親鸞聖人時代を生きた人々②(藤原道長の最期)
平安時代の中で、
藤原氏の栄華の頂点を極めた藤原道長。
彼が生まれたのは966年、
藤原兼家の五男であった。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも 無しと思へば」
(この世の全てがまるで
自分のもののように思えます。
私の心は欠けたところのない
満月のように満足しています。)
という歌を詠み、
「当時の太閤、徳は帝王の如く、
世の興亡は唯わが心にある」
(当時の太閤(関白を引退した人)の
徳の高さは帝王の様で、
世の中が栄えるか滅びるかは
ただ自分の心だけにある)
とまで言われた藤原道長だった。
彼の最期はどうであったのか。
道長の晩年は
糖尿病・白内障・心臓病
などの病気に苦しみ、
1027年の春頃からそれらの病状が
急速に悪化してしていった。
そして6月に入ってからは
病気は更に悪化、
とうとう食べ物どころか
飲み物さえも受け付けなくなり、
10月に入ると周囲から
「死亡説」まで噂されるようになり、
10月末には強い下痢に襲われ、
11月になると一人で
トイレにも行けない状態、
いわゆる失禁状態に
陥ったのある。
その後、背中に瘤(こぶ)のように
大きい膿(うみ)の固まりの
ようなものができ始め、
11月の終わり頃には
その瘤が女性の胸のようにふくらみ、
その瘤を治療しようと
医者が瘤に針をさしたが
血と膿が混ざった物が
少し出ただけで大した効果は得られず、
藤原道長の死は確実なものとなった。
この間、藤原道長は
現在の京都市左京区岡崎にあった
法成寺の本堂にある
9体の阿弥陀如来の手に
5色の糸を結びつけ、
それを自分自身の指に
それぞれ結んで北枕で
西を向いて横になっていた。
有力な国司が道長の見舞いのために
周囲をぐるりと取り囲み、
病気の回復を祈願するために
天台宗の座主が念仏を唱えていた。
しかし、1027年12月3日、
藤原道長は62年の生涯に
幕を閉じる事となる。
死ぬ直前の藤原道長はやせ衰え、
白内障により目がかすみ、
心臓病による胸の痛みや
背中の膿による激痛とに
襲われると言う凄まじいものであった。
この様な彼の苦しみを果たして
今までの栄華が救う事が
出来ただろうか。
平安時代の中で、
藤原氏の栄華の頂点を極めた藤原道長。
彼が生まれたのは966年、
藤原兼家の五男であった。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも 無しと思へば」
(この世の全てがまるで
自分のもののように思えます。
私の心は欠けたところのない
満月のように満足しています。)
という歌を詠み、
「当時の太閤、徳は帝王の如く、
世の興亡は唯わが心にある」
(当時の太閤(関白を引退した人)の
徳の高さは帝王の様で、
世の中が栄えるか滅びるかは
ただ自分の心だけにある)
とまで言われた藤原道長だった。
彼の最期はどうであったのか。
道長の晩年は
糖尿病・白内障・心臓病
などの病気に苦しみ、
1027年の春頃からそれらの病状が
急速に悪化してしていった。
そして6月に入ってからは
病気は更に悪化、
とうとう食べ物どころか
飲み物さえも受け付けなくなり、
10月に入ると周囲から
「死亡説」まで噂されるようになり、
10月末には強い下痢に襲われ、
11月になると一人で
トイレにも行けない状態、
いわゆる失禁状態に
陥ったのある。
その後、背中に瘤(こぶ)のように
大きい膿(うみ)の固まりの
ようなものができ始め、
11月の終わり頃には
その瘤が女性の胸のようにふくらみ、
その瘤を治療しようと
医者が瘤に針をさしたが
血と膿が混ざった物が
少し出ただけで大した効果は得られず、
藤原道長の死は確実なものとなった。
この間、藤原道長は
現在の京都市左京区岡崎にあった
法成寺の本堂にある
9体の阿弥陀如来の手に
5色の糸を結びつけ、
それを自分自身の指に
それぞれ結んで北枕で
西を向いて横になっていた。
有力な国司が道長の見舞いのために
周囲をぐるりと取り囲み、
病気の回復を祈願するために
天台宗の座主が念仏を唱えていた。
しかし、1027年12月3日、
藤原道長は62年の生涯に
幕を閉じる事となる。
死ぬ直前の藤原道長はやせ衰え、
白内障により目がかすみ、
心臓病による胸の痛みや
背中の膿による激痛とに
襲われると言う凄まじいものであった。
この様な彼の苦しみを果たして
今までの栄華が救う事が
出来ただろうか。