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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

善導大師⑩(嘉祥-三論宗)

2009年07月26日 | 七高僧
善導大師⑩(嘉祥-三論宗)

嘉祥吉蔵(549年~623年)
三論宗再興の祖

三論宗というのは
『百論』『中論』『十二門論』の経論に依って
嘉祥が打ち立てた宗派である。
嘉祥は南京で生まれた。
家は代々、仏教を信奉していたが、
出家していた父の道諒は、
いつも吉蔵を連れて興皇寺法朗の法席に参加した。
それが縁で吉蔵も出家し、法朗(507-581)の弟子となる。

吉蔵は聞くに随って領解し、悟ること
天真(=うまれつき)の如くであったといわれている。
陳の桂陽王は、そんな吉蔵を深く尊敬し、
その教えを味わい奉じたという。
陳が滅んで隋が江南を統一すると、
吉蔵は開皇9(589)年から会稽の嘉祥寺に止宿。
以後七、八年間、三論(中論・百論・十二門論)
の講述と著述に専念。
三論宗の教義を組織大成した。


善導大師⑨(浄影-地論宗)

2009年07月25日 | 七高僧
善導大師⑨(浄影-地論宗)

浄影寺の慧遠(523年~592年)
地論宗(後の華厳宗)の開祖
『大乗義章』という仏教辞典を書いたことでも有名である。

浄影は敦煌の出身である。
13歳で出家し、四分律や経論を修学し、
法上(495年 - 580年)に師事した。
法上は、『十地経論』を研究する地論宗の南道派の中心人物で、
北斉の僧統であった慧光の弟子で、
師と同じく僧統となった。

浄影は、北周武帝の廃仏時に、ただ一人、
武帝に対して正面きって直諫した。

当時、北周の武帝が仏教嫌いで寺を焼き払い、
坊主をなくそうとした。

その理由はこうだ。

1:坊主になると親を捨てて山へ入る。
  大恩ある親を捨てるとは親不孝である。
  すぐさま坊主を辞めて、親元へ帰れ。

2:仏を拝みたかったら、あんな広大な土地も
  大きな寺院もいらん。
  心の中の仏を拝めばよいではないか。

武帝は宮中に坊主全員を集め、もしこれに反論ある者は
異議を申し立てよと言った。

討論上手な武帝でもあり、
もし反論でもしようなら、殺されることは間違いない。
誰も反論する者はいなかった。
その時たった一人手を挙げ、
仏教廃止の宣言に堂々と意見を述べたのが、浄影であった。

「あなたは親元を離れることは親不幸というのなら、
 どうしてあなた一人を守る為に、多くの若者が
 故郷を離れ、この城に集まっているではありませんか。
 すぐに家来たちをまず故郷に返してはどうですか。
 坊主だけにいうのは片手落ちではありませんか。
 また、寺や広大な土地がいらないというのなら、
 あなたは自分や先祖の墓の為に広大な土地を持ち、
 あなたが住む為にこんな大きな城や土地を所有している。
 まずそれを人民に与えなさい」

「だまれ」と武帝はいうが、

浄影は言い切った。
「それは謗法罪で無間地獄に堕ちますよ」

「餓鬼道へ堕ちようが、地獄界へ堕ちようがどうでもよい」
と武帝は自棄になっていうが、

「あなたは良くても、この国はあなたが天下を取っているので
 全ての人々を地獄へ堕とすことになる」
と浄影は断言したのである。

天子はカンカンになったが、そのまま下がってしまった。
その後、あの口答えをした坊主の名前を調べてこいと言っただけで
浄影には何のお咎めもなかった。
彼の活躍で当時の仏教界は護られた。

その彼がまとめたものが『大乗義章』である。
一種の仏教用語の辞典で、仏教の術語を知る上に
便利な書として有名だ。


善導大師⑧(智―天台宗)

2009年07月25日 | 七高僧
善導大師⑧(智―天台宗)

天台智(538年~597年)
天台宗の開祖
智は大変頭の良い人で智者大師とも呼ばれる。

親鸞聖人も教行信証の中で
「嗚呼、教観に明らかなること、
 だれか智者にしかんや」
と書いておられる。

天台智は、538年湖南省華蓉に生れた。
父の陳起祖は、梁の名門であり、
天台智は恵まれた幼年時代を過ごしていた。
智17歳の時、北朝の西魏が梁に進攻し、
梁は滅亡、実家の陳家はこれにより衰亡する。
その後まもなく両親が亡くなるなどして、
18歳で彼は出家し、大賢山で法華三部経を研究し、
二十三歳で大蘇山に赴き南岳慧思禅師に参じた。
南岳門下に七年。
30歳過ぎて、金陵(南京)の瓦官寺で8年間法華経や
大智度論や次第禅門を講義したという。
575年から天台山で天台教学を確立した。
(五時の教判)
589年隋が中国を統一、隋の煬帝に菩薩戒を授け、
そこで智者大師の号を与えられた。
『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』
の天台三大部を講義した。
晩年は天台山に隠棲、60歳の臨終にあたっては、
門弟に法華経と観無量寿経をよませ、
それを聞きながら、弥陀、観音の来迎を念じたという。

しかし、天台大師も臨終に弟子の智朗が
「師はいずれの位に居るや」
と尋ねると
「我れ衆を領せずば必ず六根清浄の位(10段目)に至らん。
されど、利他の為に己を損して
只、五品弟子位(9段目)あるのみ」
といって、
自分一人で修行に取り組んでおれば10段目まで悟れたが、
弟子の育成に時間を取られ、9段目までしかさとれなかったと
自ら告白して死んでいる。


善導大師⑦(多くの学者に注目された観無量寿経)

2009年07月24日 | 七高僧
善導大師⑦(多くの学者に注目された観無量寿経)

善導大師が説法に用いられた『観無量寿経』は
聖道門諸学者にも存在が注目され、
その解釈が流行となっていた。
なぜなら『観無量寿経』には、聖道諸宗からは
不可解極まることが説かれていたからである。

1:韋提希夫人という平凡な一女性が、
  阿弥陀如来のお姿を拝した一瞬に
  絶対の幸福に救われ、
  等正覚という五十一段目の高い位に
  入ったと説かれている。

2:巻末に、どんな悪人でも
  阿弥陀如来の本願を信じ、
  称名念仏すれば極楽に往生できる
  と教えられていること。

2点とも、当時の常識では到底理解できない。
わずかなさとりにも血のにじむ、難行が必要なのに、
韋提希夫人は一日として修行などしていないではないか。

また浄土往生には、必ず願と行が
具足しなければならぬのに、
極重悪人が称名念仏しても、
「阿弥陀さま。助けてください」と
繰り返すだけのことで願はあっても行がない。
唯願無行だから、救われるはずがないと考えた。

これらの疑問に、天台、浄影、嘉祥たちは
解釈を競い、それぞれの
『観無量寿経疏』を著した。
が、内容は三者とも酷似していた。
いずれも聖道仏教の立場あKら、
韋提希を過去世から修行を重ねてきた
権化の聖者と見たのである。

つまり、相当高いさとりを過去世に開いてしまった菩薩が、
この世で仮に韋提希という姿で現れたのだから、
容易に等正覚を得られたのだ、と解釈である。

また、念仏往生は、別時意趣と説明した。
別時意趣とは勇猛精進に努められぬ
怠惰な者への説法の仕方である。

たとえば、一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞ、
と言えば誰でも精進すうだろう。

しかし、一日一円ですぐ長者になれるのでなく、
「塵も積もれば山となる」と同じで、
大変な時間がかかるのである。

あからさまに言えば怠惰な者は近づかぬから、
あたかも即時に長者になれるように説法される。
これを別時意趣という。
称名念仏で直ちに助かるのではなく、
遠生の結縁(おんしょうのけちえん)となって、
いずれの時にか浮かぶ縁となる、
ということである。

ら三師の説はたちまち仏教界を風靡し
韋提希は権化の菩薩、
念仏往生は別時意趣の方便説、
と『観無量寿経疏』の真意は歪曲され、
凡夫往生の白道はまさに風前の灯となってしまった。

善導大師⑥(仏教が花咲いた唐)

2009年07月23日 | 七高僧
善導大師⑥(仏教が花咲いた唐)

唐の都、長安は三蔵法師玄奘を迎える大群衆の
歓呼の声にわいていた。
玄奘は膨大な数の経典を17年の長旅を経て、
インドから持ち帰ったのである。
早速、皇帝の支援を受けて翻訳作業が始まった。
玄奘が訳した千三百余巻の経典は
中国仏教発展の起爆剤となり、
唐の時代は未曾有の仏教文化の花を咲かせる。

加えて皇帝の手厚い仏教保護政策。
中国仏教界には一宗一派をも開く力量のある僧も現れ、
まさに全盛期を迎えていた。
天台宗を興した智、地論宗の浄影、三論宗の嘉祥らである。

その中、長安に着いた善導は、都の南方の終南山悟真寺を
住居とされ、布教を開始された。
長安市外の光明寺を道場とし、都の人々に阿弥陀如来の本願を
説き続けられたのである。


善導大師⑤(道綽禅師との出会い)

2009年07月22日 | 七高僧
善導大師⑤(道綽禅師との出会い)

善導大師が各地の名僧を訪ね歩くうちに、太原の近く、
石壁の玄忠寺に浄土門屈指の高僧、道綽禅師の
在すことを聞かれた。
「その方にお会いしたならば」と厳冬の寒風をおかして、
数千里、一路、玄忠寺に向かった。

ついに貞観十五年、善導29才の時、
すでに80才の老境にあった道綽禅師の門を訪ねられたのである。

善導の来訪を心から喜ばれた道綽禅師は、
自分の後継者たるべき若き善導に阿弥陀仏の本願と
『観無量寿経』の真意を説き切られた。

道綽禅師は
「『観無量寿経』の真精神は
『大無量寿経』を通してみて初めて分かる。
定善十三観の観仏三昧は捨てもの。
念仏三昧こそ一切三昧中の王であり、
『観無量寿経』を説かれた釈尊の真意はそこにある。
と、『大無量寿経』の重要性を説いた。

かくて善導大師は、道綽禅師の指南により、
長年の疑問が一度に氷解し、
『観無量寿経』の奥義を受得した。
大師は玄忠寺で、道綽禅師から
浄土門の真髄を学び続けられた。
そして四年後、禅師が八十四歳で浄土往生されると、
長安に旅立たれた。
善導大師33才のころである。

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善導大師④(観無量寿経との出会い)

2009年07月21日 | 七高僧
善導大師④(観無量寿経との出会い)

どこかに悪人の救われる道があるはずだ、
どこかに凡夫往生の道はないか、
必死の探求が続けられた。
やがて目にとまったのが、『観無量寿経』である。

『観無量寿経』とは、釈尊が晩年にインド王舎城の
牢獄に幽閉された韋提希夫人に
阿弥陀仏の本願を説き、
浄土往生の道を示されたものである。

「これだ!この経典こそ私の求めていたものだ」

「心想の散り乱れた凡夫の韋提希夫人が
 阿弥陀如来の見た一念大安心・大満足の
 絶対の幸福に救われたとあるではないか。
 ここにこそ私の助かる法があったのだ。」

小踊りして喜ばれた善導大師は、
早速、釈尊が『観無量寿経』に説かれている
定善十三観の修行に打ち込んでゆかれた。
第一は日想観。
心を静め、太陽が西に没する情景を心に思いながら、
阿弥陀仏とその浄土を念ずる修行である。
次は水想観。
清らかで波一つない水面を心に浮かべながら、
阿弥陀仏と浄土を念ずる。
このような修行方法が十三通り説かれている。
ところが、どれだけ経典通りに定善十三観の修行を励んでも
『観無量寿経』中に韋提希夫人が体験したような、
阿弥陀如来の絶対の救済にあずかることはできなった。

「ああ、自分はまだ到底、この経典の深意が体得できない。
これは然るべき名僧知識を求めなければならない」
こう決意した善導は一転して求法の旅に立ったのである。


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善導大師③(善ができるかどうかの煩悶)

2009年07月20日 | 七高僧
善導大師③(善ができるかどうかの煩悶)

善導大師の修行は峻烈を極め、煩悶は深まった。
それは、まことの善ができるのか、ということである。
欲や怒りの煩悩は、抑えようとすればするほど、渦を巻く。
そのまま外見だけ身を慎んで修行しても、
修めた善には必ず汚い毒が混じってしまう。
物を施せば心中にお礼や見返りを求める心がやまない。
修行に専念すればするほど、
「私ほど厳しい修行のできる者はないだろう」と
いう自惚れ心がわいてくる。

「ああ、私の為す善はすべて猛毒に汚されている。
今まで、頭髪にかかった火の粉を払うほど真剣に、
昼夜十二時、心身を励まして善に向かってきたが、
すべては雑毒の善であった。
心にまことの伴わぬ虚仮不実の行でしかなかった。

こんな善を修めても、万が一にも生死の一大事、
解決できるはずはない。
上根の聖者を対象とした『法華経』の教えでは、
到底、自分のような者はすくわれぬ。

絶望の深淵に立たされたのであった。

しかし、善導は
「仏の経法は深広にして涯底なしと聞く。
それならば、私のような悪性さらに止め難い
罪悪生死の凡夫といえども、
釈尊の大悲はどこかに救いの道を説かれているはずだ」
と、すがるような思いで、経蔵に引きこもって
一切経を一巻一巻、ひもといていったのである。

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善導大師②(30年寝処なし)

2009年07月19日 | 七高僧
善導大師②(30年寝処なし)

618年、隋が滅亡し、唐の建国により、
ようやく長い戦火が収まった。
しかし、国中は荒れ果て、戦災で家を焼かれた群衆は
路上をさまよい歩いていた。
こうした世の乱れは幼い善導に平和な世界をあこがれさせ、
母親と寺院で見た浄らかな極楽の絵は、
その心を一層固いものにしたのである。

やがて三論宗の学匠、明勝法師について出家し、
『法華経』や『維摩経』の研鑚を重ねてゆかれた。

大師の修行の厳しさを伝記は
「三十余年、別の寝処なし」と記している。
三十余年間、布団を敷いて休まれなかった
ということである。
夜更けまで経典の勉強が続き、
そのまま机に伏すようにして休まれた。

また、「曽て目を挙げて女人を視ず」ともある。
淫らな心の生じないように、
一切、女性を見られなかったのだ。

しかし、厳格な戒律のもと、
『法華経』に従って自力修善に向かえば向かうほど、
深刻な悩みに突き当たるようになる。

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善導大師①(善導独明仏正意)

2009年07月18日 | 七高僧
善導大師①(善導独明仏正意)

善導大師といえば『観無量寿経疏』
それまでの浄土教の『観無量寿経』の
注釈を一新した書である。

日本においては、浄土宗の開祖法然上人は、
「偏依善導」(偏に善導に依る)と師事し、
この書を重用した。

親鸞聖人は『正信偈』で
「善導独明仏正意」と、一段と声を高め、
絶賛なさっている。

善導大師はまさしく親鸞聖人が、
「大心海より、化してこそ、
善導和尚とおわしけれ」
極楽から現れた方に違いないと称賛される
大活躍をせられて、69才で生涯を
閉じられたのである。

善導大師が活躍された時代は、
各宗に高徳名僧を輩出したといわれる
中国仏教の全盛期であった。

ところが、親鸞聖人は、僧侶のあまた出現した、
当時の中国仏教界で
善導大師ただ独り、阿弥陀仏の御心を
明かにされたと仰せなのだ。

善導大師は、中国が隋と言われた613年、
現在の山東省に生まれられた。
1300年前、聖徳太子が推古天皇の摂政として
活躍しておられたことである。

善導大師の生まれた時代の隋の政治は腐敗し、
内乱が相次いだ。
善導は社会不安と戦乱を身ながら成長したのである。

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