて浮かばんには復首領全くし難きを畏る」
とある。

剣を抜いて追いかけて来るとは無常の嵐の激しさを
あらわされたものであり

衣を脱ごうとすれば
帯は堅くてとけないのは罪悪の深重にもだえていることだ。

道綽禅師の罪悪と無常観にせめたてられた
心の道を譬えられたものである。

この譬え話が善導大師の二河白道の喩えの
土台になったことは言うまでもない。

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道綽禅師⑩(浄土仏教になぜ善の勧めがあるのか)

2009年07月10日 | 七高僧
道綽禅師⑩(浄土仏教になぜ善の勧めがあるのか)

道綽禅師が聖浄廃立を徹底された。
ここで誰もが疑問を起こすだろう。
なぜ、釈尊は捨てるべきものを
勧められたのか。

机上の空論や、合点なら易しい。
仏教は、行学である。
自力は捨てもの、間に合わぬものと、
合点するのはたやすいが、
実地の体験は、難中之難、
これに過ぎたる難はなしだから、
浄土は「往き易くして人無し」なのだ。

後生の一大事の解決には、
自力で間に合うか、合わないか、
実際、全力を尽くして、
初めて、出来ることか、出来ないことか、
可能か不可能か、ハッキリ知らされるのだ。

喩えて言えば、クラスで力自慢の、
小学一年の男子を連れて、
母親が瀬戸物店へ、買い物に行った。

大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、
重そうに、荷物を持って店を出た。
瀬戸物は、量の割に、重いものだ。
それを見て、子供が、
「お母さん、僕、それ持ってあげる、
 僕、力強いんだよ、
 昨日もクラスの相撲で、一番だった」
と、自分の力を、誇示する。

とてもとても、子供の力に合うような、
品物でないことは、母親は、百も千も承知している。

「こんな重いものが、あんたなんかに、
 持てますか、落としたら、どうするの」
頭から、叱りつける母親は、
余り、利口な親とは、言われぬ。

「そうお、坊や、そんなに強くなったの、
 お母さん、嬉しいわ、それじゃ持ってくれる」

利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、
一度持たせてみせるのだ。
落としたら大変だから、
母親は、密かに、下に手を廻している。
子供は、誉められて持ったのだから、
男の意地だ、何とか持とう
と渾身の力で、力んではみるが、
とてもかなわぬ重荷を知らされ、力尽きて、
「お母さん、やっぱり、僕の力じゃ、
 駄目だ、早くとって!落とすよ、早く、早く」
と、母親に任せる。

子供は、母親が、
荷物を下から支えていることを知らないから、
驚いて、心から素直に、母親に、任せるのだ。

すべてが、他力だったと、知らされる時
親鸞聖人も、自力一杯の、体験を通して、
「いずれの行も、及び難き身……」
     (歎異鈔)
「大菩提心おこせども、自力かなはで流転せり」
     (正像末和讃)
「自力にては、生死をいでず」
     (御消息集)
と、自力無功を信知させられ、
無条件に、他力に乗托されたのである。
命がけの聴聞も、破邪顕正も、
自力の一切は、間に合わなかった、と、
廃った一杯が、本願力に間に合ったことに驚き呆れ、
すべてが、他力であったなあーと、
不思議不思議と踊り上がったときを、
信心獲得というのだ。

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道綽禅師⑨(聖浄廃立)

2009年07月09日 | 七高僧
道綽禅師⑨(聖浄廃立)

浄土門他力仏教が真実と知らされた人は
どうしなければならないのか。

大きなビルディングを建てるには
まず足場は必要となってくる。
しっかりした足場を組み立て、
本体のビルが築きあげられる。
ビルディングが完成したと同時に
足場はどうするか。
今までお世話になってきたのだからと
そのままにしておくわけにはいかない。
取り除く。

聖浄廃立とは、
釈迦一代の仏教を大別すると、
聖道門の仏教と、浄土門の仏教とになるが、
聖道仏教はいまだ、方便の教えであるから、
これら一切を捨てて、
我々の助かる道は唯一つ
浄土仏教に入らねば助からねということである。

では浄土仏教に入った人はどうすれば
助かるのか。

本師本仏の阿弥陀仏には、
四十八の、お約束がある。世に名高い、
弥陀の四十八願といわれるものだ。
その中に「あらゆる人を救いとる」
と誓い給うた願が、三つある。
十八・十九・二十の、三願だ。
「どんな人をも、必ず絶対の幸福に救う」の十八願は、
自らの、本心に随って、誓われたもの。
随自意の願とか、王本願とかいわれる。

なにしろ、自惚れ強く、相対の幸福しか知らない我々を、
絶対の幸福まで導くことは、難中の難事。
どうしても、善巧方便が、不可欠だった。

十九・二十の二願は、
その、必要に応じて建立なされたものである。
十八願、絶対界へ導くために、
一時、我々の意に随って誓われたものだから、
十九・二十は、随他意の願と、いわれる。

自惚れ強く、どうしても、自力の執着離れ切れず、
流転を重ねる、我々に、

実行できるだけ、やってみよ、
気の済むまで、やってみよ
(十九・二十の随他意の願)。

できないときに、できないままを、
無条件で救いとる
(十八の随自意の願)
というのが、弥陀の正意なのだ。

随自意、真実の願に誘引するための、
随他意、方便の願だから、
三願は孤立したものでない。
弥陀が、もし、十八願のみで、救済できるなら、
方便二願を、建てられるはずがない。


十八願には、弥陀の本心
どんな人をも、必ず絶対の幸福に救いとるが、
誓われているから、真実といわれる。
方便は、方法便宜の省略で、
目的を果たす、方法手段をいう。

「十九・二十の二願は、
弥陀が目的(十八願)を果たす、
方法手段に誓われたもの。
 従って、三願は、
無関係に孤立したものではない」

これが親鸞聖人の見解であり、宣言である。


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