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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

法然上人⑦(法然上人の煩悶)

2009年09月30日 | 七高僧
法然上人⑦(法然上人の煩悶)

一切経を幾度も読んでゆかれる法然上人。
しかし、一向に魂の解決の道が分らない。

この時の源空上人の煩悶する姿を、
ある書物は述懐として次のように伝えている。

「また、凡夫の心は物にしたがいてうつりやすし、
 たとえば猿の枝につたうがごとし。
 まころに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。
 いかでか悪業煩悩のきずなをたたんや。
 悪業煩悩のきずなをたたずば、
 なんぞ生死繋縛(しょうじけばく)の身を
 解脱(げだつ)することをえんや。
 かなしきかな、かなしきかな。
 いかがせんいかがせん。
 ここに我達ごときはすでに
 戒(煩悩をさえぎり)
 定(煩悩を抑え)
 慧(煩悩をたちきる聖道門の修行)
 の三学の器にあらず。
 この三学のほかに我が心に相応する法門ありや」

三度目、四度目と、想像を絶する持久力で
一切経読破の作業が続けられたが、
迫り来る無常を思えば、
「今、このまま死ねば、必ず無間地獄真っ逆様だ。
 いかがせん、いかがせん」

あふれる涙は頬を伝わり、経典の上に滴り落ちる。
涙に濡れた経典を惰性のように
読み始めた五回目の中ほど、
中国の善導大師の書かれた『観無量寿経疏』に、
大変な一文を発見されたのであった。




法然上人⑥(一切経を何度も読破)

2009年09月29日 | 七高僧
法然上人⑥(一切経を何度も読破)

黒谷の報恩蔵で法然上人は尋常でない決意をした。
すなわち、一切経の中に自己の救われる道を知るまでは
死を賭しても、この報恩蔵を出ない、という覚悟である。

それ以来、来る日もくる日も経典をひもとかれた。
七千余巻の一切経である。
それを一通り読むというだけでも大変な作業だ。

手にされる一巻の経典に、
「この中にこそ」と自己の救いの道をきたいして読み始め、
失望とともに一巻を閉じ、次の経典をひもとく。

このようにして一切経を一通り読まれた。
しかし、どこにも自分の助かる道は説かれていない。
目の前が真っ暗になる思いDあった。
やはり自分のような者の助かる道はないのか。
いやそんな筈はない。
読み落としたに違いない。
どこかに説かれているに違いない。
再び一切経を最初から読み返そうと決心されたのであった。

「今、こうしている愛だみの無常は念々に迫ってくる。
 今死んだらどうなるのだ。
 いまだ救いの道は体得できていないではないか。」

厳しく自己に言い聞かせ、膨大な一切経を再度、読み始められた。
ところが、二度目の一切経の読破でも救われなかった。




法然上人⑤(40才、魂の解決を求めて報恩蔵へ)

2009年09月28日 | 七高僧
法然上人⑤(40才、魂の解決を求めて報恩蔵へ)

法然上人が四十歳を迎えたころ、
比叡山には肩を並べる者がない学識を
備えるに至った。
比叡山天台宗の座主になられたのである。
名実もとに日本一の僧侶となられた。

「ついて、父上の遺言を果たした」
と満足したのも束の間、
厳しく、内心に目を向けたとき、
いまださとりがえられず、今にも死が来たならば、
必ず無間地獄に堕つる暗い心しかなかったのである。

釈尊が仏法を説かれた目的は、
後生の一大事の解決である。
いくら名声や地位が得られても、
後生の一大事を解決していなければ、
迷いの衆生であり、
真の日本一の僧侶とは言えない。

そこに気づいた法然上人は、
一切の地位を投げ捨てても、
魂の一大事の解決を求めずにはおれなかった。

墨染めの衣で向かわれたのは、黒谷である。
黒谷の報恩蔵には当時、釈尊の一切経が
所蔵されていた。
源空は、天台宗を含めて、
それまで学んだいずれの宗派の教義を
もってしても救われ難い自己の姿を
すでに知らされていた。
「善をなそうとしても善のカケラもなし得ず、
 悪をやめようとしても悪を造らずしては
 寸刻も生きてゆけない、
 そのような自分が廃悪修善を基調とする
 聖道門の教えで助かるはずがない。
 しかし、釈尊はこのような者を救う道を
 必ず説いておられる筈である。
 そんな教えが一切経のどこかにあるに違いない。」
法然上人はそう考えていた。

その教えを知るためにこそ黒谷の報恩蔵へ来たのである。

法然上人④(叡空から破門される)

2009年09月27日 | 七高僧
法然上人④(叡空から破門される)

比叡山には叡空以上の学者はいなかった。

ある時、叡空が『観無量寿経』の講義の際、
「光明・照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と
念仏が説かれたが、この念仏が叡空は観念の念仏と
教えているのを聞かれて法然上人は
称名念仏ではないのですかと尋ねられた。

法然上人の言われることが正しく、
叡空は自分の誤りに気付き、反論することが
できなくなった。
「これは観念の念仏でいいのだ」
「しかし、それではお釈迦様の教えの真意を
 曲げることになるのでは」
「まだ言うか」

叡空は誤りを認め改めるどころか、
逆にその場にあった茶碗を投げつけ、
法然上人を破門している。

比叡の山にもう法然上人を指導できる知識は
おらなくなり、一人での勉学、修行が始まった。



法然上人③(勢至丸の出家)

2009年09月26日 | 七高僧
法然上人③(勢至丸の出家)

勢至丸が最初に師と仰いだのは、
近隣の菩提寺の住職であった。

住職は幼い勢至丸の並外れた聡明さに舌をまいた。
一を聞いて十を知り、十を聞いて百を知る。
さらに、聞いたことは二度と忘れなかった。

やがて住職は、これほどに智恵勝れた勢至丸を
このような片田舎で埋もれさせるのは
いかにも惜しいと、比叡山行きを勧めた。

当時は、天台宗比叡山と真言宗高野山が、
二大聖地として仏教界に君臨していた。
天下の俊秀がこれらの山に結集していたのである。

勧めに従って
勢至丸は、比叡入山を決意した。

その時、菩提寺の住職は、
叡山の僧侶あてに送り状をしたため、
文中、「ここに文殊の像一体を進呈する」と
書いている。
比叡山の僧は、送り状を見て、どこに文殊の像があるか、
と一時思ったが、やがて文殊の像とは勢至丸自身の
ことであることと悟った。

これだけでも住職が、如何に勢至丸の
天才を認めていたかが分かる。

勢至丸は初め源光上人に師事。
15歳の時に同じく比叡山の皇円の下で得度。
比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と改め、
以来ひらすら日本一の僧を目指して
切磋琢磨の年月を重ねた。

やがて水を得た魚のごとく、
学問はいよいよ深まり、
単に天台宗のみならず、八家九宗といわれた
諸宗の教義にもことごとく精通した。
しかし、師の叡空すら法然上人が真の知識と
仰ぐには至らなかった。



法然上人②(父の遺言)

2009年09月25日 | 七高僧
法然上人②(父の遺言)

法然上人は長承二年(1133年)に
美作国(今の岡山県)稲岡庄の武士、
漆間時国(うるまときくに)の子として生まれられた。

幼名は勢至丸と名づけられたが、
それは阿弥陀仏の脇士の二菩薩、
観音菩薩(慈悲の象徴)
勢至菩薩(智慧の象徴)
のうちの勢至菩薩から
名づけられたものであった。

勢至丸はその名のごとく、
幼少のころより極めて賢い子供で
あったと伝えられていた。

勢至丸9才の時、その生涯を
決する大事件が起こった。
このころ、時国の所領にほど近い所に、
源定明(みなもとのさだあき)
という武者があった。
ふとしたことから時国に大層の恨みを抱き、
ある夜半、大勢の手下とともに、
時国の館を襲ったのだ。

不意の出来事に時国は一人、奮戦したが、
何といっても多勢に無勢、
たちまち斬り伏せられてしまった。
騒ぎに目を覚ました勢至丸が
時国の寝所に行ってみると、
既に賊どもの姿はなく、
体の各所に致命傷を受けた時国が
虫の息で横たわっていたのである。

「おとうさん、さぞかし無念でございましょう。
武士が互いに一騎討ちをして
武芸つたなく敗れたのであればともかく、
 寝首をかきに来るとは何たる卑怯な賊どもでしょう。
 しかし、お父さん、
敵は勢至丸が成長した暁には
 必ず取ってご覧に入れます。」
勢至丸はけなげに、臨終の父に敵討ちを誓った。

聞いた時国、
「勢至丸よ、敵討ちの志は嬉しいが、
 それは父の望むところではない。
 私の死は、私自身の前世の業縁によるのだ。
 もし、そなたの敵討ちが成就したとしても、
 敵の子は次に、そなたを敵と狙って、
 幾世代にもわたり、争いは絶えないであろう。
 愚かなことだ。
 もし、父のことを思ってくれるのなら、
 出家して日本一の僧侶となり、
 父の菩提を弔ってくれ。
 これがそなたへの最後の望みだ」
と言いつつ息絶えた。

時国の遺言は勢至丸の心の中に深く刻み込まれた。
勢至丸はそれに従い、出家を決意する。



法然上人①(本師源空)

2009年09月24日 | 七高僧
法然上人①(本師源空)

法然上人は親鸞聖人を
阿弥陀仏の救いに導かれた
直接の善知識である。

だからこそ親鸞聖人はご和讃に
「本師源空いまさずば、
 この度空しく過ぎなまし」

もし、法然上人がおられなかったら、
今度もまた、苦から苦、闇から闇へ、
流転を重ねるところだった。
あぶないところを、法然上人によって
助けられた、と告白されたのである。

親鸞聖人の法然上人に対する思いは
世人には想像もつかない。

歎異鈔には
「たとい法然上人にすかされまいらせて、
 念仏して地獄に堕ちたりとも、
 更に後悔すべからず」(第二章)
と、法然上人になら騙されて
地獄へ堕ちても後悔はしないとまで
仰言っている。

このような信じ方が誰ができるだろうか。

信ずるということは騙されないと信ずるので
騙されても後悔しない信じ方なで
世間ではありえないからだ。

「騙されても後悔しない」と信じているならば
怒りは生じない。
だが、このような信じ方は、常識では不可能である。
絶対に裏切られることのない、
弥陀の救いにあわれた親鸞聖人だからこそ
できたことだろう。

親鸞聖人が、それ程まで尊敬された
法然上人とは、一体どんなお方であったのか。


源信僧都⑪-4(仏法聞き難し 今已に聞く)

2009年09月23日 | 七高僧
源信僧都⑪-4(仏法聞き難し 今已に聞く)

受け難い人身を受けたということは、
人間界に出なければ果せない重大な問題がある
ということなのだ。
人間には大切な聖使命があって、
それを達成する為に生れ来たということ。

その唯一の聖使命とは、
真実の仏法、阿弥陀仏の本願を聞信し、
魂の解決をするということ以外はない。
これを仏教では信心決定という。

しかもこのようなことは何億年に一度しか
めぐって来ない絶好のチャンス。
かくて、仏法を聞き絶対の幸福を獲得した時こそ、
人間に生れた本当の有難さ、尊さが判る。

仏法を聞き開かぬ限り人間に生れた喜びなど
絶対に判るものではない。

以上のことを釈尊は
「人身受け難し、今すでに受く。
 仏法聞き難し、今すでに聞く。
 この身、今生に向かって度せずんば、
 さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」
と仰言っていられるのだ。




源信僧都⑪-3(人身受け難し 今已に受く)

2009年09月22日 | 七高僧
源信僧都⑪-3(人身受け難し 今已に受く)

私達は日常、有難いというが、
あることがまれだということから
出た言葉なのだ。

これは科学的に考えても肯ける。
人間死ねば焼かれて空気になり灰になる。
この場合、心というものを一応除外して考えても、
人間を造っていた空気は宇宙全体に飛散する。
空気には境界はないからだ。
また、灰になったものは、
そこらあたりの地上に積って土となるだろう。
土には植物が生えることもあろうし、
長い間には堅い岩石にもなるだろう。
それが雨や風によって運ばれて川や湖や海に
洗い流されて沈積する。
そして人間を造っていた空気や灰が
再び集合して一個の人間に生れるまでの困難さ、
有難さを考えても判るだろう。

『涅槃経』には
「地獄に堕ちるものは十方世界の土の如く、
 人間に生れるものは爪の上の土の如し」
とも説かれている。




源信僧都⑪-2(なぜ人間に生れたことが有難いのか)

2009年09月21日 | 七高僧
源信僧都⑪-2(なぜ人間に生れたことが有難いのか)

人間に生れたことを喜べと教えられても
喜ぶどころか産んだ親をうらむことさえある。
こんなことではいけないと思いながら
喜ぶことができない。
なぜ人間に生れたことが有難いのか。
人類にとって永遠の課題である。

それに答えられたのが源信僧都の
横川法語である。

自殺するのは、生きる喜びのない人達の
することだ。
しかし殆どの人は真面目に考えれば
自殺する人と同じ気持ちになる。

仏教では人間に生れたことは大変有難いことだから
喜ばねばならないと説かれている。

『雑阿含経』の中には有名な
盲亀浮木の譬喩がある。
或る時、釈尊が
「たとえば大海の底に一匹の盲亀がいて
 百年に一度、波の上に浮び上がるのだ。
 ところがその海に一本の浮木が流れていて、
 その木の真中に一つの穴がある。
 百年に一度浮ぶこの亀が、
 丁度この浮木の穴から頭を出すことが
 一度でもあるだろうか」
と尋ねられた。
阿難という弟子は
「そんなことは殆ど考えられません」
と答えると、釈尊は
「誰でも、そんなことは全くあり得ないと
 思うだろう。
 しかし、全くないとは言い切れぬ。
 人間に生れるということは、
 今の喩よりも更にあり得ぬ難いことなのだ」
と仰言っている。