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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(19)(平清盛 頼朝の挙兵)

2010年07月03日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(19)(平清盛 頼朝の挙兵)

1180年2月、高倉天皇は
3才の言仁親王に譲位した。

安徳天皇 (在1180~85) の即位となる。

やがて

「以仁王が平氏打倒を企てている」

という情報が清盛の耳に入った。
 
以仁王の蜂起自体は
短期間のうちに鎮圧された。

しかしその挙兵に、権門寺社を含めた
広範な連携が見られたことは
清盛にとって重大な脅威となった。

「権門寺社が広く分布し、
 また囲まれている平安京は
 極めて危険である」
 
清盛は福原への遷都を考えはじめ、
6月2日、遂に福原遷都が
実行されることになった。

しかし福原遷都には、反対の声が
依然強く残ることとなった。

そのような情勢の中、
8月に入ると伊豆に配流されていた
源頼朝が挙兵した。

関東に入ろうとした頼朝は、
石橋山の戦いで完敗し、
海路安房へと逃れた。

勢力を回復した頼朝は、
房総半島から南関東へと勢力を広げ
10月には鎌倉に入って
ここを拠点とした。
反乱の動きは各地に広がり
甲斐源氏、そして信濃では木曽義仲が
挙兵することになるのである。


親鸞聖人時代を生きた人々(18)(平清盛 後白河法皇を幽閉)

2010年07月02日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(18)(平清盛 後白河法皇を幽閉)

盛子・重盛と立て続けに失い、
悲しみに暮れる清盛に対して
後白河法皇は更に圧力を加えてきた。

重盛が長く知行国主を勤めてきた
越前を奪い取り、院近臣・藤原光能に与えた。

欠員を生じていた権中納言に、
関白・藤原基房の子でわずか 8才の師家が補任され、
平家は選に漏れた。

相次ぐ後白河の仕打ちに清盛は
行動を起こすことになる。

1179年11月17日、清盛は数千騎の軍勢を
率いて福原から入京し
基房と師家は清盛によりただちに解官され
代わって平家が関白・内大臣・氏長者に
任命された。

本来は臣下にすぎない清盛によっての解任だった。
ここに至り、摂関家の権威は地に堕ちた。

清盛のあまりに強硬な姿勢に
仰天した後白河は、
今後政務に介入しないことを
申し入れ、弁明に努めた。

しかし、清盛は後白河院政を
徹底的に破砕する。

院近臣が有していた多数の知行国が
平氏一門の手に奪われることになり

「日本秋津島は、わづかに六十六ヶ国
 平家知行の国、三十余ヶ国、
 すでに半国をこえたり」

という事態が出現することになる。

そして遂に後白河院が、
幽閉されることになり、
後白河は外部との接触を
一切遮断された。

清盛からの抑圧に強い怨念を
抱いた以仁王は、
1180年4月、平氏打倒を呼び掛ける
以仁王令旨を全国に発することになる。

親鸞聖人時代を生きた人々(17)(平清盛 重なる不幸)

2010年07月01日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(17)(平清盛 重なる不幸)


言仁親王 (ときひと・後の安徳天皇) の産まれた 1178年は
華やいだ雰囲気のうちに暮れていった。

清盛にとって言仁親王の誕生は、
後白河の追い落としということに
現実味を帯びさせることとなり、
後白河にとっては、強い王権を確立させる為
清盛との軋轢なく、
高倉天皇から言仁親王へ交代させることも
可能と思わせた。

後白河に対する強い不信感から、
新帝の即位を目指す清盛と
絶対的な王権を確立させる為に、
新帝の即位を目指す後白河
両者の対立は極めて鋭く、
間に立つ重盛の立場は厳しいものとなった。

しかし清盛は、後白河とは
融和策をとるようこころがけた。

明けて 1179年、相次ぐ不幸が
清盛を襲うことになる。

6月、藤原基実の後家・盛子が、
基実と同じ 24才の若さで没しました。
摂関家領を事実上平氏の支配下に
置くことを可能にしてきた盛子の死に対し
清盛は摂関家領を高倉天皇に献上して、
平氏にとっての大きな経済基盤を
防御しようと考えた。
ところが、この摂関家領は
後白河に奪われてしまう。

そして 7月末には、
清盛の嫡男・重盛が 42才で没した。
鹿ヶ谷陰謀事件における、
室の兄・藤原成親の処刑は、
重盛の立場を悪くさせ
更に新帝を巡る清盛と後白河との
対立の板ばさみとなった心労が
悪い健康状態を更に悪化させてしまった。



親鸞聖人時代を生きた人々(15)(平清盛 白拍子の祇王と仏御前)

2010年06月30日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(15)(平清盛 白拍子の祇王と仏御前)

白拍子の祇王は近江国(滋賀県)の生まれ。
野洲江辺庄の庄司の父が
北陸へ流されたことで
母・刀自(とじ)に連れられて、
妹・祇女(ぎにょ)とともに
京へ出て白拍子の生活を始めた。
祇王18歳の時である。

白拍子とは平安時代後期に流行した
歌舞の一つで当世風の今様(いまよう)をいう。

また、それを歌い舞うことを
職業とする物腰柔らかな舞を
みせる女性を含めて白拍子と
言うようになった。

この今様の熱烈なファンが
後白河法皇であったといわれている。

都へ出て来た祇王の歌と舞いの見事さは、
たちまち評判となり、
当時の最高権力者である平清盛の知るところとなる。

ある日、清盛に呼ばれた祇王は
御前で舞うこととなる。

清盛は、祇王の見事で気品のある舞い、
そして何よりもその美貌に心を奪われ、
直ちに自分の別荘・西八条殿に住まわせ
寵愛したのである。

清盛の寵愛を得た祇王は、
母や妹の面倒までもみてもらい
何不自由の無い生活が始まる。

そこへ現われ出たのが加賀国(石川県)から
出てきた16歳の仏御前という名の白拍子。

仏御前の舞いも見事なもので評判となり、
その自信からか仏御前は清盛の屋敷へ行き、
舞をお目にかけたい申し出る。

祇王を寵愛していた清盛は

「祇王より上手い白拍子が
いるはずも無い」

と門前払い。
それを見ていた優しい祇王は、
仏御前を不憫に思い

「一度だけでも…」

ととりなしたのである。
寵している祇王の申し出に、
清盛も仕方なく仏御前の舞いを
観ることにした。

最初はイヤイヤ見ていた清盛も、
見事な歌と艶やかな舞いに
たちまち心を奪われ、
昨日までの祇王への寵愛はどこえやら、
心は仏御前に移ってしまい、
祇王を屋敷から出ていくように
言い出す始末。

仏御前は、それは本意ではない

「舞いをお見せしたかっただけ、自分が帰る」

と願い出たが聞き入れられることではなかった。
あろうことか清盛は、

「仏よ、祇王に遠慮するな。
 お前がそのように言うのは、
 祇王がいるからだな」

と祇王を屋敷から追い出してしまった。

祇王は、あまりにも突然の清盛の心替わりに驚き、
涙ながら屋敷を出ていった。

その後も清盛は無神経さを発揮している。

ある日、祇王の家へ清盛の使者が訪れ

「仏が退屈しているので参上して慰めてほしい」

という。
祇王には行く気もないので断ろうとしたが、
母に諭されてやむなく参上し舞うこととなる。

元々、祇王に気のない清盛は、
一舞いすると帰してしまう。
この清盛の無神経さ、悔しさ、悲しさに
祇王は自害しようとするが
母の必死の説得で自害は断念するも、
世を捨て仏門に入るのである。

この時、妹・祇女そして母・自刀も髪を剃り、
三人で嵯峨の山里にあった小さな庵(今の祇王寺)で
念仏三昧の静かな暮しに入るのである。

時が経ち、秋のある夜のこと。
祇王らが住む庵の表戸を叩く者がいた。
恐る恐る表戸を少し開け、隙間から覗くと、
そこには白い衣で覆った仏御前の姿があった。

仏御前は涙ながらに

「もともとは、舞いを認めてもらいたい一心で
 清盛様の前で舞ったもの。
 心ならずも祇王様を追い出しことになり、
 悔やまれます」

と、切々と自分のとった愚かな行為を
憂いた話をした後、
覆っていた白衣を脱ぎ捨てる。
そこには髪を剃った仏御前。
仏道に入ろうと決意してやって来たのである。

この姿をみた祇王は、

「まだ17歳の若さで現世を捨て、
 往生を願うは真の大道心」

と快く庵へ迎え入れ、
その後、朝晩の念仏を欠かさず
過ごしたと書かれている。 


親鸞聖人時代を生きた人々(14)(平清盛 鹿ヶ谷陰謀事件)

2010年06月29日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(14)(平清盛 鹿ヶ谷陰謀事件)

京都東山の山麓に鹿ヶ谷という場所は
その一角の法勝寺執行・俊寛の山荘だ。
時ならぬ賑やかな宴が行われていた。

その場にいたのは、平重盛の義兄にあたり
平治の乱の際にも清盛に敵対した
藤原成親 (なりちか) や、西光といった院近臣。
そして後白河院その人。

酔って騒ぐ彼らが集まった理由は、
平氏打倒の謀議をすること。

しかし実際には袖にかかって倒れた
瓶子 (へいじ )を見て
「平氏が倒れた」 などと
笑い騒ぐだけの有様だった。

そのような時、六波羅の清盛邸に一人の武士が走りこんできた。
謀議へ参加したものの、謀議の実態を見て不安を感じた
摂津源氏の多田行綱 (ただゆきつな) でした。
彼は後には平氏を見捨てて木曽義仲に与し、
次には義仲を見捨てて源義経に与する。

行綱は、鹿ヶ谷の山荘で平氏打倒の
謀議がなされていることを密告。
青天の霹靂であったこの情報を
得た清盛は、ただちに行動を起こすと
西光を捕らえ斬首。
藤原成親は重盛の義兄であることから、配流。
しかし、2度目の敵対行動に
清盛の怒りはおさまらず、
配流先で崖から突き落とされ
先端をとがらせた木に
串刺しにするという方法で殺された。
 
後白河院は「知らぬ存ぜぬ」を押し通し、
清盛もさすがに後白河には
これ以上追求の手を伸ばすことはできなかった。

鹿ヶ谷陰謀事件は、院近臣を一掃し
清盛の発言権は、急速に増大し、
後白河院を圧倒することとなった。

1178年11月、平徳子は待ちに待った
皇子を出産し、盛大な祝福を受けた。
この言仁親王はただちに皇太子に立てられた。

これからわずか7年後
安徳天皇として、壇ノ浦の海に沈んでいくことになる。
       


親鸞聖人時代を生きた人々(13)(平清盛 平家にあらずんば人にあらず)

2010年06月28日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(13)(平清盛 平家にあらずんば人にあらず)

広島県の宮島 (厳島) にある厳島神社は、
平家の氏神としても知られている。

厳島は古くから海賊達から神聖視されていた
神の島 (宮島) であった。

海上交通と日宋貿易に着目していた清盛は、
平治の乱の終息した翌年の
1160年8月、西国武士の統合の象徴として
はじめて厳島に詣で、これを平家の氏神とした。

清盛は瀬戸内海の航路を整備すると共に、
海賊達をその傘下に組み入れ
強力な平氏水軍を組織していく。

また清盛は、大宰府ではなく、
隠居した先の福原を
日宋貿易の拠点とすることを考え
福原は急速に整備されていく。
1170年には、はじめて宋船が
福原にまで来航する。

瀬戸内の海上航路は整備され、
日宋貿易は軌道に乗っていく。

平氏の急激な台頭や、
平氏一門による高位高官の独占は
他の院近臣や伝統的貴族に
大きな不満を持たせることになった。

1170年7月、都の中の道路で、摂政・藤原基房一行と
清盛の嫡男・重盛の子・資盛 (すけもり) とが
行きあった。
     
本来ならば資盛の側が道を譲らなければ
ならないところなのだが
資盛は道を譲らず、これを無礼な振舞いとした
基房の従者が資盛側を咎め
ついには牛車を破壊して
恥辱を与えるという事件が起きた。

これに慌てた基房は、
ただちに重盛にわびを入れたが
重盛はこれを受け入れず、
武士を集めると、
内裏へ向う摂政一行に襲いかかり
従者を馬から引きずり降ろし、
もとどりを切り落とすなどの暴挙に及んだ。
これは摂関家の権威に対する明確な否定の行動となり
貴族たちに大きな衝撃を与えることとなった。

こうした事件の背後には

「平家にあらずんば人にあらず」

と放言したとされる
平時忠らに代表される、
一部の平氏一門のおごりがあった。


親鸞聖人時代を生きた人々(12)(平清盛 太政大臣に任命)

2010年06月27日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(12)(平清盛 太政大臣に任命)

1160年、清盛は 6月には公卿となり、
8月には参議となり、めざましい昇進を遂げた上
1161年には検非違使別当 (けびいしべっとう) に任じられて
京の治安維持の責任者となった。

しかし清盛は、必ずしも上皇方のみには与せず
天皇側とも良好な関係を保つようにこころがけた。

1161年、清盛の妻・時子の妹、滋子 (後の建春門院) が、
後白河院の皇子 (後の高倉天皇) を産んだ。

1166年、憲仁親王が六条天皇の皇太子に定められ
1167年 2月、清盛は 50才にして律令制度上、
天皇を補佐する最高の地位である
太政大臣に任命されることになる。
これは藤原氏以外の人としては
はじめてのことであり、
無論武門出身ではじめてであった。

太政大臣となり、平氏一門の勢力が
隆盛を極めたかに見えた矢先の
突然清盛は病に倒れた。
症状はきわめて重く、時子と共に出家するに至った。

ところが清盛は奇跡的に回復し、
5月には太政大臣も退き、福原 (神戸) に隠居して
日宋貿易に専念することになる。
しかし清盛があえて京を離れて福原に移ったのは
院の独裁を目指す後白河とは、
潜在的な対立があった為でもあった。

1171年、清盛と時子の娘・徳子 (後の建礼門院) が、
高倉天皇に入内した。
そして徳子と高倉天皇の間に産まれるのが、
安徳天皇である。




親鸞聖人時代を生きた人々(11)(平清盛 平治の乱)

2010年06月26日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(11)(平清盛 平治の乱)

1159年12月4日、平清盛は
わずかの供のみを連れて、
熊野参詣に出発した。
      
信西方の武力を一手に握る清盛が京を離れる。
この情報を得た反信西方は
12月9日夜、後白河院の御所・三条殿を急襲した。

狙いはもちろん信西の首。

しかし手当たり次第に行った無差別殺人にも関わらず
肝心の信西をみつけることができなかった。
いち早く変事を察した信西は、
すでに京を脱出していたが
追っ手をかけられ、宇治のあたりで発見され、
殺された。

一方清盛の、京を離れた後の足取りは、
不自然に遅いものだった。
一行がようやく紀伊国に入った頃、
急報が届いた。
報せを受けた清盛は戻った。
たちまち百余騎の兵に膨れ上がった。

12月25日、二条大宮に火の手があがった。
源氏方がこれに注意をそらされている隙に、
二条天皇・後白河院が
六波羅の清盛邸に逃げ込んだ。
この瞬間、反信西方は賊軍となり、
清盛は官軍となった。

源氏方は源義平が奮戦し、
平氏軍は退却に退却を
重ねることになるが、
戦略・戦術、全てにおいて、
清盛は源氏方を圧倒した。

義朝軍からは離反者が続出し、
起死回生を図った六波羅での決戦でも惨敗し
勝敗は決した。
      
一人生け捕りとなった義朝の三男で、
13才の頼朝も、斬首とされるところだったが
清盛の義母・池禅尼の命乞いにより
助命され、伊豆配流とされる。

親鸞聖人時代を生きた人々(10)(平清盛 保元の乱)

2010年06月25日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(10)(平清盛 保元の乱)

1156年5月の保元の乱はもともと、
摂関家の内部対立と、
崇徳上皇の私怨に端を発するもので
両者ともに深い関わりのなかった平清盛には、
あまり熱心に取り組む気にはなれない事件だった。
平清盛が天皇側についたのは、
鳥羽院近臣としての立場と
臣下として天皇側に立つのが
当然であったからにすぎなかった。

しかし平清盛は目立った活躍は
なかったにも関わらず
武士としては最高の恩賞に
あずかることになる。

崇徳上皇は讃岐に配流とされ、
上皇方についた武士は
ほとんど死刑とされた。

保元の乱の結果、摂関家の権威と権力は、
決定的に低落することになる。

保元の乱の後、後白河天皇による
親政が開始された。

しかし清盛は、後白河とは
長く距離をとる関係に終始する。

後白河親政とは言っても、
その実権を握っていたのは
第一の側近・信西だった。

信西を平清盛の娘婿とした。

1158年、平清盛は播磨守を
信西の娘婿に譲り、
自らは大宰大弐 (だざいのだいに)
となった。
これは事実上の、大宰府の長官と
なったのである。

九州の大宰府は、
唯一の日宋貿易の中心地。
これを機に、清盛の貿易に
対する関心は決定的なものとなった。

清盛自身は、もはや公卿を目前とし、
一門は多数の受領の地位を占め
更に貿易に関わることによって、
平氏一門は独自の政治的地位と経済力を
獲得することになる。

親鸞聖人時代を生きた人々(9)(源氏と平氏)

2010年06月24日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(9)(源氏と平氏)

平安中期、東国に勢力を広げた桓武平氏は

・平将門の乱 (939~940)
・平忠常の乱 (1028~31)

という2つの大乱の結果、
勢力を弱め、
東国の覇権は、
乱の追討にあたった
清和源氏に奪われてしまうことになる。

東国において没落した
平氏の嫡流は、伊勢に拠点を移した。

平維衡 (これひら) に始まる
伊勢平氏がついでいくことになる。
平維衡は伊勢湾の海上交通を掌握し、
ここから平氏は水運とも
深い関わりを持つ武士としての
発展を見せることになるのである。

しかし ”武門の家” 
としての評価は完全に
源氏に溝をあけられてしまった。
そのままであったならば、
平氏が台頭することは
なかったかもしれない。

1118年、平清盛は
平忠盛の嫡男として生まれた。

母は早世し、
かわって忠盛の正室となって
清盛を育てることになるのが
池禅尼 (いけのぜんに)である。

父同様、清盛も院近臣として
順調な歩みを見せるが、

1147年、清盛にとって
はじめての政治的危機が訪れたのだ。