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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士② 自分は正しいが相手を怒らせる)

2011年06月06日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士② 自分は正しいが相手を怒らせる)

「自分は正しい」
という思いが強いと
悪意はなくても、
相手を怒らせる

早速、浅野家から吉良家へ、
家老が挨拶に出向いた。

こんな時、手ぶらで来る者はいない。
上野介は、大きな期待を抱いて
待っていたのだが、
それはすぐに落胆に変わり、
素っ気なく追い帰してしまった。
進物が、あまりにも
少なかったからである。

「何じゃ! 5万3千石の
 浅野家ともあろうものが、
 この程度の手土産とは。
 人をばかにするのも甚だしい。
 あんな田舎者に、
 饗応役が務まるものか!」

上野介は腹が立った。

「軽く見られた」
「ばかにされた」

としか思えなかったのである。

しかし、内匠頭には、
少しも悪意はない。
彼は、こう弁明するだろう。

「私は、清廉潔白な武士道の
 君主を目指している。
 幕府の高官である吉良殿に、
 まるで賄賂のように
 金品を贈るのは、
 かえって失礼だろう。
 この大任を果たした後で、
 しっかりとお礼を
 するつもりだ」

ところが、饗応役を
命じられた大名は、
指南料として、
それ相応の金品を、
前もって贈るのが、
当時の常識になっていた。
それが、高家の役職に
付随した収入と
みなされていたのである。

内匠頭は、

「自分は正しい」

という思いが強く、
少しも疑っていないが、
世間に疎かったと
いわれてもしかたがない。

ちょっとした
行き違いや誤解が、
怒りの心を生み、
取り返しのつかない
事態に発展することは、
よくあることである。



人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士①江戸時代に起きた大事件)

2011年06月05日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士①江戸時代に起きた大事件)

『忠臣蔵』は、日本人に大人気である。

江戸時代から人形浄瑠璃や
歌舞伎で大ヒットし、
現在も、映画やドラマ、
バレエ、オペラなど、
あらゆるジャンルで
人気を博している。

なぜ、これほど時代を越えて、
多くの人の共感を
呼ぶのだろうか。

実はこれ、
「江戸時代に起きた大事件」
ではあるが、本質的には
人間が2人以上集まれば、
どこでも起こりうる
悲劇だからであろう。

吉良上野介と浅野内匠頭の関係は、
接待係の上司と部下

時は、元禄14年3月14日。

江戸城、松の廊下に、
赤い血がほとばしった。

35歳の浅野内匠頭が、突然、

「おのれ! この恨み……」

と叫んで、61歳の吉良上野介に
斬りかかったのである。

「ここで刀を抜いたら、
わが身は切腹、
家名は断絶が掟」

とは、百も千も承知していたが、
内匠頭は、やってしまったのである。

なぜ、怒りを抑えることが
できなかったのか。

ここまでの経緯を、
『新編忠臣蔵』(吉川英治著)を
基に見てみよう。

まず、浅野内匠頭とは、
どんな人物なのか。

赤穂藩5万3千石の大名である。
わずか9歳で3代藩主となり、
「殿様」としての教育を受けてきた。

常にトップであり、
他人に頭を下げることなど、
ほとんどない境遇で育ってきた。

刃を向けられた吉良上野介のことを、
時代劇では「高家筆頭」
と呼んだりする。

「高家」とは、幕府の
儀式・典礼を司る役職である。

上野介は、高家のトップで、
高い官位を持っていた。
しかも、吉良家は鎌倉時代から
続く名門であり、
気位の高い人物であった。

江戸城では、毎年3月に、
京都から朝廷の使者(勅使)を
迎えて盛大な儀式が行われる。

2人の衝突は、浅野内匠頭が、
この年の「勅使饗応役」に
任命されたことに始まる。

饗応役とは、一行の出迎え、
食事、宿泊などの接待係だ。

名誉ともいえるが、
一切の経費は担当する大名が
負担することになっていた。

しかも、粗相があっては
幕府の威信にかかわるので、
絶対に失敗は許されない。

大名にとっては、
実に頭の痛い任務であった。

内匠頭は、一度は、幕府に対して、

「私は格式や儀礼を、
 よくわきまえておりません。
 まして若輩の身です。
 何とぞ、この任務は、
 別の者に任命して
 いただけないでしょうか」

と辞退を申し出た。
しかし、次のように
諭されている。

「その心配は要らぬ。
 毎年、饗応役に命じられた者は、
 皆、吉良上野介の指南を受けて、
 滞りなく務めておる。
 そなたも、すべて、
 上野介の指図に従えばよいのだ」

つまり、吉良上野介は、
浅野内匠頭が、
ミスをしないように、
指導、監督する立場にあったのだ。




人間の実相を語る歴史人(キサーゴータミー)

2011年06月04日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(キサーゴータミー)

釈尊在世中、
キサーゴータミーと
いわれる麗しい女性がいた。

結婚して玉のような
男の子を産んだ。
命より大切に育てていた
その子が、突然の病で
急死した。

彼女は狂わんばかりに
愛児の亡骸を抱きしめ、
この子を生き返らせる人は
ないかと村中を尋ね回った。

会う人見る人、
その哀れさに涙を流したが、
死者を生き返らせる人など
あろうはずがない。

だが今の彼女に、
何を言っても無駄だと
思う人たちは、


「舎衛城にまします
 釈尊に聞かれるがよい」

と教える。

早速、キサーゴータミーは
釈尊を訪ね、
泣く泣く事情を訴え、
子供の生き返る法を求めた。

憐れむべきこの母親に
釈尊は、優しく
こう言われている。

「貴女の気持ちは
 よく分かる。
 愛しい子を生き
 返らせたいのなら、
 私の言うとおりにしなさい。
 これから町へ行って、
 今まで死人の出た
 ことのない家から、
 ケシの実を一つかみ
 貰ってくるのです。
 すぐにも子供を
 生き返らせてあげよう」
 
それを聞くなり
キサーゴータミーは、
町に向かって
一心に走った。

どの家を訪ねても

「昨年、父が死んだ」

「夫が今年、亡くなった」

「先日、子供に死別した」

という家ばかり。
ケシの実はどの家でも
持ってはいたが、
死人を出さない家は
何処にもなかった。

しかし彼女は、
なおも死人の
出ない家を求めて
駆けずり回る。

やがて日も暮れ夕闇が
町を包む頃、
もはや歩く力も
尽き果てた彼女は、
トボトボと釈尊の元へと
戻っていた。

「ゴータミーよ、
 ケシの実は得られたか」

「世尊、死人のない家は
 何処にもありませんでした。
 私の子供も死んだことが
 ようやく知らされました」

「そうだよ
 キサーゴータミー。
 人はみな死ぬのだ。
 明らかなことだが、
 分からない
 愚か者なのだよ」

「本当に馬鹿でした。
 こうまでして
 くださらないと、
 分からない私で
 ございました。
 こんな愚かな私でも、
 救われる道を
 聞かせてください」

彼女は深く懺悔し、
仏法に帰依したという。





人間の実相を語る歴史人(ソクラテスの妻クサンティッペの悪妻ぶり)

2011年06月03日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(ソクラテスの妻クサンティッペの悪妻ぶり)

アンチモテネスは、
ギリシア一番の土地保有者である。
 
哲学者ソクラテスを訪ねて、
広大な土地を持っていることを
自慢した。

地球儀をクルクル回して、
ギリシアを出し、
ソクラテスは言った。

「君の土地は、
どこらへんかいな」

「いくらオレの土地が
 広いといっても、
 地球儀にはのっていないよ」
 
すかさず、あきれ顔の
アンチモテネスに、

「なさけないね、
 地図にものらぬ土地を
 所有しているとて、
 いばるものではない。
 オレは大宇宙を頭で
 こねまわしているのだ」

と、らいらくに
笑ったソクラテスも、

「結婚して、いい女房に
 ぶつかれば幸福になれるし、
 悪い女房なら哲学者になれる」

と、しんみり語っている。

彼の妻クサンティッペの、
悪妻ぶりを伝える逸話は多い。

朝から晩まで、
亭主の稼ぎのなさを
こぼしているクサンティッペを見て、

「よくまあ、あの小言に
 耐えられるね」

と友人が言うと、
ソクラテス、答えていわく。

「水車の回る音も、
 聞きなれれば、
 苦にならないものだよ」
 
またあるときは、
いくらグチっても馬耳東風で、
自分をあまり相手にしないので、
かんしゃく持ちの妻が、
ソクラテスの頭から
オケの水をぶっかけた。

そのときの言葉も、
ふるっている。

「雷の後には、
 いつも夕立と
 昔からきまっている」
 
これではケンカにならない。

悪妻と思えば腹が立つ。
じゃじゃ馬を乗りこなすと
思えば勉強になる。

馬術に秀でるには、
荒馬をならす技術がいる。
一番むずかしい馬を
あやつることが
できるようになれば、
天下に、怖い者はない。

自分の家族の例を
ひいてソクラテスは、
弟子たちにそう教えたという。

さすが哲学者である。




人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 西太后③大清帝国の崩壊)

2011年06月02日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 西太后③大清帝国の崩壊)

列強が迫って来る中、
西太后は、脱出する。

しかし、その後どうしたことか、
今度は、彼女は清軍に
命じて外国軍に協力して
今まで一緒に戦ってきた
義和団を攻撃せよと
いう命令を出すのである。

恐らく、義和団を
攻撃することで、
身に及ぶ災難を
払拭する狙いが
あったのだろう。

北京に入城を
果たした連合軍は、
一部の大臣を戦犯として
処刑した後、
膨大な賠償金を課してきた。
その額は、50兆円にも
匹敵するのである。

例え、外国軍が
中国を支配しても、
占領出来るのは
たかが一部の都市ぐらいに
限られていた。

一年後、西太后は、
北京に帰って来た。
しかし、それは、まるで
戦いに勝利して
凱旋したような
華やかなものであった。

西太后は確かに
権力に固執したが、
従来の権力者とは異なっていた。

彼女の権力とは、
豪華な衣装を着飾り、
うんと贅沢をすることであった。

1908年、西太后は
74才で亡くなった。

その3年後の1911年、
湖北省の武昌で、革命派が
新政府樹立を宣言した。

いわゆる辛亥革命である。
革命の火の手は、
たちまち燃え広がり、
わずか1か月ほどで、
清王朝は雪崩のように
崩壊していった。

西太后が死んだ時、
二百数十年間続いた
大清帝国も同時に
死んだのであろう。

その後、西太后は、
北京の東にある
陸墓に葬られた。

そこは清王朝歴代の
皇帝が眠る陸墓だった。

ところが、20年ほどたった頃、
中華民国兵士による
墓荒らし事件が起きた。

北京郊外に駐屯していた
国民革命軍が、
副葬品として
埋められていた金銀財宝に
目をつけたのである。

確かにそれは
莫大な財宝だった。
なにしろ、すべてを
運ぶのに数十台の
馬車が必要であった。

その内訳は、金銀の仏像百体以上、
大粒の真珠1万2千粒、
4千の真珠を縫い込んだ
掛布団の他、
大量のヒスイ、宝石の山だった。

西太后の墓の一部を
爆破した兵士らは、
地下の墓室に侵入した。

西太后の木棺を
たたき壊して
こじ開けた兵士らは、
遺体を棺の外に引きずり出した。

西太后の遺体は、
まだ弾力が残されており
まるで眠るようであった。

兵士らは、西太后の口を
銃剣でこじ開けると、
まず、口の中に詰められている
含み珠を取り出した。

さらに、彼らは、遺体から服、
下着、靴に至るまで
すべて剥ぎ取って裸にすると、
身につけている宝石がないか
隅々まで捜し回った。

それが済むと、屍姦を
試みた者すらあったというのだ。

また、同時期、
乾隆帝の陸墓に
侵入した別な部隊は、
皇帝や皇后の遺体を
棺から引きずり出し、
金銀財宝をあまねく略奪したが、
行き掛けの駄賃とばかり、
帝の首を切り離して
地下水の汚泥に
打ち捨てたのであった。

この事件は、
清朝ラストエンペラーの
溥儀(ふぎ)に怒りの炎を
燃え上がらせた。
彼は、日本の誘いを
受け入れ、満州国皇帝として、
日本の傀儡政権として
利用される運命を
自ら選択したのであった。





人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 西太后②珍妃を井戸に)

2011年06月01日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 西太后②珍妃を井戸に)

西太后は、権力に執着して
自ら政権を手放さなかったように
言われているが、
実は、我子、同治帝が18才になった時、
政権を委ねている。
しかし、この同治帝、
勉学が嫌いで、
利口な皇帝ではなかった。

先のアヘン戦争で
英仏軍に破壊された
円明園を莫大な予算を
使って修理しようとしたのである。

円明園、18世紀につくられた
周囲10キロにおよぶこの庭園は、
東方のベルサイユ宮殿とまで言われた。

ここに至り、西太后は、
政治に再び顔を出し、
工事の中止の命を
出すとともに、
同治帝を諌めたのであった。

同治帝は、その後、
一年余りで天然痘を
わずらって死んでしまう。

つまり、清王朝、末期に
出た皇帝が揃いも揃って、
短命で利口でなかった
ということが、
彼女の歴史上の絶対的な
地位を築く要因となった。

1875年、同治帝が死ぬと、
光諸帝(こうしょてい)が
その後を継いだ。

光諸帝は、西太后の
妹の皇子である。

光諸帝は、5才で即位し、
前回の同治帝の時と同様、
二人の皇后が補佐する形で
政務を代行する形が取られた。

西太后は伯母にあたるわけだが、
どうもこの二人相性がよくなかった。
最初のうちはよかっが、
光諸帝が、17才になり、
西太后が政権を彼に委ねると、
二人の関係は悪化した。

また、この間に東太后が
45才で急死。

1894年、日清戦争が起きると、
この時、戦いに
消極的だった西太后に対して、
光諸帝はことごとく
強行策をとなえた。

ついに、光諸帝は、
伯母であった西太后に
捕えらえ南海(人口の湖)の小島に
幽閉されてしまうのである。

2万2千名の軍隊を
派遣した日本は、
連合軍の主力となって
先頭をきって行軍した。

そこで、西太后は、
北京を脱出して
逃亡することを決意した。
逃亡先は、山西省の西安である。

彼女は、66才になっていたが、
粗末な衣服を着て
髪型を変えて農民に変装した。

その際、人質として
光諸帝も連れて
行くこととした。

同時に、後顧の憂いを
消しておくことを
忘れなかった。

光諸帝の寵愛を
一身に受けた珍妃(ちんぴ)を
井戸に投げ込ませたのである。

珍妃は、美しく
聡明な王妃。
しかも、今後の展開によっては、
この珍妃が自分の後釜に
なってしまうと考えたのであろう。

幽閉先から2年ぶりに
引き出された珍妃に
西太后は言った。

「私と皇帝はこれより
 北京を離れる。
 そなたは連れてはいけぬ。
 万が一、皇室の体面を
 汚すことがあってはならない。
 そなたはここで自尽するのだ」

これを聞いた珍妃は、
青ざめて西太后に言った。

「皇帝は北京から
 離れてはなりません。
 逃亡することは、
 満州族の祖先を
 汚すことになります」

これを聞いた西太后は、
ますます、激怒して
こう言い放った。

「黙れ! 死にゆく者が
 何を申すか!」

そして、冷笑しながら、
こう続けた。

「そなたは、ここで
 死ねばいいのじゃ!」

珍妃は、西太后の前に
ひざまずき涙ながらに
命ごいをした。

「皇后様、皇后様、
 私めをお許し下さい。
 決して、過ちはいたしませぬ」

しかし、西太后は、
これを断固許さなかった。

宦官のリーダーでも
あった催玉貴(さいぎょくき)は、
ひざまずいている彼女を
抱きかかえると、
足取り重く、ゆっくりと
枯れ井戸に向かって歩き出した。

珍妃が投げ込まれた
紫禁城内にある井戸、
その口は狭く
深くて無気味で、
到底、人間一人も
入らないほどだ。

珍妃は、頭から
グイグイと押し
込まれて殺された。

彼女の遺体は、その後、
北京に入城した日本軍兵士に
よって引き上げられ埋葬された。

夜な夜な枕元に佇む
珍妃の亡霊に恐れを
なした西太后は、
翌年、北京に戻ると
すぐに彼女の遺骸を
清王朝陸墓に丁重に
改葬し直した。



人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 西太后①邪魔者は消せ)

2011年05月31日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 西太后①邪魔者は消せ)

中国史上稀代の三大悪女に
あげられる西太后。
すさまじいばかりの
権力欲と独占欲の
持ち主だと言われている。

彼女は、18才で後宮に入り、
権力の座に着いてから
実に半世紀もの長きに渡って
中国最後の清王朝に
君臨したのである。

この権力掌握の長さは
前代未聞である。

彼女は、皇太后になって以来、
紫禁城内の西の建物に
住んだことから
西太后と呼ばれる
ようになった。

西太后が、生前、
自らのおいたちを
話したがらなかった
ことで謎の多い女性でもある。

いかにして、半世紀もの間、
当時の中国の人口4億の民の上に
君臨し続けることが
出来たのであろうか。 

19世紀になって起こった産業革命は、
社会に急激な変化を
呼び起こしていた。

西太后が生きた時代は、
列強が侵略して
国土を蝕み、
内乱が勃発する
不安定で激動の
時期なのであった。

1851年、17才の時、
彼女は北京の紫禁城に行き、
選秀女に参加する。

選秀女というのは、
皇帝の皇后や貴妃を
決めるための催しであった。

行うのは道光帝の後を
継いだ咸豊帝である。

咸豊帝は、まだ20才に
なったばかりで
今回が始めての
選秀女であった。

ちなみに、秀女を受験出来るのは
一定以上の官位の家庭の
子女に限られていた。

彼女が宮中に入って、
間もなくすると、
皇后が決定した。

それは、案の定、
彼女よりも上の
ランクの秀女で16才、
18才の西太后より
2才年下である。
この皇后は、その後、
後宮の東の棟に
住んだので東太后と
呼ばれるようになる。

二人の皇太后。
しかし、正室と側室という
身分差は、二人が共に
皇太后となってからも
埋まることはなかった。

宮中に入って3年後、
21才の西太后は、
咸豊帝の子供を宿した。

男子を出産すれば、
皇子の母親となり、
たちまち地位の向上が確約され、
格段の待遇が保証されるからだ。
はたして、彼女は、
見事男子を出産したのであった。
 
結局、生まれた皇子は、
咸豊帝にとって
最後の男子になった。

咸豊帝は、それ以後、
子供には恵まれなかった。
数年後には結核に
犯されて世を去ることに
なるからである。

西太后が皇子を
出産してまもなく、
第二次アヘン戦争と
いうべき事態が起こった。

翌日、英仏軍が
北京に迫ってくる中、
咸豊帝は、この時、
英仏との交渉に、
弟の恭親王を当たらせ、
自らは、北京を
脱出して熱河にある山荘に
逃避することにした。

表向きは避暑旅行である。
咸豊帝は芝居好きで
彼は病気が悪化してからも、
毎日、5時間は観劇を続け、
血を吐きながら
芝居漬けの日々を送った。
そうした無理もたたり、
咸豊帝は、避暑先の熱河で、
わずか31才にして
死んでしまう。

咸豊帝が死ぬと、
西太后の産んだ皇子が
同治帝(どうちてい)として
後を継ぐことになった。

しかし、同治帝は、
この時まだ6才だった。
生母の彼女には、
皇太后の称号が授けられた。

こうして、ついに皇太后と
同じランクとなった彼女は、
西太后と呼ばれ、
事実上、政治の表舞台に
登場するのである。

この後、西太后は、
幼い同治帝を東皇后とともに、
慣れない政務を
代行することになる。

しかし、この二人の
皇太后の補佐する行為を
疎ましく感じ、
クーデターを決行して
権力を手中にしようと
する一派があった。

粛順(しゅくじゅん)という
野心家がそれで、
政務一般を牛耳っている一派であった。

咸豊帝が死んだ時点で、
次の帝位を狙っていた
ほどの人物であった。

だが、結局、粛順の
思惑は成功しなかった。
クーデターは失敗し、
粛順は捕らえられた。

この時、粛順は、
仰向けに牛車に
乗せられ刑場に
運ばれたという。

民衆は処刑の見物に
集まって来た。
子供たちは歓声をあげて、
どろや石を投げたので、
粛順の顔は、
判別出来ないほど
酷い人相になってしまった。

彼は、斬首にあたり、
ひざまずくことを
しなかったので、
死刑執行人は、
粛順の足を鉄の棒で
叩き折って処刑した。
何ともむごい話だが、
ともかく、西太后にとっては、
邪魔者はいなくなり、
これで専制君主たる道が
開けたのであった。


人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 則天武后)

2011年05月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 則天武后)

唐の時代、則天武后は
本名を武照(ぶしょう)と言い、
624年、山西省のかなりの地位
の官吏の娘として生まれた。

彼女は14才の時、
選ばれて後宮に入ることが
許される身分となったが、
低い身分だった。

武照が仕えた唐の
2代目太宗の時代は、
貞観の治と呼ばれ、
よくまとまった時代だった。

唐は黄金時代を
迎えたのである。

649年、その太宗が崩御すると、
3代目となる彼の息子が、
父の太宗に代わり高宗と
名乗って皇帝の地位についた。

武照に与えられたのは、
昭儀(しょうぎ)という
3番目という高い位である。
 
次に、彼女が仕えた高宗とは、
病弱で気が短く
自我が強く思い込みの
激しい若者であった。

彼女は、決して美人とは
言えなかったが、
宮廷随一と言われた
すぐれた頭脳と
特有の強靭な意志の強さで、
皇后、妃を尻目に
若い高宗を巧みにたらしこみ、
自分の思い通りに
操っていったのである。

彼女には長男と長女が
続いて生まれた。
その時、皇后には
子供がいなかったので、
恐ろしい陰謀としての
形をとり始めた。

長女が生まれてすぐ、
武照の部屋で
一人寝かされていた赤ん坊が、
何者かに首を絞められて
殺されたのである。

その時、留守中に、
その部屋をおとずれた人間は
皇后だけだった。
当然、嫌疑は皇后に
向けられることとなった。

高宗は、皇后が我娘を
殺したとばかりに激怒した。

彼女は、皇后を失脚させるために、
生後10日余りの我が子を殺し、
その罪を皇后に被せようと
計ったのである。

実際、その事件をきっかけに
皇后は、高宗より
疎んぜられるようになった。

皇后の親戚は、
すべて長安から遠い地方に
ことごとく左遷されてしまった。

そして、それに代わるように、
武照が実質的に後宮の
第一人者となっていったのである。

彼女の横暴を嫌った皇后と妃は、
後宮内で、武照がいかに
ひどい人間であるかを
吹聴して回ったのである。

しかし、それに対して武照は
徹底的で恐ろしい報復を行った。

武照は、皇后とその一派が
体の弱い高宗に対して呪術で、
殺害しようとしていると訴えた。

病弱で、時折起こす発作に、
自ら神経質になっていた高宗は、
この噂を信じて直ちに
自分の寝室を捜索させると、
自分の寝台の下より
木彫りの人形が発見されたのである。

その人形には、
高宗の名が彫られており、
しかも、その胸には鋭い
一本の針が貫かれていた。
これは、皇后を陥れるための
武照による陰謀だった。

高宗の怒りは頂点に
達していた。
皇后には、位を剥奪された。
そして、同じく捕らえられた
妃とともに宮中に
監禁されてしまったのである。

皇后の地位についた武照は、
復讐の手始めとして、
監禁されているかつての
皇后に大蛇、また妃には梟(フクロウ)と
姓を変えさせて侮辱を与えた。

その上、二人は牢から引き出され、
百回のむち打ちの刑に処せられた。

その際、幽閉されていた妃が武照に

「おまえをネズミに
 生まれさせてやる。
 私は猫に死に変わり
 おまえののど笛に
 食らいついてやる」

と呪いの言葉をかけたが、

「生まれ変わって
 復讐出来ぬようにしてやる。
 蛇に手足は無用だ。」

として、
二人は手足を切断され、
両手、両足を背の方に
ねじ曲げられる恰好にして、
酒樽の中にどっぷりと
漬けられたのである。

これは、毒蛇を酒に
つけこんでエキスを
抽出した薬酒というのが
中国にあるが、
武照は、言葉を現実にして
血も凍るような
復讐方法を考えたのである。

哀れな二人の女は、
呪詛の言葉をまき散らしながらも、
数日間生きていたという。

これ以後、子年生まれだった武照は、
死ぬ直前に妃が言い放った
呪いの言葉が忘れられず、
宮中では猫を飼わなくなった
と言われている。

武照ほど、親族や肉親を軽んじ、
憎悪して犯罪を犯し、
数多く殺害し続けた女帝は、
歴史上例がない。

彼女は、政治の実権を握るや否や、
自分の意向にそぐわぬ人間を、
片っ端から排除して
いったのである。

しかし、彼女を滅ぼしたのは
3男の李顕(りけん)だった。
彼は、2か月余りで
母の武照に廃位に追い込まれて
幽閉されたあげく
湖北に流されていた。

武照は幽閉され、
その半年後、孤独のうちに
82年の生涯を終えたのである。




人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 漢の劉邦の妻呂雉)

2011年05月29日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(中国三大悪女 漢の劉邦の妻呂雉)

翌紀元前202年、
劉邦は項羽を滅ぼして
皇帝となり、
漢王朝の高祖となった。

その后が呂雉であった。

しかし、まだ政情は
劉邦が自ら反乱の討伐に
出向かねばならぬほど
不安定であり、
また宮中では
劉邦の後継者を巡り
暗闘が始まっていた。

このような状況の下で、
呂皇后は夫の留守を預かり、
韓信が反乱を
企てたことを知り
蕭何と計り処刑する一方、
自分の実家の呂氏一族、
及び張良らの重臣の
助けを借りて、
皇太子となった劉盈の
地位の安定に力を尽くした。

劉邦が没して
劉盈(恵帝)が即位すると、
呂后は皇太后として
その後見にあたる。

だが、高祖の後継を巡る争いは
根深く尾を引いており、
恵帝即位後間もなく呂后は、
恵帝の有力なライバルで
あった高祖の庶子の
斉王劉肥、趙王劉如意の
殺害を企て、
斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、
趙王とその生母戚夫人を殺害した。

この時、呂后は戚夫人を
奴隷とし、趙王如意殺害後には、
戚夫人の両手両足を切り落とし、
目玉をくりぬき、
薬で耳・声をつぶし、
その後便所に置いて
「人豚」と呼ばせた。

これに強いショックを
受けた恵帝が政務を放棄し、
酒に溺れ間もなく死去する。

死去後の葬儀で
激しく嘆くも涙が
出ていないことを
張良の息子張辟彊から
聞きつけた陳平は、
呂后に実家の呂氏一族を
重役に立てることを進言。

呂后はその遺児・少帝恭を立て、
呂氏一族や陳平、
周勃ら建国の元勲たちの
協力を得て、
政治の安定を図る。

しかしこの頃から、
各地に諸侯王として
配された劉邦の庶子を
次々と暗殺し、
その後釜に自分の甥たちなど
呂氏一族を配して外戚政治を執り、
自分に反抗的な少帝恭を
殺害して少帝弘を立てる等の
行動をとり、
劉邦恩顧の元勲たちからの
反発を買うようになる。

また、元勲たちも
自らの暗殺を不安視したために、
ろくに仕事をしなくなった。

呂后自身このことには
気が付いていたようで、
日食が起きた時には
周囲の者に

「私のせいだ」

と言っていたといい、
死ぬ数ヶ月前には青い犬に
脇の下を引っ張られる幻を
見たため占い師に占わせ
少帝恭の祟りだと告げられた。

更には脇の病気にかかり、
甥の呂産らに元勲たちの
動向に気をつけるように
さんざん言い聞かせ、
更に呂氏一族を
中央の兵権を握る重職などに
就けて万全を期した後、
死去した。






人間の実相を語る歴史人(婢・怨家・奪命の如き婦人 殷の紂王と妲己)

2011年05月28日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(婢・怨家・奪命の如き婦人 殷の紂王と妲己)
 
湯王を始祖とする殷王朝は、
それからおよそ六百余年、
二十八代目の後継者である
紂王に至って亡びる。

紂王は非凡な知力武勇の
持ち主であった。

が、その彼から
理性を奪いとって
荒淫の生活に溺れさせたのは、
彼が有蘇氏の国を
征伐したときに
貢物として送られて来た
妲己(ダッキ)という
稀代の毒婦であった。

紂王も彼女の歓心を
買うために
あらん限りの力を
つくした。

倉庫には人民から
とりたてられた
金銀や絹、食料が山と積まれ、
国中の珍獣奇物は続々と
宮中に召しあげられ、
また莫大な物資と人力を消耗して、
豪壮な宮殿園池が造営された。

池には酒を満たし、
酒糟を丘とし、
肉を吊りさげて
林になぞらえる。
身も魂もとろけさすような
淫らな音楽の調べにあわせ、
一糸まとわぬ男女の
一隊が踊り狂い、
それを観る人々は
恍惚感にひたりながら、
池の酒をガブ飲みし、
林の肉をむさぼり食う。

その狂態を観ながら
紂王の膝に頬を寄せる
姐己に淫らな満足の
微笑みが浮かぶ。

しかもこのような狂宴は、
百二十日もの間、
昼夜を分かたず繰りかえされ、
これを「長夜の飲」と呼んだ。
 
王の暴虐を補佐役の
西伯が諫めた。

「殷鑒遠からず、
 夏后の世にあり」

殷の王者の鑑と
すべき先例は、
さほど遠くに求めなくても、
夏の時代、桀王が妹喜に溺れ、
国を滅ばした例があるでは
ありませんか。

しかし、この忠言は
酒色に溺れ理性を
失った紂王の心には 
届かなかった。

殷の暴君紂王の
「酒池肉林」の遊びは
日ごとに淫乱を深めた。、
その淫楽に反対する人々に
は「炮烙の刑」が課せられる。

罪人は焼けた丸太を
必死の形相で渡るが、
油で滑って転落しそうなる。
丸太にしがみつき、
熱くてたまらず、
ついには耐え切れずに
猛火へ落ちて
焼け死んでしまう。

この様子を観ながら
紂王は妲己と
抱き合いながら
笑い転げたという。

西伯昌(のちの周の文王)が
廃止を懇願し、
紂王に領地を
差し出して廃止させた。

王の暴虐を批判した
補佐役の「三公」の内、
二人は惨殺され、
西伯は幽囚の身となった。

酒色に溺れ理性を
失った紂王の心には、
桀王の悲劇を
顧みる余裕はない。

今や紂王の乱行・淫楽は
募るばかり。
人民の怨嗟は
やがて頂点に達し、
臣事する諸侯の心もすでに
王から離れ去った。

この天下の形勢を
みてとったのは、
周の武王であった。
かくて第二の「革命」が
繰りかえされるのである。