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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

一日一訓(12日 男は男らしく 女は女らしく)

2011年09月11日 | 一日一訓
一日一訓(12日 男は男らしく 女は女らしく)

「男は男らしく
 女は女らしく」

「男らしく・女らしく」

と言われても何が男か、
何が女かの規定が
ハッキリしない。

ことわざに

「男は度胸、女は愛嬌」

というのがあるが、
男にとって大切なものは、
どんなことに対しても、
心が落ち着いていて、
恐さを感じない精神力であり、
女にとって大切なものは、
どんな人に対しても、
愛想がよく、
かわいらしい振る舞いが
できるという事である。

男は、何でも恐れず
挑戦する精神力が大事で、
女は、どんな人へも、
あたたかな心を持って接し、
相手の人をなごやかに
させる気持ちが
大切であるという事のようだ。

それは逆にいえば、
男はいざという時に
意気地なしだなと
感ずることがある。

事業に失敗し、
ぼうぜんと帰宅した男が、
妻にこういった。

「もうダメだよ、オレは。
 あきらめてくれ。
 家中の財産は灰まで
 執行吏に差し押さえられる
 ことになったんだ」
 
どんなに嘆き悲しむかと
思いきや、意外に妻は、
微笑してこうたずねた。

「それは大変ね。
 しかし執行吏は、
 あなたの身体も
 差し押さえるのですか」

「いや、そんなことはない」

「じゃ、私の身体が
 差し押さえにあうの」

「いやいや、おまえは関係ないよ」

「坊やは?」

「子供なんか、問題でない」

「それじゃあなた、なんですか。
 家中のものをなくすと
 いうわけじゃないじゃないの。
 健康な私たちと、
 夢を秘めた子供たち。
 一番大切な財産が
 残るじゃありませんか。
 私たちは少しだけ
 遠回りしただけでしょう。
 お金や財産なんか、
 これからの心がけ次第で、
 いくらでもできるじゃありませんか」
 
妻のたのもしい励ましに、
しょげていた主人の顔は、
パッと一度に明るくなって、
みごと、苦境を克服したという。

実験で、ウサギの足にギブスを巻く。
オスはたちまち怒り、
首をふり、ギブスをかみ、
束縛から逃れようと
必死の努力を試みる。

この間もちろん、
エサなど食べようとはしない。
ひたすらかじり続けるのである。

ところがメスは、
初めの一時間ぐらいは、
やはりかじるが、
そのうちダメだと知ると
あっさりあきらめ、
食事をとり、休養し、
ムダな体力のロスはしないという。

この結果、先に弱って
死ぬのは言わずと知れたオスで、
その愚かな弱さと、
メスの一種独特の
したたかな強さは、
人間のそれに似ているようだ。

そういえば女性の平均寿命が、
いつも勝っているのもうなずける。

本来の女性は人生の、
やはり大地のようである。

一日一訓(10日 他人に親切した時)

2011年09月10日 | 一日一訓
一日一訓(10日 他人に親切した時)

「他人に親切した時、
 私が誰々に 何々を、
 この三つを忘れるようにしよう」

九州博多、聖福寺の和尚、
仙は、近代禅宗の高僧
として有名である。

この仙が、ある冬の日、
寒そうに橋の下で、
震えている乞食を
眺めてかわいそうに思い、
自分の着ているものを
一枚脱いで投げ与えた。

乞食はそれを受けて 
すぐに着たが、何の言葉もない。
そこで仙、

「どうだ、それで少しは
暖かくなったか」

と声をかけると、
乞食キッ、と仙をにらんで、

「当たり前だ、
 着ない前より暖かいのに
 決まっている。
 おまえさんこそ喜べよ、
 俺はごらんのとおり裸一貫、
 施したいと思っても意に添わぬ。
 与えられる者よりも、
 与えることのできる身分を喜べよ」

と諭され、生涯の戒めとしたという。

仏教では、三輪空が
成されねば真実の布施とは
されない。

「三輪」とは、
施者と受者と施物をいう。

○私が(施者)
○だれだれに(受者)
○何々を(施物)

この三つを忘れるように努めなさい、
ということです。

そうしないと、
「私があんなに苦労したのに」

「あの人、いつになったら
 礼を言うのか」

「あんな高価な物を上げたのに」

と、腹を立て、
罪を造ることになる。

この三つが空ぜられねば
真の布施行とはならない。

「施者を空ずる」とは、
「施した者は、施したことを
 すぐに忘れなくてはならぬ」
ということ。

いわんや、

「施したことによって
 名を売ろう」とか、

「どんな報いが来るだろう」

などと考えたりするようでは
布施にならない、
と教えられている。

次に、「受者を空ずる」とは

「あの人に施したのだ」

「あの人は私の施しによって
 生きているのだ」

というような心も、
捨てねばならぬ、ということ。
 
次に「施物を空ずる」というのは、
施したものに心を
かけぬことをいう。

「これこれの大切なものを
 施したのだ。
 金に換算すると
 これくらいになる」

などと思う心があっては、
これまた布施にはならぬという。
 
確かに仙には、
施してやったという意識があり、
だから乞食の礼の一言を
待つ心もあった。

それを当てにして
楽しんでいた、
あさましい自己を、
乞食にすっぱ抜かれ
驚いたのだ。
 
三つを忘れれば忘れるほど、
布施の功徳は大きいのだよ、
と教えられている。

一日一訓(9日 できるだけ他人の長所を発見してほめるようにしよう)

2011年09月09日 | 一日一訓
一日一訓(9日 できるだけ他人の長所を発見してほめるようにしよう)

「他人の長所を発見して
 ほめるようにしよう」


日本の昔話、一寸法師は
自分が何かの欠点を持って
悩んでいる人に
勇気をもたらしてくれる話であろう。

欠点のない人はいない。皆無だ。
その欠点を他人のせいにして、
親を恨み、世間を呪ってばかりいる者に
努力向上もなければ、工夫研究もない。
因果の道理で幸せは返ってこない。

欠点が活かせば長所になる。

形は似ていても、
シャモジで耳かきはできない。
耳かきでご飯をよそうことはできぬ。

イチジク浣腸を目に指したら大変だ。
目薬をお尻に入れても何の効果もない。

一寸法師があの小さな身体を
最大の武器として活かしたお陰で
彼は大変な幸せを
得ることができたのだ。

釈迦如来には多くの弟子があった。
その中でも勝れたお弟子を十大弟子と
後の学者達はいうようになった。

その十人の弟子とは
1:舎利弗(シャリホツ) -智慧第一
2:目蓮(モクレン)   -神通力第一
3:迦葉(カショウ)   -頭陀第一
4:冨楼那(フルナ)   -説法第一
5:阿難(アナン)    -多聞第一
6:阿那律(アナリツ)  -天眼第一
7:羅喉羅(ラゴーラ)  -密行第一
8:迦旋回延(カセンネン)-論議第一
9:須菩提(スボダイ)  -解空第一
10:優婆離(ウバリ)   -持律第一

どのお弟子も誰にも負けない
特徴を持たれ、それを活かして、
人生の目的を求めてゆかて、
真実を広める為に
大活躍ゆかれた方ばかりである。

一人一人の人生も性格も
最大の欠点を活かした時、
最強の長所となり、
人生の目的を果たす素晴らしき手段
となるに違いない。





一日一訓(8日 自分の仕事を愛し熱中するようにしよう)

2011年09月08日 | 一日一訓
一日一訓(8日 自分の仕事を愛し熱中するようにしよう)

「自分の仕事を愛し熱中するようにしよう」

信長、秀吉、家康、
三大武将で一番の人気者はだれか。

おそらくカンシャク者の信長より、
明朗闊達な秀吉に軍配をあげるだろう。
 
なるほど家康は、全国を平定し、
徳川三百年の基礎を築いたが、
なにかしら胸にいちもつある
「タヌキオヤジ」の印象を受ける。

そこへゆくと秀吉は、
一介の水呑百姓からたたきあげ、
天下を取ったが恬淡としている。

負けても勝っても、
有頂天にならず、
メソメソ後悔もしない。

「太閤さまにまで出世されるには、
 違った心がけが、
 あったことと思いますが……」
 
ある人がたずねた。

「ワシは、太閤になろうなどとは
 思ったことがない。
 草履取りのときは草履取りを
 一心に努めたら、
 足軽に取り立てられた。
 ありがたいことだと
 一生懸命仕えたら、侍になった。
 侍の仕事に夢中になっていると、
 いつしか侍大将になっていたのだ。
 ついに姫路一城を
 拝領するにいたった。
 ワシは、一職をうれば一職、
 一官を拝すれば一官、
 その職官に没頭して
 今日にいたったのだ。
 ほかに出世の秘訣は、
 なにもない」
 
人生に目標を立てることは
悪いことではない。

けれども目標達成に
急なるがあまり、
今日一日の努力が宙に浮くことが、
おうおうにしてある。

権利だけ要求して
義務をはたさぬ者の多い中、
与えられた自己の場で、
ただ死力を尽くす。

〝あの人には見どころがある〟

と、新しい重要ポストが与えられる。
 
そこでまた脚下照顧して、
ベストを尽くさねばならぬ。

一職に忠実な者は、
何事にも忠実だが、
一職を軽視する者は、
どんな地位におかれても
不平をもつ。

不満のある者は成功しない。

与えられた使命を、
忠実にはたすことが、
成功への道である。


一日一訓(7日 夕べに熟慮して、朝に断行)

2011年09月07日 | 一日一訓
一日一訓(7日 夕べに熟慮して、朝に断行)

「夕べに熟慮して、
 朝に断行」

イギリスの思想家
カーライル(1795~1881)を、
一人の女性が訪ねた。

「近頃、家庭や人生のことで
 悩んでおります。
 解決の道をお教えください」
 
打ち明け話を聞き終えた
カーライルは、こう答えた。

「わかりました。
 まずあなたは、
 ご自分の針箱を
 調べてみなさい」

「針箱ですって。
 私の悩みとどんな関係が?」

「まあ、そう結論を急がれずに。
 針箱を開けて、
 乱れた糸があったら
 糸巻にきちんと巻くことです。
 次にタンスの中を調べて、
 取り散らかした衣服があったら、
 きれいに片づけてください。
 私が申し上げられるのは、
 それだけです」
 
婦人は首をひねったが、
哲人・カーライルの言うことだから、
何か深い意味があるのだろうと思い、
礼を言って帰った。
 
一週間後、再び訪れた彼女は、
笑顔で報告したのです。

「先日はありがとうございました。
 針箱を調べたら、
 お恥ずかしいことに、
 まことに乱雑でした。
 きちんと整頓して、
 ついでに家中を整理しましたが、
 そのうちに、わかってきたのです。
 "身の回りを整理すれば、
  心も整理される"
 先生はそうおっしゃりたかったのだと」
 
カーライルは、にっこり
笑ってうなずいた。
日常生活の小さな乱れから
心の乱れが始まり、
それが家庭の乱れを生むことも、
少なくない。
 
仕事の能率を上げるためにも、
整理整頓は有効。

ベストセラー
『なぜか、「仕事がうまくいく人」の習慣』
の著者、K・グリーソンも勧めている。
机の上が散らかっていると、
必要なものが、すぐに見つからない。

「会議までに資料を
 コピーしなきゃ。
 あれ、どこにしまったかな」
 
ビジネスマンが、
会社で探し物をする時間は、
年間六週間といわれる。
本当に使うものだけ、
手元に置けば、
時間の無駄は、
かなり省ける。

"頭の中の整理"も大事。

「一つのことに集中できない」

「何かやり残している気がする」

そんな時は一度手を止めて、
メモ帳や計画表で

"やるべきこと"

を確認してみてはどうだろう。

「長期はもちろん、
 一日の作業まで」

明確にせよと、グリーソンは言う。

何にどれだけ時間を
さくか決めておけば、
仕事に追われず、
心もスッキリして

「なぜか仕事がうまくいく人」

になれる。

「夕べに熟慮して朝に断行!



一日一訓(6日 愛嬌たっぷり、会釈を惜しまぬようにしよう)

2011年09月06日 | 一日一訓
一日一訓(6日 愛嬌たっぷり、会釈を惜しまぬようにしよう)

「愛嬌たっぷり、
 会釈を惜しまぬようにしよう」

ジョン・ワナメーカー氏は、
デパート王といわれる。

店員募集の広告を見て、
一人の青年がやってきた。
みずから面接した
ワナメーカーの質問に彼は、

「イエス、ノー」

と、適切に即答して
少しの誤りもなかった。

体格も立派だし、学力も十分。
同席者は採用を
確信して疑わなかった。

ところがどうしてか、
不合格になったのだ。

「たいそう、よい青年の
 ようでしたが、
 どこかお気に召さない
 ところがありましたか」
 
側近の不審にワナメーカーは、
こう言っている。

「あの青年は、私の質問に、
 『イエス、ノー』と、
 ぶっきらぼうに言うばかりで
 『イエス・サー、ノー・サー』
 (敬称)と、丁寧な
 物言いをしなかった。
 あんなふうではきっと、
 お客に親切を欠くことが
 あるにちがいない。
 親切第一がモットーの
 私の店には、雇うわけには
 ゆかないのだよ」
 
たったの一言が、いかに大切か。

「社長が愉快げに
 〝おはよう〟
 とあいさつされると、
 一週間は楽しく働ける」
 
こう言って、ワナメーカー氏の
店員たちは、喜々として働き、
店は栄えに栄えたという。

なにが社会奉仕といっても、
にこやかな笑顔と
明るいあいさつほど、
世の中を楽しくするものはない。

彼は街頭をゆく楽隊のように、
四方に光明をバラまく。
笑顔とあいさつを
出し惜しむ者ほどの、
ドケチはないといってよかろう。

ちょっと目もとの筋肉を動かし、
わずか一言、二言を話すだけで、
人に幸福を与えることができるのに、
それすらもケチるからである。

シドニー・スミスは、
おもしろいことを言っている。

「少なくとも一日に
 一人を喜ばせよ。
 十年すれば、
 三千六百五十人を
 喜ばせることになる。
 一町村あげて喜ばせる、
 寄付金を出したのと同様だ」
 
まさに釈尊の〝和顔愛語〟の
布施行である。


一日一訓(5日 乏しきとき与えるは富みて与えるに勝る)

2011年09月05日 | 一日一訓
一日一訓(5日 乏しきとき与えるは富みて与えるに勝る)

「乏しきとき与えるは
 富みて与えるに勝る」

釈迦のお弟子に
迦葉尊者といわれる方がいる。

迦葉尊者は釈迦十大弟子の中で
頭陀第一といわれる。

「頭陀」とは、
衣食住に関する貪りを
払い除く修行のこと.

打ち捨てられた
汚いぼろ布で作った
僧衣だけを身に着け、
常に托鉢乞食によって食を得る。

乞食(こつじき)するのに
家の貧富を選ばず、
一日の食事は午前中の
一食だけとし、食べ過ぎない。

「頭陀第一」とは、
こういった頭陀行の
実践をだれよりも
厳格に行っていたのが
迦葉尊者であった。

こういった頭陀の生活実践は、
本来の出家修行者としては
当然の習慣だったが、
教団が発展するにつれて、
比丘たちは僧院に定住するようになり、
寄進された綺麗な僧衣をまとったり、
招かれて信者の家で
食事の供養を受けることも、
ごく普通となって来た。

だが、迦葉は頭陀行を
かたくなに守り続けていた。

その迦葉尊者がいつも
貧しい村に托鉢に行くのを
不信に感じた他の釈迦の弟子達が
迦葉の後をつけてみた。

いつものように迦葉は
貧しい村へと出かけていった。
どの家からも門前払い。
誰も布施する者はいなかった。

村はずれにくると、
一人の年取った女乞食が
物乞いをしていた。

ライ病のかかり、
近寄る人もいなかったのである。

その老婆の前に立った迦葉は

「お婆さん、私はお釈迦様の弟子
 迦葉というもの。
 どうか、何か布施を
 してはもらえぬか」

と言った。

するとお婆さん、
迦葉の真面目な姿に

「見ての通り、差し上げたくとも、
 私には何もあなたに
 布施できるものはありません」

と断ると、
目の前の汚いお椀にある
腐ったお粥を指さし、、
迦葉は言った。

「ここにお粥があるではないか」

「こんな物は私でさえ、
 食うことのできないもの」

とお婆さんが答えるが、
迦葉は有難く頂戴する。

その時、差し出した
お婆さんの指からライ病の
膿が一緒にお粥の中に入ったが、
気にせず、迦葉は飲み干した。

「お婆さんの尊い布施の
 お陰で今日一日の
 生きる糧を得ることができた。
 この功徳でお婆さんよ、
 幸せになれる
 ご縁を結ばれた」

お婆さんは自分が
我利我利亡者の心の報いで
今日の貧しい辛い生活が
あることを知らされ、
改心したのである。

この一部始終を
見ていた仏弟子達は
迦葉の元で
修行する道を選んだのである。

一日一訓(4日 苦しみの新しい間を楽しみといい)

2011年09月04日 | 一日一訓
一日一訓(4日 苦しみの新しい間を楽しみといい)

「苦しみの新しい間を
 楽しみといい
 楽しみの古くなったのを
 苦しみという」

芥川龍之介の「芋粥」は
人間の楽しみ、苦しみの
概念を一新してくれる
話しであると感じた。

この小説は、

「芋粥を飽きるほど
 食ってみたい」

と長い間思っていた
主人公の五位が、
都から越前の敦賀まで
二日がかりでやってきて、
ついに念願かなうと
いうところで、
山のような芋粥を
前にして食う前から
飽食してしまうと
いう物語である。

主人公は身分が低く、
周りの人から、
さげすみの対象となっている。
何を考えているのかもわからず、
愚鈍で、怒りもせず、
人の言いなりになっている。

でも、主人公の五位は

「いつか、芋粥を
 たらふくたべたい」

という夢を持ち、
夢はあるということを
その夢をかなえることが
生きがいで生きていけた。

そして、その夢が
ついに叶えられる時が
きたのだ。

しかし、山のような芋粥を
前にして、彼は
夢を叶え過去の夢見ていた頃の
ほうが幸せだったと感じる。

「これを食べてしまったら、
 俺は何を生きがいにして、
 ゆけばよいのか」

人間は夢を叶えることに
幸福を感じ取り、
夢を叶え寂しさを感じる。

それは全ての人間に
言えることだろう。

どんな御馳走も
レストランに行くまでは
うきうきする。
ご馳走が並べられ、
さあ、頂きますと
一箸つけて、美味を
味わった瞬間が
幸福の絶頂にいたる。

それからは食べれば
食べるほど、空しさが漂い。
飽きるほど食べた後は
苦痛にさえなってくる。

蚊にさされた時、
さされた場所を掻くと
気持ちがいい。
しかし、ズッと掻いていると
そのうち、皮膚が破れ、
痛みに変わってくる。
苦しみになってしまう。

「苦しみの新しい間を
 楽しみといい
 楽しみの古くなったのを
 苦しみという」

右肩に重い荷物を
かけて持っていた。
長時間持っていると
苦しくなる。
そこで左肩に代えて
持ってみた。
すると右肩は楽になった。

しかし、それも暫く。
次第に左肩が辛くなり、
また、右肩へと持ち替ええる。
人生もこの繰る返しではないか。

苦も楽も本質は
苦しみの色変わりなのである。


一日一訓(3日 怒りは無謀に始まり、後悔に終わるものだ)

2011年09月03日 | 一日一訓
一日一訓(3日 怒りは無謀に始まり、後悔に終わるものだ)

「怒りは無謀に始まり
 後悔に終わるものだ」

昔、インドにアショカ王(阿育王)と
いう名君がいた。

王様は金に恵まれ、
財産、地位や名誉、家族にも
不自由はしていなかった。

ところが心が恵まれていなかったのだ。
ある日、王は家来に命じた。

「この世の中で最も必要な宝を
 天下に求めよ」

すると、一人の家来が
「私に」と喜んで命を受けた。

彼は新婚まもなく、
この宝を見つけ、出世して
新妻を喜ばせようと考えたのである。

宝探しの旅にでかけたが、
王様を満足させるような
至宝を見つけることは困難を極めた.
何しろ、金や宝石は充分に
所持している王だ。
国中探しても見つからず、
年月が過ぎ去ってゆく。
家に残した最愛の妻の
ことが気にかかる。

そんなある日。
ある町の骨董屋の前を
通り過ぎようとすると、
気になる看板が目に入った。

「堪忍の袋、値千金」

どんな値のある物かと、
店に入り、店主にたずねた。
「堪忍の袋、値千金とあるが、
 そんなに価値のあるものか」
すると主人、
「ハイハイございますとも、
 使い方によれば千金にも万金にも
値します」
「それならば買い求めよう」
と大枚千金を投じて、
堪忍袋を買うことに決めた.

しばらくして店の主人が
持ってきたのは、首からかける袋で
中には紙切れが入れてある。

読んでみると、
「長く慮(おもんばか)りて、
 諦(あきらか)に思惟せよ。
 まさににわかに怒りを行うべからず。
 今日用いずといえども
 たまたま、まさに用ゆる時もあるべし」
と記されていた。

簡単にいうと、こうなるだろう。

怒りの心が起きた時、
そのまま行動するのではなく、
数を数えて、時間をとって、
怒りがおさまるまで動くな。
そして、少し心が落ち着いたら、
怒りの出所を考えよう。
それから行動しても遅くはないぞ。
堪忍の袋、値千金

といったところだろう。

家来は宝物を早く王様に献上しようと
帰りを急いだ。
城に赴く前に愛妻に
あっておきたいし、
身支度を整えてからと思い、
家に帰ってみた。

ところが昼なのにカギがかかり、
家の中からは妻と誰かの
話し声が聞こえる。

「俺がこんなに苦労している時に、
 あいつは浮気をしていたのか」

妻の裏切りに激怒した家来は
刀を抜き、家の中に
暴れこもうとした。その時だった。
刀を抜こうとしていた手に
ポンと当たるものがあった。
あの首にかけていた堪忍袋だ。

急いで袋の中をのぞいた。
「怒りの心が起きた時、」 
今がその時だ。

「怒りのままに行動するのではなく」
このまま行動すれば、
家の中に入って、妻も浮気相手も
惨殺することは間違いない。

「数を数えよ」
家来は怒りながらも数を数えはじめた。

「イチ、畜生、俺がこんなに
 苦労して帰ってきたのに」

「ニイ、あいつ、
 誰と浮気をしているのか」

「サン、シイ」

と数えている内に大分、
心が落ち着いてきた。

「怒りの出所を考えよ」とある。
そこで思惟した。

「あいつが浮気したからだ。」
「でもまだ浮気したかどうか
 確証はないぞ」

「しかし昼にカギをかけ、
 ひそひそ話はおかしいでは
 ないか」

「でも誰と話をしているか、
 分からないじゃか」

そうだ、刀を抜くのは相手を
確かめてからでも遅くないと、
家来は抜きかけた刀を鞘にもどした。

そして、平常心を取り戻し、
家の中に入ってみて、驚いた。
夫を待ちわびて妻が大病にかかり、
実家の母がその看病に来て、
娘をなぐさめていたではないか。

家来はつくづく思った。
怒りのままで行動していたら、
大変なことになっていた。
最愛の妻を殺していただろう。
殺さなくても二人の間に
取り返しのつかない亀裂が
生じたに違いない。
この堪忍の袋、私にとって
千金どころか万金、億金に値した。

貴重な体験を堪忍の袋と
共に王に献上したのである。
するとアショカ王。

「よくぞ、素晴らしい宝を見つけてきた。
 この堪忍の袋、お前には千金か、
 万金かもしれぬが、
 私には大変な宝だ。
 王が怒れば、隣の国と戦争になり、
 何千、何万の若者が
 戦死し、その家族も泣くであろう。
 それもたった一時の怒りからだ。
 この堪忍袋、億金、兆金に値する」

と大変喜ばれ、これが釈迦の金言を知るや。
厚い仏法の外護者となり、
仏典の結集(けつじゅう)の
立役者ともなったのである。

「堪忍のなる堪忍は
  誰もする
   ならぬ堪忍、
    するが堪忍」

一日一訓(2日 主婦の笑顔は家庭の光)

2011年09月02日 | 一日一訓
一日一訓(2日 主婦の笑顔は家庭の光)

「主婦の笑顔は
 家庭の光」

心からの美しい笑顔こそ
正に人生の花である。

純粋無垢な笑顔に接する時、
人は一瞬人生の苦労を忘れ、
生き甲斐さえ感じる。

笑顔は周囲全体を和ませ、
トゲトゲしい対人関係を
スムーズにする。

昔から

「笑う門には、福来る」

と言われる。

アメリカの、カーネギーは、

「ほほ笑みは、人間が持つ、
 独特の自己表現法である。
 この貴い天の賜物を、
 正しく活用することは、
 人間のもっている一大特権である」

と指摘している。

考えてみると、ほほえみ程、
元手のいらぬものは珍しい。
人を喜ばせるには多少とも
元手のいるのが、
セチ辛い世の中の常である。

ところが、ほほ笑みは、
元手が全然いらないばかりか、
周囲全体を和ませ、
トゲトゲしい対人関係をスムーズにする。
勢い、仕事の能率もグンとはかどる外、
第一、自分の健康に大変よいのである。

特に

「女は愛嬌」とか、

「主婦の笑顔は、家庭の光」

などと言われるように、
女性に微笑が要求される。

全国を回っている
富山の売薬屋さんから
聞いた話。

行商に行くと商売相手は、
殆ど、主人でなく主婦である。

応接に出てきた奥さんが、
明るい顔している家と、
くすぶった顔している家とがある。

明るい笑顔を湛えている奥さんの家は、
一、二年後に行ってみると、
必ず家を新築したり、改築したり、
庭がきれいになっている。

ところが、苦虫噛みつぶしたような
奥さんの家は、
相変わらず玄関の履物が散らばり
屋根瓦が落ちたりしている。

一家の盛衰は、主婦できまる。
と永年の体験を聞かされて
感心したことがある。

実に、ほほ笑みを忘れた人間程、
みじめな、気の毒な人はいない。
こんな人は、あたり一面に、
メタンガスを撒き散らし、
自損損他になる。

親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われた者は、
心に歓喜が多くなり、
苦労の人生を笑って
暮らせる人になれると、
心多歓喜の大益を教えていられる。

笑うにも笑えない
苦悩充満しているこの人生を、
心から愉しく笑って暮らすには、
早く信心決定して、
阿弥陀仏より心多歓喜の妙益を
頂戴するより外にない。