法華経と浄土三部経(阿弥陀経が出世本懐経である根拠)
阿弥陀経は一切経の中で無問自説の経と
呼ばれている。
無問自説が阿弥陀経の最大の特徴と
なっている。
弟子達の誰の問いを待たずに釈迦が自ら説かれたのだ。
これはどういう理由があってのことだろうか。
①阿弥陀経は釈迦が誰の問いもなく、
自ら舎利弗尊者をお呼びになって、
阿弥陀仏の世界を説かれ始めた。
問わず語りである。
これは余程、釈尊はご機嫌が良かったからに
違いない。
それもそのはず。
阿弥陀経の内容は、釈迦が35歳、
仏の覚りを開かれてより、
本師本仏の阿弥陀仏のこと一つ
説かれたかった。
正にその時が来たのだ。
②智慧第一の舎利弗が
阿弥陀経の中で36回も呼びかけられながら、
一言も返答はないのである。
こんな失礼なことはない。
しかし、釈迦は叱ってはおられない。
それは、阿弥陀経の内容が
どんなに智恵第一といわれた舎利弗尊者でさえ、
おどろきあきれて、一言も発せることが
できなかったのだ。
人間の自力の智慧の限界をはるかに
超えているということである。
③また、阿弥陀仏の説法の相手は
十方衆生すべてであった。
阿弥陀仏を聞きにきた人は
十大弟子をはじめとする弟子達
文殊・弥勒をはじめとする菩薩達
その他、諸天大衆と
男女・貴賎を問わず、すべての人であった。
十方衆生に
「この阿弥陀経を聞かなかったなら
仏教を聞いたことにはならないぞ」
と説き聞かせられたのである。
親鸞聖人は
「この『経』(阿弥陀経)は
大乗修多羅のなかの無問自説経なり。
しかれば如来、世に興出したまふゆえは、
恒沙の諸仏の証護の正意、
ただこれにあるなり。」
(教行信証化土巻)
と阿弥陀経が出世本懐の経であることを
明らかにしておられる。
親鸞聖人は『教行信証』に
「衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞という」
と仰せになっているように、
仏教を教えるということは
阿弥陀仏の本願の生起本末を説くということであり、
仏教を聞くということは
阿弥陀仏の本願の起こった一部始終を聞いて
疑心のなくなったことをいうのである。
では、阿弥陀仏の本願は、どうして起こされたのであろうか。
その生起本末を明らかにしよう。
「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。
心偏に常没の衆生を憐念す」
と説かれているように、一生造悪、必堕無間の我我を
あわれんだ三世の諸仏方は、
何とか救わんと大慈悲心を起こして下された。
だが、残念なことには、我々の罪業が余りにも重く、
諸仏の力ではとても救うことが不可能であった。
そこで諸仏は「汝らは仏法修行の器に非ず」と
背相を見せて逃げたのだ。
我々は諸仏から見捨てられた極重の悪人なのである。
このことは『悲華経』に
「煩悩多き衆生は賢劫の一千余仏が放捨する所」
と説き、
『不空絹索神変真言経』には
「常に十方三世の一劫の如来、一切の菩薩の棄捨する所」
とも説かれている。
『教行信証』にはこのことが詳しく説示せられている。
然るに、他人に嫌われるような子供は、
なお可愛い親心のように、
かゝる三世の諸仏や一切の菩薩に見捨てられた極悪人ならば
尚更捨ててはおけないと大悲やるせなく、
立ち上がって下されたのが阿弥陀如来であり、
建てられた願いを弥陀の本願というのである。
蓮如上人は、これを平易に
「この阿弥陀仏と申すは、如何ようなる仏ぞ、
また如何ようなる機の衆生を救い給うぞというに、
三世の諸仏に捨てられたる、
あさましき我ら凡夫女人をわれひとり救わんという大願を
発したまいて五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、
それ、衆生の罪に於ては、如何なる十悪五逆・謗法闡提の輩なりと
いうとも救わんと誓いましまして、
すでに諸仏の悲願に超え勝れたまいて、
その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまへるを
即ち、阿弥陀仏とは申すなり」
(御文章三帖)と教えられている。
我々を救うことの出来る力のある仏は大宇宙広しと雖も
阿弥陀如来以外にはないのである。
否、我々凡夫だけではない。
『般舟経』には
「三世諸仏、念弥陀三昧、成等正覚」
と説いてある。
これは、釈尊も含めて一切の仏は阿弥陀仏の願力によって
成仏したということを釈尊自ら告白なさった。
、
凡夫だけでなく一切の諸仏や菩薩も、
最後は弥陀三昧によらずしては仏になることは
出来ないのである。
さればこそ釈尊も阿弥陀仏を本師本仏と崇め
『楞伽経』には
「十方もろもろの刹土に於ける衆生と菩薩の中の、
あらゆる法報身と化身と及び変化身とは、
みな無量寿(弥陀)の極楽界中より出ず」
とまで仰有っている。
一切経を読んだ天台の刑溪大師は、
「諸経に讃ずるところ、多く弥陀にあり」
と驚嘆したのも、またゆえあるかなというべきである。
あらゆる仏をして仏たらしめた仏こそ阿弥陀仏なのであるから、
我々凡夫は尚更、この仏によらずしては助かる道は絶対にないのだ。
釈尊が「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
お勧めになるのは当然至極のことである。
しかも『梵網経』には、
「われわれ此界の衆生を勧めんが為に
無勝荘厳の浄土より往きつもどりつ八千遍」
とまで説かれている。
また「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
お勧めになっているのは決して釈尊だけではない。
一切の諸仏も菩薩も、
凡て阿弥陀仏の本願を説くためにこの世にあらわれ、
これ一つを勧めることをもって、
その任務となされたことは『阿弥陀経』の中に明らかである。
即ち、東西南北上下の十方微塵世界(大宇宙)に
まします恒河の砂の数ほどの諸仏菩薩が異口同音に、
各々その国に於て広長の舌相をもって
阿弥陀仏の威神功徳の不可思議なることを
讃嘆していることが説かれている。
また、このことは『大無量寿経』の中にも
「阿弥陀仏の光明の威徳を称讃することは、
われ(釈尊)のみならず、
一切の諸仏、声聞、縁覚、諸菩薩衆、
ことごとく共に嘆誉したまうこと亦またかくの如し」
と説かれていることでも明らかである。
ではなぜ諸仏菩薩はかくの如く
阿弥陀仏を讃嘆するのであろうか。
ただに讃嘆するのではない。
我らに阿弥陀仏の本願を信じさせんがために
外ならないのである。
されば、釈尊を始めとして
一切の諸仏、菩薩の出世の本懐は、
弥陀の本願を説く為であり、
われわれに「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
勧めることをもって、その任務とされたことが
明白になったのであろう。
故に「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
鮮明に徹底的に教え勧むる方こそ、
まことの善知識ということが出来るのである。
蓮如上人が
「善知識の能というは一心一向に弥陀に
帰命したてまつるべしと人を勧むべきばかりなり」
(御文章二帖)
と仰せになっているが、
まことに善知識の任務を教えて余すところが
ないというべきであろう。
阿弥陀経は一切経の中で無問自説の経と
呼ばれている。
無問自説が阿弥陀経の最大の特徴と
なっている。
弟子達の誰の問いを待たずに釈迦が自ら説かれたのだ。
これはどういう理由があってのことだろうか。
①阿弥陀経は釈迦が誰の問いもなく、
自ら舎利弗尊者をお呼びになって、
阿弥陀仏の世界を説かれ始めた。
問わず語りである。
これは余程、釈尊はご機嫌が良かったからに
違いない。
それもそのはず。
阿弥陀経の内容は、釈迦が35歳、
仏の覚りを開かれてより、
本師本仏の阿弥陀仏のこと一つ
説かれたかった。
正にその時が来たのだ。
②智慧第一の舎利弗が
阿弥陀経の中で36回も呼びかけられながら、
一言も返答はないのである。
こんな失礼なことはない。
しかし、釈迦は叱ってはおられない。
それは、阿弥陀経の内容が
どんなに智恵第一といわれた舎利弗尊者でさえ、
おどろきあきれて、一言も発せることが
できなかったのだ。
人間の自力の智慧の限界をはるかに
超えているということである。
③また、阿弥陀仏の説法の相手は
十方衆生すべてであった。
阿弥陀仏を聞きにきた人は
十大弟子をはじめとする弟子達
文殊・弥勒をはじめとする菩薩達
その他、諸天大衆と
男女・貴賎を問わず、すべての人であった。
十方衆生に
「この阿弥陀経を聞かなかったなら
仏教を聞いたことにはならないぞ」
と説き聞かせられたのである。
親鸞聖人は
「この『経』(阿弥陀経)は
大乗修多羅のなかの無問自説経なり。
しかれば如来、世に興出したまふゆえは、
恒沙の諸仏の証護の正意、
ただこれにあるなり。」
(教行信証化土巻)
と阿弥陀経が出世本懐の経であることを
明らかにしておられる。
親鸞聖人は『教行信証』に
「衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞という」
と仰せになっているように、
仏教を教えるということは
阿弥陀仏の本願の生起本末を説くということであり、
仏教を聞くということは
阿弥陀仏の本願の起こった一部始終を聞いて
疑心のなくなったことをいうのである。
では、阿弥陀仏の本願は、どうして起こされたのであろうか。
その生起本末を明らかにしよう。
「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。
心偏に常没の衆生を憐念す」
と説かれているように、一生造悪、必堕無間の我我を
あわれんだ三世の諸仏方は、
何とか救わんと大慈悲心を起こして下された。
だが、残念なことには、我々の罪業が余りにも重く、
諸仏の力ではとても救うことが不可能であった。
そこで諸仏は「汝らは仏法修行の器に非ず」と
背相を見せて逃げたのだ。
我々は諸仏から見捨てられた極重の悪人なのである。
このことは『悲華経』に
「煩悩多き衆生は賢劫の一千余仏が放捨する所」
と説き、
『不空絹索神変真言経』には
「常に十方三世の一劫の如来、一切の菩薩の棄捨する所」
とも説かれている。
『教行信証』にはこのことが詳しく説示せられている。
然るに、他人に嫌われるような子供は、
なお可愛い親心のように、
かゝる三世の諸仏や一切の菩薩に見捨てられた極悪人ならば
尚更捨ててはおけないと大悲やるせなく、
立ち上がって下されたのが阿弥陀如来であり、
建てられた願いを弥陀の本願というのである。
蓮如上人は、これを平易に
「この阿弥陀仏と申すは、如何ようなる仏ぞ、
また如何ようなる機の衆生を救い給うぞというに、
三世の諸仏に捨てられたる、
あさましき我ら凡夫女人をわれひとり救わんという大願を
発したまいて五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、
それ、衆生の罪に於ては、如何なる十悪五逆・謗法闡提の輩なりと
いうとも救わんと誓いましまして、
すでに諸仏の悲願に超え勝れたまいて、
その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまへるを
即ち、阿弥陀仏とは申すなり」
(御文章三帖)と教えられている。
我々を救うことの出来る力のある仏は大宇宙広しと雖も
阿弥陀如来以外にはないのである。
否、我々凡夫だけではない。
『般舟経』には
「三世諸仏、念弥陀三昧、成等正覚」
と説いてある。
これは、釈尊も含めて一切の仏は阿弥陀仏の願力によって
成仏したということを釈尊自ら告白なさった。
、
凡夫だけでなく一切の諸仏や菩薩も、
最後は弥陀三昧によらずしては仏になることは
出来ないのである。
さればこそ釈尊も阿弥陀仏を本師本仏と崇め
『楞伽経』には
「十方もろもろの刹土に於ける衆生と菩薩の中の、
あらゆる法報身と化身と及び変化身とは、
みな無量寿(弥陀)の極楽界中より出ず」
とまで仰有っている。
一切経を読んだ天台の刑溪大師は、
「諸経に讃ずるところ、多く弥陀にあり」
と驚嘆したのも、またゆえあるかなというべきである。
あらゆる仏をして仏たらしめた仏こそ阿弥陀仏なのであるから、
我々凡夫は尚更、この仏によらずしては助かる道は絶対にないのだ。
釈尊が「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
お勧めになるのは当然至極のことである。
しかも『梵網経』には、
「われわれ此界の衆生を勧めんが為に
無勝荘厳の浄土より往きつもどりつ八千遍」
とまで説かれている。
また「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
お勧めになっているのは決して釈尊だけではない。
一切の諸仏も菩薩も、
凡て阿弥陀仏の本願を説くためにこの世にあらわれ、
これ一つを勧めることをもって、
その任務となされたことは『阿弥陀経』の中に明らかである。
即ち、東西南北上下の十方微塵世界(大宇宙)に
まします恒河の砂の数ほどの諸仏菩薩が異口同音に、
各々その国に於て広長の舌相をもって
阿弥陀仏の威神功徳の不可思議なることを
讃嘆していることが説かれている。
また、このことは『大無量寿経』の中にも
「阿弥陀仏の光明の威徳を称讃することは、
われ(釈尊)のみならず、
一切の諸仏、声聞、縁覚、諸菩薩衆、
ことごとく共に嘆誉したまうこと亦またかくの如し」
と説かれていることでも明らかである。
ではなぜ諸仏菩薩はかくの如く
阿弥陀仏を讃嘆するのであろうか。
ただに讃嘆するのではない。
我らに阿弥陀仏の本願を信じさせんがために
外ならないのである。
されば、釈尊を始めとして
一切の諸仏、菩薩の出世の本懐は、
弥陀の本願を説く為であり、
われわれに「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
勧めることをもって、その任務とされたことが
明白になったのであろう。
故に「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
鮮明に徹底的に教え勧むる方こそ、
まことの善知識ということが出来るのである。
蓮如上人が
「善知識の能というは一心一向に弥陀に
帰命したてまつるべしと人を勧むべきばかりなり」
(御文章二帖)
と仰せになっているが、
まことに善知識の任務を教えて余すところが
ないというべきであろう。