一日一訓(1日 一緒に腹を立てないようにしよう)
「一緒に腹を立てないようにしよう」
日本の歴史に残る
赤穂浪士の歴史は正に
怒りが生み出した惨事で
あった。
そもそも、この事件は、
ささいなプライドを
傷つけられた吉良上野介の
「怒り」が発端だった。
それが浅野内匠頭の
「怒り」を誘い、
江戸城で刃を抜かせたのだ。
今また、将軍・綱吉の「怒り」が、
赤穂浪士の義憤という名の
「怒り」に火をつけた。
「怒り」は連鎖する。
誰かが、どこかで
止めなければ、
不幸は拡散し続ける一方である。
「一緒に腹を
立てないようにしよう」
とは、どちらかが
怒りの心を抑えたならば、
大喧嘩という悲劇は
起こらないからだ。
では、罪を免れた吉良上野介は、
何か得をしたのか。
「おとがめなし」
と聞いた時は、
ほっとしただろう。
しかし、それは
人間の裁きである。
人間が、どう言おうが、
因果の道理は曲げられない。
まいたタネは必ず生える。
それが善いタネ(行為)ならば
善い結果、
悪いタネ(行為)ならば
悪い結果が、自分の
身の上に現れるのだ。
遅いか、早いかの
違いだけである。
松の廊下の刃傷事件は、
広く世間に知れ渡った。
上野介は、自分を
悪者のように言う声が
多いことに腹が立ち、
「高家」を辞職。
家督も孫の義周に譲り、
自宅に引きこもるようになった。
そのうえ、
「赤穂の浪人は、
必ず、主君の敵を
討つだろう」
といううわさが、
まことしやかに
流れていた。
世間じゅうが
「吉良を、早く殺せ!」
と叫び、芝居でも
見るように、
「まだか、まだか」
と成り行きを楽しんで
いるようにさえ感じる。
これは、実に恐ろしい。
上野介にしてみれば、
いつ自宅に殺人鬼が
刃物を振りかざして
襲ってくるか分からない、
という心境だ。
一時として、
心の安まることのない
日々が一年九カ月も
続いた揚げ句、
元禄15年(1702)
12月14日の深夜、
ついに47人の赤穂浪士が、
屋敷へ向かったのである。
戦闘は2時間近くも続き、
吉良方は17人が斬り殺され、
20数人が負傷した。
上野介は、がたがた震えて、
台所の近くの炭部屋に
隠れていた。
しかし、明け方に
なって発見され、
首を斬られたのである。
赤穂浪士は、数人が
軽傷を負っただけで
全員無事だった。
上野介の白髪首を、
槍の柄に結びつけ、
意気揚々と隊列を
組んで引き上げていく。
それを見て江戸の人々は、
「やった!」
「ついに、やってくれた!」
と拍手喝采し、
赤穂浪士の快挙に
沸き立ったという。
上野介にとっては、
これほど残酷な最期は
ないだろう。
まさに、自業自得というべきか。
それだけではない。
吉良家は、幕府の命に
よって取りつぶされた。
赤穂浪士の襲撃を
防げなかった責任を
問われたのである。
吉良家の当主・義周は
流罪に処せられ、
間もなく病死。
浅野家に続いて吉良家も、
断絶したのである。
「怒りは無謀に始まり、
後悔に終わるものだ」
「一緒に腹を立てないようにしよう」
日本の歴史に残る
赤穂浪士の歴史は正に
怒りが生み出した惨事で
あった。
そもそも、この事件は、
ささいなプライドを
傷つけられた吉良上野介の
「怒り」が発端だった。
それが浅野内匠頭の
「怒り」を誘い、
江戸城で刃を抜かせたのだ。
今また、将軍・綱吉の「怒り」が、
赤穂浪士の義憤という名の
「怒り」に火をつけた。
「怒り」は連鎖する。
誰かが、どこかで
止めなければ、
不幸は拡散し続ける一方である。
「一緒に腹を
立てないようにしよう」
とは、どちらかが
怒りの心を抑えたならば、
大喧嘩という悲劇は
起こらないからだ。
では、罪を免れた吉良上野介は、
何か得をしたのか。
「おとがめなし」
と聞いた時は、
ほっとしただろう。
しかし、それは
人間の裁きである。
人間が、どう言おうが、
因果の道理は曲げられない。
まいたタネは必ず生える。
それが善いタネ(行為)ならば
善い結果、
悪いタネ(行為)ならば
悪い結果が、自分の
身の上に現れるのだ。
遅いか、早いかの
違いだけである。
松の廊下の刃傷事件は、
広く世間に知れ渡った。
上野介は、自分を
悪者のように言う声が
多いことに腹が立ち、
「高家」を辞職。
家督も孫の義周に譲り、
自宅に引きこもるようになった。
そのうえ、
「赤穂の浪人は、
必ず、主君の敵を
討つだろう」
といううわさが、
まことしやかに
流れていた。
世間じゅうが
「吉良を、早く殺せ!」
と叫び、芝居でも
見るように、
「まだか、まだか」
と成り行きを楽しんで
いるようにさえ感じる。
これは、実に恐ろしい。
上野介にしてみれば、
いつ自宅に殺人鬼が
刃物を振りかざして
襲ってくるか分からない、
という心境だ。
一時として、
心の安まることのない
日々が一年九カ月も
続いた揚げ句、
元禄15年(1702)
12月14日の深夜、
ついに47人の赤穂浪士が、
屋敷へ向かったのである。
戦闘は2時間近くも続き、
吉良方は17人が斬り殺され、
20数人が負傷した。
上野介は、がたがた震えて、
台所の近くの炭部屋に
隠れていた。
しかし、明け方に
なって発見され、
首を斬られたのである。
赤穂浪士は、数人が
軽傷を負っただけで
全員無事だった。
上野介の白髪首を、
槍の柄に結びつけ、
意気揚々と隊列を
組んで引き上げていく。
それを見て江戸の人々は、
「やった!」
「ついに、やってくれた!」
と拍手喝采し、
赤穂浪士の快挙に
沸き立ったという。
上野介にとっては、
これほど残酷な最期は
ないだろう。
まさに、自業自得というべきか。
それだけではない。
吉良家は、幕府の命に
よって取りつぶされた。
赤穂浪士の襲撃を
防げなかった責任を
問われたのである。
吉良家の当主・義周は
流罪に処せられ、
間もなく病死。
浅野家に続いて吉良家も、
断絶したのである。
「怒りは無謀に始まり、
後悔に終わるものだ」