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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

法然上人⑫-3(69才、親鸞聖人の獲信)

2009年10月10日 | 七高僧
法然上人⑫-3(69才、親鸞聖人の獲信)

法然上人に出会われた親鸞聖人はそれから
雨の日も、風の日も、火のつくような
聞法求道が、始まった。

親鸞聖人 「上人様。今日は、何が何でも、ここひとつ、解決のい
    くまで、お聞かせ下さい。お願いでございます」

法然上人 「そうか。それでは、そなたの今の胸の内を、話してみ
    なされ」

親鸞聖人 「はい。私は、比叡山も、二十年の仏道修行も、捨てま
    した。京の町を、夢遊病者のように、後生の一大事一つ、
    解決できる教えはないかと、さまよい歩きました。そして
    上人様にめぐりあい、心の底より、救われた思いがいたし
    ました。けれども、阿弥陀仏の一声で、晴れて満足できる
    と仰せられますが、聞いても聞いても、その一声が聞けま
    せん。親鸞の心は、晴れません」
    仏法聞いている時も、思ってはならないことが思われ
    考えてはならないことが、浮かびます。一向専念無量寿仏
    どころか、雲の如く、疑いが沸き上がってまいります。
    こんな心のままで、臨終を迎えるのか、と思うと、ただ
    恐ろしいばかりでございます」

法然上人 「親鸞よ。形の上で、捨てたつもりでは、ダメじゃ。
    無始より迷わせ続けた自力我慢の親玉は、そんな生ぬるい
    聞き方では、聞かないぞ」

親鸞聖人 「上人様。よくよく胸の内を見ますと、十年前も、上人
    様にお会いした時も、今も、心は煩悩と疑いでいっぱい。
    少しの変化もありません。こんな心が、いつまで続くのか
    と思うと、胸が張り裂けるようでございます」

法然上人 「親鸞よ。そのまま、恐ろしい罪を抱えて、地獄へまっ
    逆さまだ。このように、話しているうちにも、無常の殺鬼
    が迫っているではないか。まだ、わからんのか」

親鸞聖人 「上人様。長年の学問、修行も、後生の一大事には、何
    の役にも立ちません。それどころか、親鸞、今はもう、聞
    く心もございません。ただ、煩悩と疑いいっぱいで、阿弥
    陀仏の御声(みこえ)が、聞けません」

法然上人 「自惚れるな。そなたの心は、阿弥陀仏の御声が聞ける
    殊勝な心か」

親鸞聖人 「親鸞の心は、ただ暗い、それだけでございます。暗さ
    もわからぬ、真っ暗がりでございます。お助け下さい、上人様」

法然上人 「親鸞よ。そなたには、まことを聞く耳はないのだ。
    それが、そなたの、まことの姿なのじゃ。
     一切の自力の心を捨てよ。
     すべてのはからいを捨てよ。
     捨てようとする心も捨てよ」

『いずれの行も、及び難き親鸞、地獄は一定、すみかぞかし』
『弥陀五劫思惟の願は、ひとえに親鸞、一人がためなり』

親鸞聖人 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
    あー、不思議なるかなや、不思議なるかなや。
     弥陀五劫思惟の願は、親鸞一人がためなり。
    あー、多生にも値(あ)い難い本願力に、今値(あ)
    えたり。億劫にも獲難き、真実の信心を、今獲たり。
    本願まことだった。まことだった。
    南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

親鸞聖人 「聖人様、有り難うございました」

法然上人 「よく聞き抜かれた、親鸞殿。
    南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

建仁元年、法然上人69歳、親鸞聖人29才の御時であった。
かくて信心決定なされた親鸞聖人は、法然上人のお弟子となり、
弘長二年、九十才でお亡くなりになるまで、
全人類の救われるただ一本の道、弥陀の本願を、
『如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、
師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし』
と、叫び続けられるのであった。

法然上人⑫-2(69才、法然上人と親鸞聖人の出会い)

2009年10月09日 | 七高僧
法然上人⑫-2(69才、法然上人と親鸞聖人の出会い)

吉水の草庵での法然上人の説法

法然上人 「釈尊が、この世に、おでましになったのは、阿弥陀仏
    の本願一つを、説かんがためでありました。この法然も、
    弥陀の本願によって、救われたのです。十三才で出家して
    より、二十七年間、比叡での難行・苦行も、京都・奈良で
    学んだ、華厳・法相(ほっそう)などの学問も、この法然
    の後生の一大事の解決には、なりませんでした」
    泣く泣く山を下りました。黒谷で、七千余巻の、釈尊
    の説かれた経典をひもどくこと五回。法然のような者でも
    助かる道がなかろうかと、探し求めました。
     そして、ついに、私一人を助けんが為の、阿弥陀仏のご
    念力が、届いた一念に、法然の暗黒の魂が、光明輝く心に
    救いとられたのです」
    その不思議、その驚き、尊さは、心も、言葉も絶えは
    てて、ただ、泣くだけでした。まことに、みなの人、一日
    も早く、阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。いかなる
    智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、救われるの
    です。よくよく聞いて下さい。」


親鸞聖人 「初めてお目にかかります。親鸞と申します」

法然上人 「親鸞殿か。よく来られました」

親鸞聖人 「上人様。私は、二十年、叡山で求めて参りましたが、
    未だに、後生の一大事、解決はなりません。欲や、怒りや
    愚痴いっぱいの親鸞、救われる道がありましょうか」

法然上人 「ああ、親鸞殿。あなたは、二十年か。この法然は、二
    十七年、お山で苦しみました。だが、法華経ではダメでし
    た。阿弥陀仏の本願は、僧侶も、在家の人も、男も女も、
    どんな極悪人でも、必ず救うと、誓っておられる。この、
    阿弥陀仏の本願を、真剣に、聞きなされ。必ず、晴れて、
    満足できる世界があります」

親鸞聖人 「ご教導、よろしくお願い申します」


法然上人⑫(69才、親鸞聖人がお弟子となる)

2009年10月08日 | 七高僧
法然上人⑫(69才、親鸞聖人がお弟子となる)

法然上人が69歳の御時の、
親鸞聖人は40歳違いの29歳であった。

親鸞聖人が比叡山での修行に見切りをつけられ、
京の町を、さまよっておられた。
親鸞聖人が四条大橋のぐったりと、欄干にもたれ、
川の流れを見下ろしておられた時、
かっての比叡山での法友、聖覚法印と
会われたのである。

聖覚「おや、親鸞殿ではござらぬか」

親鸞聖人 「おお、あなたは、聖覚法院様では・・・」

聖覚   「やっぱり、親鸞殿であったか。いやー、久しぶりです
    なあ」
親鸞聖人 「あなたが、山を下りられたことは、聞いてはおりまし
    たが、お元気そうでなによりです」

聖覚   「有り難うございます。親鸞殿、少々、お顔の色が、す
    ぐれられないようだが」

親鸞聖人 「はい。聖覚殿。肉体は、どこも悪くはありませんが、
    親鸞、心の病気で、苦しんでおります。聖覚殿、あなたは
    この魂の解決、どうなさいましたか」

聖覚   「親鸞殿、私も長い間、苦しみました。山を下りて、ど
    こかに救われる道がなかろうかと、狂い回りました。そし
    て、吉水の法然上人に、お会いすることができたのです」

親鸞聖人 「法然上人?」

聖覚   「そうです。その法然上人から、教えを頂き、阿弥陀仏
    の本願によって、救われたのです。釈尊は、末法の今日、
    天台や真言などの、自力の仏教では、一人も助からない。
    ただ、阿弥陀仏の本願によってのみ、救われるのだと、明
    言しておられます」

親鸞聖人 「阿弥陀仏の本願・・・」

聖覚   「はい。阿弥陀仏の本願によってです。阿弥陀仏は、男
    も、女も、かしこい人も、愚かな人も、必ず、絶対の幸福
    に救いとると、誓っておられます。だからこそ、私のよう
    な、罪深い者も、救われたのです。私ほどの幸せ者はあり
    ません」

聖覚   「親鸞殿。あなたのその苦しみは、必ず解決できます。
    ぜひ、法然上人に、お会いして下さい」

親鸞聖人 「聖覚殿。ぜひ、法然上人のもとへ、お連れ下さい」

聖覚   「いいですとも。さあ、行きましょう」

法然上人⑪(排他と真実の慈悲)

2009年10月07日 | 七高僧
法然上人⑪(排他と真実の慈悲)

昔、明遍という真言宗の僧がいた。
法然上人の『選択本願念仏集』を読み、
成程、法然の言うことも尊い所があるが、
一切の聖道仏教を捨てゝ、
阿弥陀仏の本願に帰せよとは何事か。
聖道仏教だって、釈尊の説かれた法ではないか。
それを、
「聖道仏教では、千人のうち一人も助からない。
 阿弥陀仏の本願のみが、われらの助かる道なのだ」
とは、余りにも偏執であり、排他的ではないか。

法然は排他的で、喧嘩腰で、頑固で、
量見のせまい坊主だ、とののしっていた。

ところが、ある晩、明遍は夢をみた。
天王寺の西大門に憐れな病人が沢山集まっていた。
その中に実に懐かしい面ざしをした墨染の衣と袈裟をつけた
一人の聖者が、鉄鉢の中に重湯を入れて、
小さな貝でそれをすくいながら、
病人の口に一人づつ入れてやっている。
親にも兄弟にも妻子にも、見捨てられた憐れな癩病患者を、
たった一人の僧が看護しながら、静かに病人を拝んでいる。
そしてその看護のしぶりが、実に親切であり懇切である。

夢中で明遍は何という貴い人だろう。
末法にも、こうした人があったのか、と傍の人に尋ねた。
「あの方こそ、吉水の法然上人である」
という声を聞いて、びっくりした時に夢さめたという。

法然上人は高慢で、排他的だと思っていたのは、
大変間違いであった。
あんな病人に御飯を喰べよと言ったって無理なのだ。
あの病状では、どんな滋養になるものが、
どんなに沢山あっても何にもならない、
喰べられるものは一つもない。

彼らの糧は重湯より外にないのだ。
重湯こそ、あの病人が生命をつなぐ
唯一の糧であることが判った。

一如法界を開けば、八万の法蔵はあれども、
我ら凡夫には無きに等しい高嶺の花でしかない。
末法の我々の救われる道は、
弥陀の本願以外にはないことを知らされ、
深く懺悔して法然上人の弟子になっている。

法然上人⑩-2(65才 選択本願念仏集と教行信証)

2009年10月06日 | 七高僧
法然上人⑩-2(65才 選択本願念仏集と教行信証)

色々な『選択集』の解説書がでたが、
親鸞聖人の『教行信証』によって、初めて法然上人の
御意が明かになったのである。

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、
 雑行を棄てて本願に帰す。
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて
 『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、
 「選択本願念仏集」の内題の字、
 ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と
「釈 釈空」の字と、空の真筆をもって、
 これを書かしめたまひき。
 --乃至--、
 『選択本願念仏集』は、
 禅定博陸 月輪殿兼実、法名円照 
 の教命によりて選集せしめるところなり。
 真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。
 見るもの諭り易し。
 まことにこれ
 希有最勝の華文、
 無上甚深の宝典なり。
 --乃至--
 慶ばしいかな、
 心を弘誓の仏地に樹て、
 念を難思の法海に流す。
 深く如来の矜哀を知りて、
 まことに師教の恩厚を仰ぐ。
 慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
 これによりて、真宗の詮を鈔し、
 浄土の要をえらぶ。
 ただ仏恩の深きことを念うて、
 人倫の嘲りを恥ぢず。
 もしこの書を見聞せんもの、
 信順を因とし、疑謗を縁として、
 信楽を願力に彰し、
 妙果を安養に顕さんと。」
(教行信証後序)


法然上人⑩(65才 選択本願念仏集・捨閉閣抛)

2009年10月05日 | 七高僧
法然上人⑩(65才 選択本願念仏集・捨閉閣抛)

『選択本願念仏集』は、建久9年(1198年)、
関白九条兼実の要請によって、
法然が撰述された2巻16章の論文である。
一般には『選択集』と略称される。

浄土三部経の経文を引用し、
それに対する善導大師の解釈を引き、
さらに法然上人御自身の考えを述べている。

末法においては称名念仏だけが相応の教えであり、
聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、
雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべきと説いている。
それまでの観想念仏を排して
阿弥陀仏の本願を称名念仏に集約することで、
仏教を民衆に開放することとなり、
浄土教の歴史の中で画期的な意義を持つ聖教である。

1212年に刊行されると、
高名な仏教学者の(特に善導大師)の書を引用し、
弥陀の本願の救いを説いた書である。
確固たる学問的な根拠を示して、
弥陀の本願によらなければ絶対に救われないから、
聖道仏教はさしおいて、浄土仏教へ入れ、
と徹底して教える「選択集」は、
仏教界に水爆級の衝撃を与えた。

『選択本願念仏集』には聖道門の
「捨閉閣抛」(しゃへいかくほう)が
始終一貫、説かれてあった。

捨=捨てよ。
閉=閉じよ。
閣=さしおけよ。
抛=なげうてよ。  

華厳宗の明恵は生前の法然上人を
高徳な人格だと尊敬していたが、
法然上人の死後
「選択集」を読んで激怒し、
すぐさま『摧邪輪』三巻で反論した。
これを皮切りに反論書が次々出されたが、
擁護する書も後を絶たず、激しい応酬となった。
当時の仏教界は『選択集』を中心に動いていた。

法然上人⑨―3(53才 大原問答)

2009年10月04日 | 七高僧
法然上人⑨―3(53才 大原問答)

法然上人は一切経を丸暗記されている
お方である。

「『賢劫経』や『大集経』には、
 釈尊入滅後、500年間を正法の時機とし、
 その後1000年を像法の時機、
 像法後1万年を末法の時機、と説かれる。
 像法の時機には、さとりをうる者はひとりもなく、
 末法には教えのとおり修行する者さえ
 いなくなると、経典にある。
 すでに現在は末法。自力の修行では、
 成仏得道の道は断たれている。」

天台座主が言葉を発する。
「末法だから助からぬというなら、
 浄土門も同じではないか」

法然上人はここぞとばかり真実開顕される。
「いや、お釈迦さまは、『大無量寿経』に、
 『当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもって哀愍し、
 特にこの経を留めて止住すること百歳せん』
 と明言しておられる。
 これは、『法華経』など一切の経典が滅尽する、
 末法・法滅の時機が来ても、
 阿弥陀仏の本願が説かれる『大無量寿経』だけは
 永遠に残って、一切の衆生を幸福に導く、ということだ。
 だから、『大集経』にも、
 『当今は末法にしてこれ、五濁悪世なり、ただ
 浄土の一門有りて通入すべき路なり』
 と説かれている。」

聖道仏教の者達はどう対処していいか。
苦し紛れに、
「…だが、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に
 向くなとは、言いすぎではないのか」

法然上人はここぞとばかり釈尊の御金言を説き切られる。
「一向専念無量寿仏、と『大無量寿経』にあるように、
 これはお釈迦さまの至上命令なのだ。
 決して法然が勝手に言っているのではない。」

各宗の代表が次々に登壇し、問答は一昼夜に及んだが、
法然上人はいかなる難問にも、
経典の根拠を挙げて、よどみなく答え、
すべての学者をことごとく論破した。

論議は一日一夜に及んだが、ついに法然上人に
軍配があがった。
法然上人の言葉に納得し、
高徳に打たれて満座の聴衆は、
声高に念仏を称え、その声は三日三晩、
大原の山々に響いたと伝えられている。


法然上人⑨-2(53才 大原問答)

2009年10月03日 | 七高僧
法然上人⑨-2(53才 大原問答)

勝林寺には漆塗りの問答台が左右に一対、
対峙している。
法然上人がその一方に上がる。

天台座主が、口火を切る。
「浄土門が、聖道門より優れているとは、
 どういうことか」

すかさず法然上人は
「お釈迦さまの教えに優劣はないが、
 仏教はなんのために説かれたか。
 衆生の迷いを転じて、仏のさとりに至らすため。
 衆生を救う点において、浄土門のほうが優れている。
 
 聖道門は、人を選ぶではないか。
 経典を学ぶ知恵のない者、
 修行に耐える精神力のない者は求められぬ。
 欲や怒りのおさまらぬ者は、
 救われないということではないか。

 自力聖道の教えでは、戒、定、慧の三学の修行、すなわち、
 煩悩をおさえ、煩悩をさえぎり、煩悩を断つ修行を
 長期間積まねば仏に成れぬと説かれている。
 
 さらに厳しい戒律が、男に250、女に500ある。
 いったい、完全に実行できる人はどれだけあるのか。
 ほとんどの大衆は救われないではないか。

 しかし、浄土の法門はちがう。
 欲の止まぬ者も怒りの起こる者も、
 愚者でも智者でも、悪人でも女人でも
 侍でも農民でも商人でも職人でも乞食でも、
 全く差別がない。
 平等に救われるのだ。

 なぜならば、阿弥陀如来が、すべての人を必ず救う、
 と誓っておられる。
 しかも、末法の今日、聖道門の教えで救われる人は
 一人もいないとお釈迦さまはおっしゃっている。」

天台座主が言葉を失い、高野山の明遍が根拠を求める。

法然上人は5回一切経を読破しておられる。
淀みなく経典の根拠をあげられた。


法然上人⑨(53才 大原問答)

2009年10月02日 | 七高僧
法然上人⑨(53才 大原問答)

当時、法然上人は智慧第一、勢至菩薩の化身と
尊崇されていた。
とりわけ法然上人の名をとどろかせたのが、
1186年法然上人53歳の時、大原勝林院で行われた
大原問答である。

法然上人には多くの帰依者があり、
天台宗や法相宗の学者たちも
その存在を無視できなくなってきた。
しかし、相手は一切経を丸暗記しておられる
智恵第一の法然上人である。
各宗派の僧侶は分担を決め、
法然上人に相対した。

法然上人は
「これほど真実開顕の絶好の機会はないではないか。
と、身の周りの世話をする数人のお弟子を伴われ
大原と向かわれたのである。

大原での法論は聖道門各宗派380余人、
主に天台座主顕真と法然上人との間で、
浄土教の念仏により極楽往生できるかどうか
行われた問答であった。

京都吉水の法然上人。
日増しに参詣者が増えることが、各宗のねたみの的になり、
洛北・大原の勝林院で、各宗の代表380余人と
法然上人の法論がなされることになった。
寺の周囲には2000人余りの僧侶も
集まってきていた。

法論の途中、お師匠様の身を案じた熊谷次郎直実が
乗り込んできた。
直実は法然上人より蓮生房の法名を頂いていた。
直実といえば泣く子も黙るといわれた
源氏の旗頭であった男である。
「お師匠様に指一本でも触れた者にはこの熊谷、
ただではおかぬぞ」と
大声をあげた。
法然上人がすかさず
「これ蓮生房、控えおろう」と
叱りつけられる。
と、あの熊のような大男が
頭を地べたに押し付けながら、
部屋から退出したのである。
その光景を見て、また大衆が驚いた
というエピソードも残っている。


法然上人⑧(観無量寿経疏により本願に帰依)

2009年10月01日 | 七高僧
法然上人⑧(観無量寿経疏により本願に帰依)

善導大師の書かれた『観無量寿経疏』
そこに書かれてあったのが、次のご文であった。

「一心に専ら弥陀の名号を念じて、
 行・住・坐・臥 時節の久近を問わず、
 念々に捨てざる者、これを正定の業と名く、
 彼の仏願に順ずるが故に。」

この文章を読まれた一念に法然上人は、
弥陀に救い摂られたのであった。

「ここにあった!弥陀如来の本願こそ、
 愚痴と十悪の法然の救われる唯一無二の道だった。
 ああ、それにしても、極重の悪人、
 地獄しか行き場のない極悪最下の法然を
 救いたもうたとは、広大無辺な弥陀大悲の
 かたじけなさよ」

懺悔と歓喜で涙にくれ、
『観無量寿経疏』を手に高々と報恩感謝の念仏を
称えられた法然上人。
当時の記録は、「高声念仏」と伝えている。

時に承安五年、法然上人四十三才の御時であった。

絶対の幸福になられた法然上人は、
それ以来、京都吉水の禅房に移り、
万人の救われる阿弥陀如来の本願を
末法濁乱の世に力強く説き続けられたのである。