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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(8)(藤原道長の最期)

2010年06月23日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々②(藤原道長の最期)

平安時代の中で、
藤原氏の栄華の頂点を極めた藤原道長。

彼が生まれたのは966年、
藤原兼家の五男であった。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
 欠けたることも 無しと思へば」
(この世の全てがまるで
 自分のもののように思えます。
 私の心は欠けたところのない
 満月のように満足しています。)

という歌を詠み、

「当時の太閤、徳は帝王の如く、
 世の興亡は唯わが心にある」
(当時の太閤(関白を引退した人)の
 徳の高さは帝王の様で、
 世の中が栄えるか滅びるかは
 ただ自分の心だけにある)

とまで言われた藤原道長だった。

彼の最期はどうであったのか。

道長の晩年は
糖尿病・白内障・心臓病
などの病気に苦しみ、
1027年の春頃からそれらの病状が
急速に悪化してしていった。

そして6月に入ってからは
病気は更に悪化、
とうとう食べ物どころか
飲み物さえも受け付けなくなり、
10月に入ると周囲から
「死亡説」まで噂されるようになり、
10月末には強い下痢に襲われ、
11月になると一人で
トイレにも行けない状態、
いわゆる失禁状態に
陥ったのある。

その後、背中に瘤(こぶ)のように
大きい膿(うみ)の固まりの
ようなものができ始め、
11月の終わり頃には
その瘤が女性の胸のようにふくらみ、
その瘤を治療しようと
医者が瘤に針をさしたが
血と膿が混ざった物が
少し出ただけで大した効果は得られず、
藤原道長の死は確実なものとなった。

この間、藤原道長は
現在の京都市左京区岡崎にあった
法成寺の本堂にある
9体の阿弥陀如来の手に
5色の糸を結びつけ、
それを自分自身の指に
それぞれ結んで北枕で
西を向いて横になっていた。

有力な国司が道長の見舞いのために
周囲をぐるりと取り囲み、
病気の回復を祈願するために
天台宗の座主が念仏を唱えていた。

しかし、1027年12月3日、
藤原道長は62年の生涯に
幕を閉じる事となる。

死ぬ直前の藤原道長はやせ衰え、
白内障により目がかすみ、
心臓病による胸の痛みや
背中の膿による激痛とに
襲われると言う凄まじいものであった。
 
この様な彼の苦しみを果たして
今までの栄華が救う事が
出来ただろうか。



親鸞聖人時代を生きた人々(7)(命濁)

2010年06月22日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(7)(命濁)
 
⑤命濁(みょうじょく)
衆生の寿命が次第に短くなること。

しかし、これは現代には当てはまらないのでは
と思う人もいるだろう。

昔は人生50年といわれたのが、
今や50歳は洟垂れ小僧である。

平成20年の日本人の平均寿命は
男性が79.29歳、女性は86.05歳で、
前年をそれぞれ0.10歳、0.06歳上回り、
3年連続で過去最高を更新した。

厚生労働省によると、
女性は24年続けて世界で最も長寿で、
男性は4位だった。
がん、心疾患、脳血管疾患の3大疾患による
死亡率が下がった影響が、最も大きかった。

厚労省が把握している海外の最新データと比較すると、
男性の平均寿命が最も長いのはアイスランドで79.6歳、
スイスと香港が79.4歳で続いた。
女性は日本に次ぐ香港が85.5歳、
フランスが84.3歳だった。

日本人が3大疾患により死亡する割合は、
男性が約55%、女性が約52%。
3大疾患による死亡がなくなったとすると、
平均寿命は男性が87.39歳、
女性は93.05歳まで延びるという。

では寿命が短くなるとはどういうことか。
 
一つには昔は生まれたばかりの
幼い子供が多く死んだ為、
平均寿命が短くなっているからである。
二つには長生きしても
鼻から管を入れられ、
昔なら死んでいてもおかしくない人が
生きていても、長生きしたとは
いえない。

周りの人から死ぬことを望まれながら、
死ぬに死ねない。
これは生きているとはいえない。

問題なのは
健全な精神を持って、
生きているかどうかである。

人生の目的に向って、
生涯を光に向っている生命が
どれだけあるか。

現代人は殆どないのに近いのでは
なかろうか。
正に命濁であろう。







親鸞聖人時代を生きた人々(6)(衆生濁、世界戦争)

2010年06月21日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(6)(衆生濁、世界戦争)

④衆生濁(しゅじょうじょく)
人が集まるとそこには必ず争い事が起きる。
大きくなると戦争が始まる。
それが衆生の濁りなのだ。

原始人の時代はケンカといっても
親子ゲンカか、縄張り争いぐらいだろう。

ところが人が集まり、村を作り、町になり、
国になってゆくと、そこには必ず諍いが起こり、
戦争が始まる。

日本では法然上人・親鸞聖人のおられた時代
公家政治から武家政治に変わり、
世の中が一変した。

蓮如上人時代には戦国の世となり、
大虐殺が頻繁に起こった。

そして20世紀、
1914年から1918年まで続いた第一次世界大戦。
機関銃が猛威をふるい。
飛行機や戦車も現れた。

1939年から1945年には第二次世界大戦が
勃発した。
戦闘機、戦艦、空母、戦車の性能が高まり、
最終兵器として、日本に原爆が落とされた。
全世界で数千万人もの死者が出たのである。

21世紀に入って
今では北朝鮮・イランといった小さな国が
核を武器に世界を相手に戦いを挑んでいる。
人類滅亡の時機が迫ってきた。

まさに人の行き来が多くなると
摩擦が生じ、争いが増える。
これが衆生濁なのだ。

親鸞聖人時代を生きた人々(5)(煩悩濁、煩悩渦巻く地獄絵図)

2010年06月20日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(5)(煩悩濁、煩悩渦巻く地獄絵図)

③煩悩濁(ぼんのうじょく)
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)等の
煩悩が盛んになること。

昔の楽しみといっても、
のんびりと和歌をたしなむ。
釣りに一日興ずるなどであろう。

ところが現代はどうなっている。
テレビをつければ、
「これはお安いですよ。今から1時間以内なら
 特別料金、すぐお電話ください」
と、これでもかこれでもかと欲をかき立てる。
新聞と共に束となったチラシが舞い込む。
凄まじい宣伝合戦だ。

欲をかきたてられた者達は
踊らされて買いあさる。
その為にローン地獄に陥り、
犯罪へと手を染めてゆく。

また女性が着飾り、魅力を振りまく
男性がその魔力の虜となり、
彼女の為には、会社の金を誤魔化しても
貢ぎ物を贈る。
そんな記事が新聞紙上を埋め尽くす。

正に煩悩逆巻く地獄絵図になってきている。








親鸞聖人時代を生きた人々(4)(見濁、外道が百鬼夜行)

2010年06月19日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(4)(見濁、外道が百鬼夜行)

②見濁(けんじょく)
見とは思想・考えのことだから
見濁とは思想の乱れをいう。
邪悪な思想、見解がはびこることである。

お釈迦様時代にはインドに、はびこっていた
外道・邪教と呼ばれるものは95だった。
これを
「九十五種世を汚す、唯仏一道清くます」
と言われている。

ところが現代はどうだ。
日本だけでも、
18万2千の宗教団体が登録されている。
釈迦時代のインドの2000倍である。
まさに宗教のオンパレード。
いや、百鬼夜行といったほうが正確だ。
 
解脱したといいながら、サリンを撒いて
無差別殺人を計画した輩。
題目を唱えるとどんな借金苦からも逃れられる
といいながら借金踏み倒して夜逃げの一番多い宗教団体。
手かざしで病気が治ると病院に行かずに
盲腸で死んだ者。
初詣に交通安全の神社へ行き、
帰り道、交通事故で死亡する連中。
お前に取り付いている悪霊を追い払ってやると
祈祷の末、窒息死させられた者。

多種多様な宗教が乱立し、
世間を騒がしている。
これを見濁という。


親鸞聖人時代を生きた人々(3)(劫濁、世界終末時計)

2010年06月18日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(3)(劫濁、世界終末時計)

①劫濁(こうじょく)
劫とは非常に長い時代ということ。
劫濁とは時代の汚れということである。
 
時代が流れるにつれ、人間が自ら自然を破壊し、
天変地異が頻繁におきるようになる。
大雪、水害、日照り、飢餓というような
人災、天災が増大することである。

今、世界終末時計というのが
世間で盛んに使われている。

これは原爆投下から2年後の1947年に
アメリカの科学誌「原子力科学者会報」
の表紙に初めて掲載された。
実物はシカゴ大学にあり、
同誌によって管理されている。
最近は1950年代のころの冷戦時と異なり、
必ずしも核からの脅威のみで
時計の針の動きが決められているわけではなく、
世界の様々な紛争状況、
さらに環境破壊による人類滅亡をも
考慮して針が決定されている。

この「終末時計」というのは、
核戦争によっておこりえる地球破滅の危険度を
「12時までの残り(のこり)時間」で
あらわしている時計のこと。
我々の生活は科学の発達によって、
すごく便利になっているい一方、
科学によって作られたさまざまな危険に
さらされている。

この時計の針(はり)が動かされるたびに、
世界中のマスコミが大きく報道する。
1990年には、時刻の決定基準に
地球の環境も取り入れられ、
10分前からのスタートになった。
今の地球の状態を考えると、
核兵器よりもオゾンホールや温暖化と
言った環境の危険度の方が怖い。

平成22年は6分前。
人類に危機がまじかに迫っている。


親鸞聖人時代を生きた人々(2)(末法五濁)

2010年06月17日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(2)(末法五濁)

末法になると世の中が濁りに濁ると
多くの経典に説かれている。

これを末法濁世といい、
末世(まつせ)といわれる。
避けがたい五種の汚れのことを
末法五濁というのだ。

その五つの濁りとは
阿弥陀経に
「劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁」
と説かれている。

平成21年6月、岡山でひったくりの事件があり、
75歳の女性のかばんを取った男を
高校生2人が捕まえた。
犯人を捕まえてビックリ。
警察官ではないか。
それも窃盗などを捕まえる盗犯係の巡査部長。
笑うに笑えない話だ。
捕まえたのは男子高校生2人の言った感想が
印象に残った。
一人の男子学生が
「捕まえる側の警察官が捕まるなんて信じられない」
とあきれて言うと、
もう一人の高校生曰く
「世も末だと思った」

若者でも現代は末法濁乱を感じとっているようだ。



親鸞聖人時代を生きた人々(1)(平安時代と末法思想)

2010年06月16日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(1)(平安時代と末法思想)

平安時代とは、
794年に桓武天皇が平安京(京都)に
都を移してから、
鎌倉幕府の成立(1192年)までの
約400年間を指す。

京都におかれた平安京が、
鎌倉幕府が成立するまで
政治上唯一の中心であったことから
平安時代といわれるようになった。

世界の光、親鸞聖人はまさに平安末期、
1173年に御誕生になされた。

親鸞聖人の時代はすでに末法の時代に
入ったと言われていた。

平安時代後期、
日本では「末法思想」が
広く信じられていた。

釈尊の入滅から1500年目以降は
仏法が廃れ、天災人災が続き、
世の中は乱れるとする思想である。

平等院が創建された永承7年(1052年)は、
当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、
当時の貴族は極楽往生を願い、
西方極楽浄土の教主とされる
阿弥陀如来を祀る仏堂を盛んに造営した。

この時代は貴族の摂関政治が衰え、
代わって武士が台頭しつつある動乱期で、
治安の乱れも激しく民衆の不安は
増大しつつあった。

また仏教界も天台宗をはじめとする
諸寺の腐敗や僧兵の出現によって
退廃していった。

このように仏の末法の予言が
現実の社会情勢と一致したため
人々の現実社会への不安は一層深まり、
この不安から逃れるため
厭世的な思想に傾倒していった。

平安時代後期の京都では、
平等院以外にも皇族・貴族による
大規模寺院の建設が相次いでいた。

藤原道長は寛仁4年(1020年)、
無量寿院(のちの法成寺)を建立、

また11世紀後半から12世紀にかけては
白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、
尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺
のいわゆる「六勝寺」が
今の京都市左京区岡崎あたりに
相次いで建立された。

しかし、これらの大伽藍も今は現存せず、
平安時代の貴族が建立した寺院が
建物、仏像、壁画、庭園まで
含めて残存するという点で、
平等院は唯一の史跡である。


親鸞聖人時代を生きた人々(92)(蓮生房物語 大原問答)

-0001年11月30日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(92)(蓮生房物語 大原問答)

(とどろき17年6月号)

わが子と同い年であった
平敦盛を討ったことを機に、
己の罪深さに驚いた直実は、
吉水の法然上人のお弟子となり、
阿弥陀仏の本願に救い摂られた。
一方、吉水は日増しに参詣者が増え、
各宗のねたみの的となっていた。

「自力の計らいを捨てて、
 ただ、阿弥陀仏一仏を信じよ。
 それ以外に、後生の一大事を
 解決する法はありません」

法然上人の返書を受け取った天台座主は、
怒り心頭に発していた。

「座主様。この際、白黒ハッキリ
 つけたらいかがでしょう」
 
周りの僧がけしかけた。

「なに?」

「日本中の学者を集めて、
 聖道門、浄土門、
 いずれが勝れているか、
 法論するのです。
 今こそ、浄土門の者どもを、
 たたきつぶしてしまいましょう」

釈迦一代の仏教を大きく分けると、
聖道門と浄土門の二つになる。
聖道門は自力の修行で仏になろうとする教えで、
天台宗、真言宗、禅宗などを指す。

これに対し、阿弥陀仏の本願に救われる以外に、
我々の助かる道はない、
と教えるのが浄土門仏教である。

「うむ。それはいい考えだ。
 あのような邪宗がはびこっては、
 この国は滅んでしまう。
 早速、各宗派の長に手紙を書こう」
 
天台座主の各宗派に宛てた手紙の
反響は大きかった。

三論宗の明遍、法相宗の貞慶、
当時を代表する、三百八十余人の学者が、
出席を申し出た。

それぞれが、七千余巻の経典を分担して、
研究し、万全の体制で法論に臨んだのである。
 
果たして法然上人の元に、
天台座主から、一通の書状が届いた。

一読された上人は、

「また、天台の座主殿からだ。
 いろいろ尋ねたいから大原まで来てほしいと、
 招待を受けたよ」。
 
お弟子の一人が心配そうに答える。

「それは果たし状ではないでしょうか。
 おやめになったほうがよろしいのでは……」

「何も心配いらんよ」

上人は朗らかにおっしゃった。

「ならば上人さま、私たちも
 大原へお連れください」
 
集まってきたお弟子たちが口々に唱える。

「では、私の身辺のことを頼む、
 十四、五人だけ来てもらうことにしょう」
 
こうして、法然上人一行は、
指定された日に、京都の北、
大原へ向かった。

ところが、大原に近づくにつれ、
一行は異様な様子に気づく。

墨染めの僧の姿が、
至るところで目につくのである。

「お師匠さま、この僧の多さは
 どうしたことでしょう。
 とても各宗の代表だけとは思えませんが」

「私が、先に行って様子を見てまいります」

そう言って、弟子の一人が、
大原の勝林院の様子をうかがいに行った。

しばらくして、前方から息を
切らして戻ってくると、

「お師匠さま、大変でございます。
 勝林院には、各宗の代表だけでなく、
 その弟子を含め二千人以上の者が
 我々を待ち構えています。
 中には僧兵もおります」。

「なに!もしや、法論のどさくさに紛れて、
 お師匠さまのお命を……。
 これでもし万が一……」

「お師匠さま、やはり、
 この法論は取りやめになされては。
 とても、公正な諍論が
 なされるとは思えません」

弟子たちは口々に、不安の声を上げたが、
法然上人は一笑し、少しも取り合われなかった。

「案ずるな。法然は幸せ者じゃ。
 一人の弟子を育てるのさえ、
 並大抵のことではないのに、
 今日の問答で、天下の学者を弟子にできるとは。
 弥陀の本願を明らかにする、またとない好機だ」

程なくして上人一行が勝林院に到着すると、
境内を埋め尽くす僧の姿で、
辺りは黒一色になっていた。

「失礼、お通しくだされ」

その中を、毅然と、上人は突き進まれた。
ほの暗い本堂に入ると、
聖道門の僧が幾重にも取り囲む中に、
天台座主が待ち構えていた。
その後ろには、法然上人と、
聖道門の代表が法論するための高台が、
二つ用意されていた。

「お待ちしていましたぞ。法然殿」