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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

阿那律尊者③(誰か善を求めようと思う人は)

2009年04月14日 | 釈迦十大弟子
阿那律尊者③(誰か善を求めようと思う人は)

阿那律尊者がある時、衣のほころびを繕おうとして、
針に糸を通そうとするがかなわない。

そこで彼は周囲に呼びかけた。
「誰か、善を求めるようと思う人は、
 この針に糸を通してくだされ」

その時、
「ぜひ、私にさせてもらいたい」
と申し出られたのは。他ならぬ釈尊だった。
阿那律は、その声に驚いて、
「世尊は、すべての善と徳を成就なされた方では
 ありませんか」

畏れて言うと、釈尊は、
「仏の覚りを開けばとて、
 小善をおそろかにしてよい道理がない。
 世の中で、善を求めること私にすぐる者はない」
と答えられたという。

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阿那律尊者②(天眼第一)

2009年04月13日 | 釈迦十大弟子
阿那律尊者②(天眼第一)

阿那律は目が見えない。
しかし、初めからではない。
失明したと同時に心眼が開け、
天眼第一といわれるようになったのである。

阿那律がなぜ失明したのか。
こともあろうに釈尊の説法中、阿那律が居眠りを始めた。
説法後、呼ばれて釈尊は静かに言われる。
「何が目的で、仏道を求めているのか」
「はい、生死の一大事の解決のためでございます。」
「そなたは両家の出身ながら道心堅固、
 どうして、居眠りなどしたのか」
釈尊の慈言に決然と、阿那律は誓った。
「今後、目がただれようとも眠りはいたしません。
 どうか、お許しください。」
その日から、彼の熱心な修行は暁に及んでも、
決して眠ることはなかった。

続いた不眠で、目を患った彼に、
「琴の糸のように張るべき時は張り、
緩むべき時は緩めねばならぬ。
精進も過ぎると後悔する。
怠けると煩悩がおきる。
中道を選らぶが良い。」
の釈尊のお諭しや、
「もう少し、眠らば治る」
の侍医の強い勧めもあったが、
彼は釈尊との誓いを貫き徹し、
ついに両眼を失明した。
同時にしかし、深遠な心眼が開け、
釈迦十大弟子の一人、阿那律尊者となっている。
まことに不惜身命である。


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阿那律尊者①(福徳の子)

2009年04月12日 | 釈迦十大弟子
阿那律尊者①(福徳の子)

阿那律は、お釈迦様の従兄弟に当たる。
だから、王族の中でも大変裕福だった。
彼は幼少のころから「福徳の子」と称されていた。
そういう家庭で育った阿那律は
お米がどうやってできるか、すら知らない。
お米は、ご飯になって金の器から出てくるのだ、
と信じていたような子供だった。
そんな贅沢が身に染み付いた人が、
なぜ出家したのか。

ある日のこと、お釈迦様が釈迦族の国カピラ城近くの
ある村に滞在していたときのこと。
大勢の釈迦族の若者がお釈迦様の教えを聞き、出家した。
その話を聞いた阿那律の兄は、
「我が家からも出家者を出さないと恥ずかしい。
俺かお前のどちらかが出家しよう」
と持ちかけた。
阿那律と兄はどちらが家を継ぎ、
どちらが出家するか話し合い、
阿那律が出家することとなったのである。

阿那律尊者が出家した動機は釈尊が出家なされたような
後生の一大事を解決しなければというような
深刻なものではなかった。

それが為に今まではすべて周りの者にさせていた
阿那律が仏道修行の厳しさに耐えてゆくことは
至難の業であったに違いない。

しかし、阿那律は従兄弟で共に出家した阿難と
厳しい修行に取り組み、釈尊のご教導により、
大きく変わってゆくことになる。

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阿難尊者⑥(多聞第一)

2009年04月11日 | 釈迦十大弟子
阿難尊者⑥(多聞第一)

阿難は多聞(たもん)第一といわれ、
釈尊の説法をもっとも沢山聞いており、
それを一言半句間違わずに覚えていた。

如何に真剣に釈尊のご説法を聴聞していたか、
こんな話しが残っている。

阿難の背中に命に係る腫れ物ができた。
あまりに痛がる阿難を、釈尊はご覧になられ、
医者のギバに
「何とか助けてやってほしい」
と頼まれた。

ギバも何とかしたいとは思ってみても、
今日のように麻酔があるわけでもない。
どうすればよいか考えあえいでいた時、
激しい痛みも忘れ、釈尊のご説法を、
真剣に聴聞している阿難を見た。

ギバは
「今しかない」
と、阿難に近づき、手術を始めた。

釈尊も阿難の手術が終わるまで、説法を続けられた。
当の阿難は手術が行われているなど気づいていない。
手術が終わると同時に
釈尊は説法を止められたのである。

ご法話が終わると、先ほどまでの背中の痛みが
全くない。
驚く阿難にギバは
「お前があまりにも真剣に聴聞していたので、
 手術をさせてもらったよ」
と答えたという。

チョット足が痛いだけで尻振りダンスをしている
聞法者とは真剣さが格段に違う。
阿難に学ぶべきところはここであろう。


阿難尊者⑤(女性の仏弟子誕生)

2009年04月10日 | 釈迦十大弟子
阿難尊者⑤(女性の仏弟子誕生)

女性の弟子が生まれたのも阿難のお陰だ。
当時、出家者は男性のみに限られていた。
お釈迦様は、女性の出家を認めなかったのである。
それには理由があった。

一つは、修行者は野山や公園、河原などを修行場所と
して寝起きしていたので、野獣や男性に襲われることもある。
女性には大変危険であった。

一つは、男性修行者の修行の妨げになった。
女性がいれば、そこに恋愛感情が生まれないとは言えない。
あるいは、欲望が抑えきれない修行者も出てしまう。
そういう危険がある為である。

その他、女性には肉体的にも精神的にも厳しい修行には
ついていけないだろうということで許されなかった。

他にも多々あるのだが、阿難ははこれらの理由を承知の上
女性の出家を認めて欲しいと願い出る。
それは、お釈迦様の元へ出家を願い出てきた
釈迦族王族の女性たちの姿を見たからであった。

彼女たちは、歩いて旅などしたことがないにもかかわらず、
遠方を歩いてやってきた。
その姿は、ボロ雑巾のよう。
そうまでして出家を願い出る彼女たちの心は清らかであろう、
と阿難は感動し、そして、彼女たちの願いをお釈迦様に
届ける役を買って出た。

阿難の優しさと情熱に、お釈迦様も
「確かにそうだ。悟りを得るだけの器があるのに、
その機会がなければそれは不幸であろう。
わかった、女性の出家を認めよう。
ただし、条件がある。」
と仰って、女性の出家を認められた。

その際、250戒であった戒律が500戒に
増えたのも、この時であった。

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阿難尊者④(頼まれたら嫌といえない)

2009年04月09日 | 釈迦十大弟子
阿難尊者④(頼まれたら嫌といえない)

阿難は気の優しい、頼まれたら絶対に嫌とはいえない、
そんな性格をしていた。

こんなエピソードが残っている。

ある日のこと、阿難が托鉢をしていると、
子供が二人泣いていたので、「どうしたのか」と尋ねた。
他の修行者は、声を掛けなかったが、
阿難は放っておけなかった。

話を聞くと、両親が亡くなってしまい、
いくところがないという。
阿難は仕方なく、二人の子供を精舎に連れてきた。
そのころ、仏教教団では、子供の出家は親の許可が
なければ認めない、という方針を採っていた。

でないと、子供が親の知らないうちに勝手に
出家してしまい、親が怒鳴り込むという問題に
発展してしまうからである。

ところが、この二人の少年は、親がいない。
さてどうしたものか。
長老たちは、子供を置いてもやることもできないし、
修行にならないから、どこかの大きな商家で働かせるのがいい、
という意見だった。

しかし、阿難はお釈迦様に二人の出家を願い出た。
「商家で働かせても、いじめられるばかりでいいことがない、
 ここなら平和に安楽に過ごせるし、
 やがては修行ができるようになる。
 食事は、自分が托鉢したものを分け与えるから、
 どうか出家を許可して欲しい」
と。その熱意にお釈迦様は、二人の少年の出家を
認めるようになった。

その後、親がない場合は、本人の希望があれば
子供であっても出家を認めてよい、という戒律ができた。


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阿難尊者③(御同朋、御同行)

2009年04月08日 | 釈迦十大弟子
阿難尊者③(御同朋、御同行)

釈尊は三千年の昔に、すでに「万人は平等なり」と叫ばれた。
しかもかゝる如来の教法を、身を以って実践なされた人こそ、
真宗の祖師、親鸞聖人であった。

あの階級対立の、きびしい封建社会にあって、
全人類に向かって「御同朋、御同行よ」と愛の手をさしのべ、
「親鸞は、弟子一人も持たず」と宣言なされている。

剣を抜いて迫りくる弁円に対してさえも、
立場を変えれば、この親鸞が他人を殺しにゆくのだと、
底の知れない慈愛で諭されている。

一視同仁の仏智を持たずして、言えることではない。
戦後、特に自由平等が強調せられるようになったが、
真の平等自由の天地は、他力の大信心の世界にしか、
絶対にないことを知らねばならぬ。

「念仏者は無碍の一道なり
 そのいわれいかんとなれば
 信心の行者には
 天神地祇も敬伏し
 魔界外道も障礙することなし」
           (歎異抄)


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阿難尊者②(すべての人は平等である)

2009年04月08日 | 釈迦十大弟子
阿難尊者②(すべての人は平等である)

阿難が、或る夏の暑い日、行乞より祇園精舎に帰る途中、
余りにノドが乾いたので、樹の蔭で一人の若い女が手桶に
水を汲んでいるのを見て、一杯の水を求めた。
阿難は美男で有名だった。
釈尊在世中、遂に悟ることができなかったのは、
余りにも女難が多かった為だと言われている。

その阿難に言葉をかけられた娘は、赤面しながら小さな声で、
「私は卑しい素性の女です。貴方のような尊い身分の方に、
あげたくてもあげられません」
と断わった。

当時のインドには、婆羅門、刹帝利、吠舎、首陀羅といわれる、
厳として破ることのできない社会の階級があった。
婆羅門(僧侶)と刹帝利(王族)は、殆ど同等の尊い身分とされていたが、
吠舎はそれらに対して、婚姻は勿論、交際から職業までも禁じられていた。
首陀羅に至っては、直接それらと言葉も交されぬという、
虫ケラ同然にみなされていた。

今の娘は、その首陀羅であったのである。
釈尊は、かゝる四姓の鉄壁を打ち破って、
総ての人々は平等である、と喝破せられた。                                        

阿難は、優しく娘を慰めて
「人間は生まれながらに貴賤が定まっているのではない、
仏の教えは一切の人々は、生まれながらに平等であり、
自由だと教えられているのです。
どうか遠慮なさらずに私に水を一杯布施して下さい」
と少女をはげましている。

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
明治の先覚者の言葉に、当時の人々は驚いたが、
釈尊は三千年の昔に、すでに「万人は平等なり」と叫ばれたと
いうことは、実に驚嘆すべき事実である。

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阿難尊者①(釈尊のお世話を任されたお弟子)

2009年04月07日 | 釈迦十大弟子
阿難尊者①(釈尊のお世話を任されたお弟子)

阿難は釈尊の従兄弟にあたり、提婆達多の弟である。
阿難25歳の時、出家して釈尊に仕えること25年、
常に釈迦に随従し、「多聞(たもん)第一」と讃えられる。
「釈迦の説法を最も多く聞いていた」という意味だ。

お釈迦様より30才くらい若く、美男子、やさしい、
世話好き、と伝えられている。
釈尊から大変可愛がられ、身の周りのお世話を
任された。

『大無量寿経』において「光顔巍巍」たる釈尊の輝きを見抜き、
大無量寿経こそが出世本懐の説法であることを語らしめるという、
重要な役割を演ずるのである。

釈尊の侍者として仕え、今でいう秘書のような役割を果たした。
それは釈尊晩年まで及び、その入滅にも立ち合った。
仏の入滅の前後には人事不省におちいり、
悲嘆慟哭したので、
阿那律から制止されたほどである。

釈迦如来が涅槃の雲に隠れられた時、
仏の慈悲はあらゆる動物たちにも
かけられていた為、多くの動物達が集まった。
ただ、その中に猫だけはいなかったといわれる。
猫が恩知らずといわれるのは、このあたりから
くるのだろう。
そういえば釈迦の臨終を描いた涅槃図には
猫は書かれていない。


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ラゴーラ尊者③(蜜行第一)

2009年04月06日 | 釈迦十大弟子
ラゴーラ尊者③(蜜行第一)

ラゴーラはシッタルタ太子(釈尊の幼名)と
ヤショダラ姫との間に生れた。

太子は我が子が産まれたとき、
「ラゴーラ(さわり)が生れてきた」と言われた。
既に出家を決意されていた太子にとって、
子供の存在は決意を鈍らせることになる。
障礙(さまたげ)は原語でラゴーラ。
それが命名の謂れであった。


釈尊のご教導で生まれ変わったラゴーラは
周囲はどうしても尊者を釈尊の子として
特別な目で見てしまいがち。
だからなおのこと、ラゴーラは戒律を遵守された。
密行第一と称される所以である。

お釈迦様の仰言ったとおりの修行を厳密に
守っていかれたのであった。


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