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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

一日一訓(30日 誤りを犯さないことを)

2011年10月30日 | 一日一訓
一日一訓(30日 誤りを犯さないことを)

「誤りを犯さないことを誇りとするよりも
   誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」

鎌倉時代のこと。
刀工日本一を決定しようと、
十八人を選抜し、おのおの、一刀を造らせた。
 
かの有名な岡崎正宗や郷義弘の
名刀工も、その中にいた。

厳しい審査の結果、正宗の刀が
最良と判定されたのである。

「これにはなにか、ワケがあるにちがいない。
 正宗のやつ、ワイロを使ったのかもしれぬ」
 
当代一の名刀鍛冶を自負していた
越中の国・松倉の義弘は、
とても釈然とはできなかった。

自分をだしぬく者を容認できない自信過剰の義弘。

「このうえは決闘を申しこみ、決着をつけよう」

と、鎌倉の正宗を訪ねた。
ちょうど、刀を鍛えている真っ最中か。
さかんにトンテンカン、トンテンカンと
すんだ音が聞こえてくる。

こっそり鍛冶場をのぞきこんだ義弘は驚いた。
清められた仕事場に、袴をつけ、
端然として槌を打っている、
こうごうしいほどの正宗の姿にであった。

なにも知らない正宗は、
はるばる遠方から訪ねてくれた義弘を、
心から歓待した。

「いままで私は、あなたを疑い、恨み、
 決闘まで覚悟してきましたが、
 大きな誤りでした。
 あなたの鍛練ぶりを拝見させていただき、
 いかにも威儀正しく、
 精魂こめて刀を造っていられる。
 それにくらべて私は、暑ければ肌をぬぎ、
 ノドがかわけば飲むといったありさまで、
 とてもあなたとは比較になりません。
 技術や腕力だけでは、とうてい、
 名刀はできないことを知らされました」
 
一部始終をうちあけた義弘は、
ぜひ弟子にしてもらいたいとたのんだ。

正宗は謙遜して断ったが、
どうしてもと義弘がたのむので、
ついに許したという。


一日一訓(29日 他人にゆずる気持ちを持つようにしよう)

2011年10月29日 | 一日一訓
一日一訓(29日 他人にゆずる気持ちを持つようにしよう)

「他人にゆずる気持ちを持つようにしよう」

無財の七施の第六の牀座施は、
場所や席をゆずり合う親切をいう。

すなわちお年寄りや病気の方、
立つことに苦しんでいる人に
自分の席を譲り、相手を安心して
座ってもらうという親切である。

しかし、これがなかなかできないものである。

私たちはコンピューターよりも
早く損得を計算してしまう。

そして、得だなと思えばするが、
損になるなと思えばできない。
これが譲り合いだ。

電車に乗ると席がたまたま
空いていた。

すると次の駅でお年寄りが乗り込んできて、
他のところにいけばよいのに、
自分のところにやってくる。

元気がいい時にはこう思うだろう。

「このお婆さんは優しそうな人だし、
 席を譲れば、お礼をゆうだろう。
 立てば足腰の鍛錬にもなり、
 周りの人も親切な人と思うだろう」

どこをとっても損はしない、
となると
「大変でしょう、ここに座ってください」
と、気持ちよく変わることができる。

そんな時にはお婆さんも
「親切な方ね。有難う」と
お礼をいってくれ、
お互いに気持ちの良いものである。

ところが、少し疲れていたらどうなるか。

すんなりと代われるだろうか。
こんな考えが頭に浮かぶ。

「このお婆さんは普通の人だな、
 最近のお婆さんは礼儀知らずが多いからな。
 立つもつらいし、他に代われる人はおらんのか。
 周りにはあまり可愛い子もいないし、
 どうしよう」

と、なかなか席を譲れない。

お婆さんの
「早く譲らんかい」の視線に負けて、
仕方なく、

「お婆さん、どうぞ」

と代わっても、お婆さんは

「遅すぎるわ」

という気持ちからか、
ロクにお礼も言わずに座る。

するとやっと代わってやったのに
の思いから、

「こんな婆さん、二度と代わってやるか」

と腹ただしさだけが残ってしまうのだ。

そして、疲れ切った時にお婆さんが来ても、
タヌキ寝入りをして、絶対に代わらない。

その時の心境はこんなものだろう。

「この婆さん、なんで俺の所に
 来るのだ。
 こんな婆さん、絶対にお礼を
 言うはずがない。
 こんな時に立とうものなら、
 こちらが病気になってしまう。
 代わっても誰も認めてくれるどころか、
 きざな奴と思われるのがオチだ。
 早く、あっちへ行け」

と、お婆さんを心の中で追い払って
いないだろうか。

できる時に行う善よりも
できない時に行い善こそが
大事なのだ。

乗物の座席の取り合いから、
権力の座の争奪に到るまで、
今日の世相をみても
いかに牀座施が必要かが
知らされる。

少しでもこの牀座施があれば、
この世はどんなに素晴しく
気持よく変ることだろうか。



一日一訓(28日 総てのことを善意に解釈するようにしよう)

2011年10月28日 | 一日一訓
一日一訓(28日 総てのことを善意に解釈するようにしよう)

「総てのことを善意に
 解釈するようにしよう」

ある娘が嫁いだ。
結婚式も披露宴も
無事に済んだ翌日、
花嫁は姑に両手をついて尋ねた。

「お母さま、今日は、
 何をしたらよいでしょうか」

「まあ、ここ暫くは
 急ぐこともないし、
 お前も疲れている
 だろうから休みなさい」
 
姑は、優しく労った。

「いいえ、お母さま。
 私なら少しも
 疲れてはおりません。
 下手ですが縫物でも
 あったら手伝わせて下さい」

「そんなにまで言って
 くれるのなら、
 ゆっくりでよいから
 この着物を一枚、
 縫って貰おうか」
 
姑は、緋縮緬の
裏表打通しのものを
出して来た。

これは自分の腕試しだ。
立派に縫い上げねばと花嫁は、
その晩遅くまでかかって仕立て上げた。

「お早うございます、
 お母さま。
 昨日お預りしました縮緬の着物、
 不出来ではございますが
 やっと縫い上げました。
 どうぞ、ごらん下さい」
 
あまりの速いのと、
見れば実に綺麗に
縫えているのに、
姑は二度びっくり。
早速、近所隣まで見せに
廻るという喜びようであった。

花嫁は嬉しさが胸一杯に
こみあげてくると同時に、
実家の母のことが
思い出されて泣いた。

日頃、

「こんな縫い様があるか」
「何という不調法な子だろう」
「もっと性根を入れて縫わないか」

と散々叱られて、
幾度も縫い直しを
させられた時は、
母を恨み怒っていた
自分であった。

しかしあのように、
厳しく叱って鍛えて
おいて下されたからこそ、
皆さんに誉めて貰えることが
できたのだ。

今にしてはじめて、
尊い母の心づかいを
知って花嫁は、
親心の有り難さに
泣いたという。

「にくくては
  叩かぬものぞ
    笹の雪」


一日一訓(27日 現在は過去と未来を解く鍵である)

2011年10月27日 | 一日一訓
一日一訓(27日 現在は過去と未来を解く鍵である)

「現在は過去と未来を解く鍵である」

あどけない子供たちが、
いわれなき殺され方をすると、
やりきれぬ気持ちになる。

だが、
「これも仏法では、前世の業として片づけてよいのか」

という、不満を述べる人が少なからずいる。

ご承知のように仏法は、釈尊一代の教え。
 
その根幹は、三世十方を貫く
因果の理法であることは一切経を見れば明らかだ。
 
因果の理法とは、
「まいたタネは、必ず生える」が、
「まかぬタネは、絶対に生えぬ」ということ。
 
しかも、因と果の関係は、
善因善果、悪因悪果、自因自果であることは、
いつでもどこでも変わらず、
現在世だけではなく、
過去世、未来世の三世を貫く道理だと
厳然と説き切られている。
 
それを『経』には、次のように説かれている。

「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
 未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」
   (因果経)

過去にまいた因を知りたければ、
現在、現れている結果を見れば分かる。
未来の運命を知りたければ、
現在、まいている因を見れば分かる。

「因」とは「行為」のことであり、
「運命」とは「結果」のことである。
 
現在世の結果は、過去世にまいた因によって
現れたものであり、
現在世にまいた因によって
未来世の結果(運命)は決まる、
ということである。
 
これを三世因果といい、
仏教を信ずるとは三世因果を信ずることをいう。
 
ただここで、ぜひ知っておかねばならないのは、
通常、因果の道理というが、
正しくは、因、縁、果の道理ということである。
 
仏教は、すべての結果は因と縁の和合で
現れると説かれている。
 
一例をあげますと、
「米」という結果の因はモミダネ。
温度や空気、土壌は縁である。

米は、モミダネの因だけでもできないし、
温度や湿度、空気や土壌の縁だけでもできない。
 
それらの因と縁がそろって、
初めて「米」という結果が生まれる。

因果の理法というのは、
あくまでも縁を因にふくめての言い方である。
 
かつて、東京の通り魔事件で数人が殺傷された。
犠牲者には、母にひかれた乳母車の幼児も
入っていたことに、大きなショックをうけた。

「あんな幼児に、なんの罪があって……」

と、多くの人は嘆き、

「あれも幼児の過去世の業として、
 片づけるのはムゴイ」

と、思われただろう。心情はよく分かる。
 
だが、その幼児に全く関係のないことが、
幼児の身に起きるはずがない。
 
事実、そこに居合わせたほかの多くの幼児に、
そんな結果が起きなかったのに、
なぜ、その幼児だけに、そんなことが起きたのだろう。
 
幼児の結果は、その時その場へ
通り合わせたところに原因があったのだ。
それは、幼児自身の過去の業因にちがいない。
 
そのような「因」に、
通り魔という「縁」が加わって
起きた、悲しい「結果」なのである。

同じ時、同じ所を通っていても、
悲運に遭わなかった人はたくさんあった。
それは通り魔という悪い「縁」はあったのだが
「因」がなかったからである。
 
当然、このような通り魔という悪縁は、
厳しく処罰されなければならないし、
一切の悪縁の根絶に、全力を尽くさなければならない。

「こんなことも、前世の業として片づけるのか。
 ムゴイ。無慈悲だ。アキラメ主義だ」

と仏法を誤解されるのは、
因と縁とをゴッチャにしていられるところに
あるのではないだろうか。

仏教は、このような反省と同時に、
無慈悲にツッパネルのでもなく、
アキラメよというのでもなく、
早く弥陀の絶対の救いに値って、
苦悩の人生を歓喜法悦の人生になって頂くために
説かれているということも、
ぜひ知って頂きたい。





一日一訓(26日 蒔かぬタネは生えぬ)

2011年10月26日 | 一日一訓
一日一訓(26日 蒔かぬタネは生えぬ)

「蒔かぬタネは生えぬ 刈りとらねばならぬ一切のものは
   自分のまいたものばかり」

昔、茗荷というものは、
忘れ薬になると聞いていた宿屋の夫婦がいた。

ある時、金持ちらしい客が、
大きなカバンを持って投宿した。
欲深い宿屋の夫婦は、
何とかあのカバンを忘れてゆかせようと、
食事を茗荷の料理ずくめにすることに一決する。

茗荷の吸い物、茗荷の煮物、茗荷のあえもの、
茗荷のひたしものを御膳にすえて弁明した。

「お客さま、田舎のことで何も仕様がございません。
 裏の畑の茗荷で少々作ってまいりました。
 どうぞ、召し上がってくださいませ」

「ああさようか。ワシは茗荷が大好物でなあ。
 これはこれは、ご馳走さまじゃ」
 
夫婦は寝物語に、明日の朝食も茗荷ばかり出せば、
あのカバンは間違いなく忘れて帰るぞ。
おまえには着物を買ってやる、
オレは上等の洋服にしようか、
などと胸ふくらませて就寝した。

翌朝、

「お客さま、まことにお粗末でしたが
 お好きとおっしゃいましたので、
 今朝もまた茗荷を出させて頂きました」。

「おお、それはけっこう、けっこう。
 ああ、なるほどこの味噌汁は茗荷、
 これは茗荷の煮もの、これは茗荷の焼き物、
 みんなおいしい、おいしい」
 
やがて上機嫌で客は出てゆく。

「オイ、早くあの客のいた座敷を探せ! 
 何か忘れてあるはずだ。
 ドレドレ押し入れの中かなあ。
 ナニ、戸棚の中かな、待てよ便所かな、
 机の下にもないが、畳をまくって見よ。
 ハテナどうしたのだろう、
 なんにも忘れてないぞ。おかしいなぁ」

と思案していると、大声上げて妻が飛んできた。

「あんた大変よ。宿賃もらうの忘れたよ」

年末ジャンボ宝クジを買ったサラリーマン夫婦が
盛んに論じている。

「一億円当たったらどうする」

「二人でもらいに行きましょうよ」

「強盗に狙われるかもしれないぞ」

「すぐに郵便局へ預金しましょう」

「おまえは、何に使うつもりだ」

「大きなマイホームが欲しいのよ。
 そして娘に近所にない、
 ピアノを買ってやりたいの」

「じゃオレは、高級車を買おうか」

「その車でどこか遠くへ、
 ドライブに行きましょうよ」
 そこへやってきた娘が笑った。

「当たりもせんのに、なに言っているのよ。
 タヌキの皮算用じゃないの」
 
災いは他人に、幸せは自分に来るものと、
みな思っている。


一日一訓(25日 この世で最も不幸な人は 感謝の心のない人である)

2011年10月25日 | 一日一訓
一日一訓(25日 この世で最も不幸な人は 感謝の心のない人である)

「この世で最も不幸な人は 感謝の心のない人である」

「ご恩をありがたく感謝する者は成功し、
 恩を当然と受け流す者は信用を失い、
 恩を仇で返す者は身を滅ぼす」

といわれる。

「恩知らず」といわれるほどの、
情けない、恥ずかしいことはない。

これまで、

「それくらい、してくれて当たり前じゃないの」

と思ってきた日常を、少し深く考えてみると、

「決して、やってもらえるのが、
 当たり前じゃなかった」

と、反省させられることは、ないだろうか。

目に見えるものだけでなく、
目に見えない、さまざまなご恩、
いかに大きなご恩に生かされているかを、
仏法では教えられている。

自分が一番苦労していると、各自思っている。
他人の良いところばかりが、目につき腹が立つ。
ホントは、一番のんびりしているのが私。
みんなは、ギリギリ一杯努力しているのだ。
これが事実と思えないから、
「おかげさまで」と感謝できず、
「ありがとう」の言葉が出ない。

如何に恩を知り、感じ、その恩に報いることが
大切であるかを親鸞聖人が教えておられる。

親鸞聖人90年のご生涯は正に
身を粉にし、骨を野砕きの恩徳讃、
そのままであった。

その親鸞聖人に対して、世間から法友から
浴びせられたのは「恩知らず」の
罵声であった。

「二十年間も世話になりながら、
 その比叡山を非難する背恩逆恩は何事だ。
 恩知らずの親鸞奴」

の権力者、僧侶からの猛攻。

ところが

「無慚無愧の親鸞なれど、
 教に昏く真仮の門戸も知らず、
 自性唯心に沈んで浄土の真証を貶する輩と
 妥協することはできぬのだ」

とバッサリ斬って猛進して下されたからこそ
我々は全人類の救われるたった一本の道である
弥陀の本願を聞かせて頂けるのだ。

また、34歳の御時になされた三大諍論から
巻き起こったものは
共に法然上人の御許で真実を
聞かせて頂き、学ばさせて頂いていた
380余人の法友からの

「よくもお師匠さまの前で
 大恥かかせてくれたな」

という聖人に対する憤りの後悔であった。
 
これが原因で親鸞聖人は、
法友からことごとく白眼視され、
ついには「背師自立の恩知らず」と
罵倒されるようにまでなったのである。
 
何時の世も、真実はたった一つ。
真実に背く一切の邪悪を破り、
正法を顕示することは、
仏法者の崇高な使命である。

「和するを以て貴しとなす」

と十七条憲法に謳った聖徳太子を、
「和国の教主」(日本のお釈迦さま)とまで
尊敬なされた聖人。

争いごとは、決して好まれなかった方なのに、
なぜそこまで、と誰しも思う。

それには、やむにやまれぬ理由があった。
全人類が救われるたった一本の道、
阿弥陀仏の本願に関することだったからである。
 
仏法者にとって、言われて一番辛い
「恩知らず」の汚名を着せられながら、
弥陀のご恩に感謝して、
報恩の道をだたひたすら歩まれたのが、
世界の光親鸞聖人なのである。

一日一訓(24日 沈んで屈するな 浮んで奢るな)

2011年10月24日 | 一日一訓
一日一訓(24日 沈んで屈するな 浮んで奢るな)

「沈んで屈するな 浮んで奢るな」

明治前期の大実業家
岩崎弥太郎氏は、
剛直果断の性格で、
明治時代の代表的富豪であった。

ところがどうしたことか、
常に藁草履をはいたまま、
大臣の官邸などに出かけた。

不審に思った人がたずねると、

「母の言いつけだ」

と答えた。

岩崎弥太郎氏の母は、
わが子が天下の富豪に
なってからも、
常に藁草履を作ってはいていた。

そして弥太郎氏にも、

「おまえも、これをはきなさい」

と言って、

「富んでも、昔の貧しさを忘れて、
 おごってはなりませんよ」

と教訓したという。

ある人が、アメリカの
大実業家のところへ、
救済事業の寄付をたのみにいった。

実業家は、そのとき、

「ほんのわずかばかり
 使えばすむものを、
 なぜこんなに
 たくさん使ったのだ」

と、使用人を叱っている。

なにをそんなに、
叱られるほど使ったのかと、
よくよく聞けば糊であった。

たかが糊ぐらいのことで、
あんなにケチケチ
しているのだから、
寄付などは思いも
よらぬことと思いながらも、
せっかくきたのだからと
用件を話すと、即座に、
五百ドルの大金を、
快く寄付してくれた。

ことの意外に、
びっくりしてたずねると、

「私は平生、
 少しの糊でも
 無駄にせぬように
 心がけている。
 だから寄付もできるのです」

と、答えたという。

物を粗末にする者は、
物から嫌われるから、
不自由しなければ
ならないのだ。

すべては人生の目的を
果たすためのものなのだから、
わずかの物でも
粗末にしてはならない。




一日一訓(23日)(最も勇気ある行為とは)

2011年10月23日 | 一日一訓
一日一訓(23日)(最も勇気ある行為とは)

「最も勇気ある行為とは
 最も困難なことにあたる行為である」

蓮如上人の北陸布教の基地、
吉崎御坊(福井県)が炎上したのは
文明六年三月二十八日のことだった。

六十歳に達せられ、
とかく日常の挙動さえも、
もの憂き頃の上人は、

「火事だ!」

と聞かれるや、
取るものも取りあえず外へ飛び出される。

「しまった!」

大きく叫ばれたのはその直後であった。
どんな人にも不覚はあるもの。
拝読中の親鸞聖人の真筆『教行信証』「証の巻」を、
居間に置き忘れられたのである。

あまりの失態に驚き、
取りに戻ろうとされる決死の上人を、
弟子の本光房は見のがさなかった。

「お師匠さま。私にお任せください。
 必ずお守り申します」
 
叫ぶや否や脱兎のごとく、
黒煙渦巻く猛火に躍りこんだ。
地獄の炎の中をくぐり抜け、
やっとの思いで上人の居間にたどり着いた本光房は、
無事であった聖教をしっかりと握りしめ安堵した。

が、時すでに火は八方に回り、
脱出する術は絶えていた。

「大事なお聖教をお守りし、
 上人の御心を安んじ奉るには、今はこれまで」
 
悲壮な覚悟をした本光房は、
やおら懐剣を取り出し腹十文字にかき切り、
臓腑の中深く聖教を押し込み、
五体を残忍な火炎にまかせた。

火が鎮まり、上人の居間あたりに
焼死体が静かに横たわっていた。
黒焦げの死骸からは、
不思議にも護法の血に染まった聖教が、
無傷のままで発見された。

無残な焼け跡に立たれた蓮如上人は、
愛しい本光房の死骸を撫でながら、

「本光房よ。そなたの勇猛果敢な殉教に、
 蓮如、心からお礼を言うぞ。
 そなたに守られた親鸞聖人の著作は、
 必ずや世界の光となって、
 人々を真実の幸福に導くであろう」。
 
その涙はとめどもなくキラキラと、
夕日に輝いていた。

真実に死ねる者は、永遠に生き抜く無上人である。




一日一訓(22日 恐れを知って)

2011年10月22日 | 一日一訓
一日一訓(22日 恐れを知って)

「恐れを知って、
しかもそれを恐れない者こそ
真の大勇気者である」

武士とはいえ一向に、
剣の素養も仕合い度胸もない男がいた。

ある日往来で、事もあろうに
百人斬りを試さんとしている荒武者に、
果たし合いを申しこまれたのだ。

剣で立つ武士の身、
売られた仕合い逃げるわけにはゆかぬ。

困り果てたすえ主人の用に事よせて、
しばしの余裕を請い、近くの剣道の達人を訪ねた。

一切の事情を打ち明け、
武士としての仕合いの心得と、
最上の斬られ方、死に方の伝授を願いでた。

達人も覚悟のほどに感服し、
仕合い前の作法から着物のたたみ方まで
ねんごろに指導し、最後に、
相打ちの法というのを教えた。

身を斬らせて骨を断つ。
己の命も捨てるが相手の生命も必ず断つという、
相打ちの法である。

「まず敵の、五、六歩前で大上段に身構える。
 後、静かに両目を閉じ心眼を開いて
 一心に相手の斬り込むのを待つ。
 敵の剣気を感ずると同時に、
 己の太刀を思い切り打ちおろす。
 されば我が身も斬られようが相手の身体も、
 まっ二つになるであろう」
 
武士は達人に深謝して約束の場所へ行くと、
件の武士は、すでに用意万端まち構えていた。

すでに覚悟を決していた武士は、
今し方教導されたとおりに作法正しく着物をたたみ、
堂々と進み出て大上段に身構え、
懸命に相手の動きに専心し機を待った。

ところがなかなか打って来る気配はなく、
一向に剣気が湧かぬ。

やがて、おいおい集まってきた大衆のどよめきとともに、

「参った」

という声が聞こえたので、目を開いて驚いた。

「実に恐れ入ったお手並み、
 到底、我が輩などの及ぶところではござらぬ。
 その気合、寸分の隙もない構え、
 何とぞその極意を教えてくだされ」
 
脂汗にまみれた荒武者が、眼前に平身低頭していたという。

背水の陣ともいう。
捨て身ほどおそろしいものはない。
一身を捨ててかかれば
何事も成就せぬことはないのである。








一日一訓(21日 苦しみから目をそらさず 凝視するようにしよう)

2011年10月21日 | 一日一訓
一日一訓(21日 苦しみから目をそらさず 凝視するようにしよう)

「苦しみから目をそらさず 凝視するようにしよう」

昔、呉服物を担って、
いつも碓氷峠を越えていた
二人の商人がいた。

一人があるとき、
さぞ疲れたように、
路傍の石に腰をおろす。

「疲れたではないか、
 ひと休みしよう。
 この峠が、もう少し
 低かったら楽に越されて、
 うんともうけられるのになァ。
 おまえ、そうは思わんか」
 
うらめしそうに、
高い峠を見上げた。

「オレはそうは思わない。
 それどころか、
 この峠が、もっともっと高くて、
 険しかったらいいと思っている」
 
そう答えたのは、
連れの江州商人である。
先の商人はいぶかって、

「どうしてだ。
 おまえは苦労がしたいのか。
 おかしなやつだ」

とニガ笑いした。

「そうじゃないか。
 この峠が楽に越されたら、
 だれでも越して商売するから、
 あまりもうからないのだ。
 この峠が、もっと高くて
 険しければ、だれも、
 この峠を越えて商いを
 する者がいなくなる。
 それを越していけば、
 商売は大繁盛するのだ」
 
江州商人で成功した人が多い。
さすが生き馬の目を
抜くといわれる、
江州商人の気迫ではないか。

成功は努力の結晶である。
楽にえられるものは、
貧と恥のみである。

「難の難 乗り越えてこそ 光あり」