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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(29)(源信僧都 後生の一大事の解決)

2010年07月13日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(29)(源信僧都 後生の一大事の解決)

「死ねば必ず地獄行きの迷った人に
 褒められるよりも
 なぜ、真実の仏方から褒められる
 真の仏弟子になろうとしないのです」
という母の厳しい叱声に、
迷夢が一度に覚めた思いの源信は、
以後、名利を求める心を固く戒めて、
後生の一大事解決のための修行を
はじめてたのであった。

しかし、天台の修行を重ねるに従って
知らされてきたのは、
煮ても焼いても食えないような
浅ましい自己の本性であった。
天台の教学は、良源門下三千人の中で
他の追随を許さぬ深さを学び、読破した。
大切な聖教のほとんど暗記するほどであったが、
それでもなお自己の本心は、
後生の一大事を苦にするのでもなく、
真剣にその解決を求めようと焦っている
のでもなかった。
あして、捨てたはずの名利の心は、
厳しい修行をすれば
その厳しさを自惚れ、顕密の教法を極めれば

その学問の深さを密かに誇っているという有り様で、
なお止むことがなかった。
それでいて外見は名利を捨てて、
煩悩を超越しているような素振りで
巧妙に他人の目を欺いている、
まさしく偽善の塊であった。
源信僧都は求めれば求めるほど、
この自己の本心に驚かずにおれなかった。
無常迅速のわが身、
悪業煩悩の自己、
理においては充分すぎるほど分かっていながら、
後生の一大事に驚く心は少しも見当たらない。
愚かというか、阿呆というか、
迫りくる一大事に対して、
仏法を聞こうという心を金輪際持ち合わせず、
その悪をまた懴悔する心すらない。
こうなればただの悪人ではない、
極重の悪人というべきか。
顕密の教法は道心堅固な聖者には進み得ても、
自分のような頑魯の者にはとても達せられない。
頑魯の者とは頑固で愚かな者、源信は
自己の姿に驚かれたのだ。
ならば、どうすればよいのか。
ついに源信は、叡山北方の森厳たる谷間の地
横川の草庵に籠もって、
この極重悪人のなお救われる道を求めるに至ったのである。

横川の草庵でも、源信の煩悶は続いた。
来る日も来る日も、ほとんど寝食を忘れて
経典やお聖教に取り組み、
後生の一大事、生死の大問題の解決を求めた。

やがて歳月は容赦なく流れ、四十歳を過ぎたころ、
中国の善導大師の著書に感銘を受け、
阿弥陀仏の本願を説かれた浄土門の仏教こそが、
万人の救われる真実の道で
あることを知らされた。
そしてついに、善導大師のご指南により、
阿弥陀仏に救い摂られたのである。

後生の一大事が解決できた歓喜により、
「今度こそ母上に心から喜んでいただこう」
と早速、僧都は故郷の大和国を
目指して旅立たれたのである。

親鸞聖人時代を生きた人々(28)(源信僧都 世渡る僧となるぞ悲しき)

2010年07月12日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(28)(源信僧都 世渡る僧となるぞ悲しき)


一躍、僧都となり、天下に名声を博した
源信の喜び・得意は察するに余りある。
母思いの源信は早速、事の始終を文書に認め、
天皇よりの褒美の品々とともに
郷里に待つ母の元へ送った。
ところがしばらくして、
荷物がそのまま突き返されてくる。

添えられた母の手紙は、以外な文面であった。

“後の世を渡す橋とぞ思いしに
     世渡る僧となるぞ悲しき”

という冒頭の歌を見た時、源信はとっさに母の言わんと
する意味が分かった。

「私がかわいいお前を比叡山に送り、
 仏教を学ばせているのは、
 ただお前に、『後の世を渡す橋』と
 なってもらいたかったからです。
 後生の一大事の解決を万人に伝える僧侶に
 なってほしかったのです。
 それを忘れてお前は、何と悲しく浅ましい坊主に
 なってしまったことか。
 天皇に褒められ、仏法を名利のための道具と
 してしまっているではないですか。
 天皇とて地獄行きの迷いの衆生、
 そんな者に褒めれて有頂天になっているお前も
 畢竟迷っているのです。
 どうして仏に褒められる身となろうとしないのですか」

母からの歌は道を踏みはずした源信を
悲しんでいるのであった。
母君は歌に続いて、
次のように手紙を記している。

「山へ登らせ給いてより後は、
 明けても暮れても床しさ心を砕きつれども、
 貴き動人となし奉る嬉しさとおもいしに、
 内裏(天皇)の交わりをなし、
 官位進み、紫甲青甲に衣の色をかえ、
 君に向かい奉り、御経讃し、
 お布施の物をとり給い候ほどの、
 名聞利養の聖となりそこね給う口惜しさよ。
 唯命を限りに樹下石上の住居草衣木食に
 身をやつしては、 木を惟り(こり)
 落葉を拾い、偏に後世たすからんとし給えとて
 拵(こしら)えたてしに、
 再び栄えて王宮の交わりをなし、
 官位階品さまざまの袈裟に出世をかざり、
 名聞の為に説法し、利養の為の御布施、
 更に出離の御動作にあらず、
 唯輪廻の御身となり給うぞや。
 唯遇いがたき優曇華(うどんげ)の
 仏教にあいぬれば、
 思い入りて後世たすかり給うべきに、
 悲しくも一旦の名利にほだされ給うこと、
 愚なる中の愚なること、殊に惜しき次第、
 あさましく候え、
 之を面目と思い給うは賎しき迷なるべし、
 夢の世に同じ迷にほだされたる人々に
 名を知られて何にかはせん。
 永き後に悟りを極めて仏の御前に
 名をあけ給えかし」

源信僧都は、母の鉄骨の慈悲の教訓に、翻然として
自らの非を悟り、たちどころに、天皇よりの褒美の品々を
惜しげもなく焼却してしまった。
さらに、僧都という位も返上して、決意新たに
後生の一大事の解決に取り組んだのである。




親鸞聖人時代を生きた人々(27)(源信僧都 9才で出家)

2010年07月11日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(27)(源信僧都 9才で出家)

千菊丸(後の源信僧都)に
惚れ込んでしまった僧侶は

「そなたは大層賢いが、
 そなたのお父さんはおられるか」
「お父さんがいなかったら
 僕は生まれてこないよ」
「そうじゃない、お父さんは健在か」
「お父さんは亡くなったよ、
 でもお母さんならいるよ」
「それなら、お母さんに会わせてほしい、
 案内してもらえぬか」
と千菊丸に頼んだ。

僧侶は村はずれのあばら家に、母君を訪ねた。
「私は比叡山で、天台宗の修行をする者ですが、
 今日はたまたま会った子供さんの、
 あまりにも利発なことに驚いてしまいました。
 失礼ながらこれほどの才気あるお子さんを、
 このような田舎に埋もれさせてしまうのは、
 あまりにも惜しく思います。
 どうか子供さんを、私に預けて頂けませんか。
 出家の身となられたら、さぞや素晴らしい僧侶と
 なられることに間違いございません」
と切々と頼んだ。

その結果、千菊丸はその僧侶の師、良源の弟子に
なる決心をして、やがて九歳で、天台宗の比叡山に
登ったのである。

天台宗の僧侶となって源信と名を改めた。
源信は比叡山で、一心不乱に天台教学の
研鑚に励んだ。
元来、才智卓抜な源信が、水を得た魚のごとく、
良き師、良き環境に包まれて修学を
続けたのであるから、
その学問に上達ぶりは目覚ましかった。
たちまち、全国から俊秀を結集した
叡山において頭角を現し、
十五歳のころには、叡山三千坊に
傑出した僧侶として、
源信の名を知らぬ者はなかった。

そのころ、時の村上天皇から
叡山に勅使が出され、
「学識優れた僧侶を内裏に招いて、
『称讃浄土経』の講釈を聞きたい」
という天皇の意思を伝えてきた。

当時の仏教は国家権力の手厚い保護の
もとに発展を約束されていたため、
天皇の機嫌はそのまま叡山盛衰の
動向に連なっていた。

そのため、村上天皇に派遣すべき僧侶の
人選は慎重を極めたが、一山の首脳の衆議の結果、
選ばれたのが源信であった。
あまりの光栄の感激しつつ、源信は全山の期待を
担って村上天皇の元に赴いた。

そして、群臣百官の居並ぶ前で、天皇に堂々と
『称讃浄土経』を講説したのである。

村上天皇は、あまりに年若い源信の豊かな才覚と
堂々たる弁舌に感嘆せずにおれなかった。
説法が終わった時、村上天皇は、
「見ればまだ若いが、そなたは何歳か」
と尋ね、十五才との答えに大いに驚嘆した。
天皇は褒美として、七重の御衣、
金銀で飾られた香炉箱、その外多くの物を与え、
また僧侶として栄誉ある「僧都」の位を
与えたのである。


親鸞聖人時代を生きた人々(26)(源信僧都 浄穢不二)

2010年07月10日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(26)(源信僧都 浄穢不二)

平安時代、日本の仏教界に
浄土仏教が浸透していった。
その中心的な活躍をなされた方が
源信僧都であった。

源信和尚は恵心僧都とも呼ばれる。
平安時代の中ごろ、奈良県の二上山の
ふもとの当麻に生まれ、
幼名を千菊丸といった。
幼少のころより、智恵の勝れた方であった。

千菊丸が7才の時、父と死別したのである。
間もなく、村に一人の若い僧侶が托鉢に来た。
僧侶、昼になったので川原の土手に
腰を下ろして弁当を食べ始めた。

すると何時の間にか、周囲に村の子供たちが集まり、
物ほしそうなまなざしで、
食事中の僧侶を見つめている。
子供達の姿はいかにも貧乏そうで、
ボロ着に荒縄の腰紐、
髪の毛は汚れて乱れたまま、
無造作にもとどりを結わえてある。
顔も浅黒く中には鼻汁を流している。
僧侶は、子供達の中に一人だけ、鼻筋が通り、
いかにも利発そうな子供がいるのに気がついた。
それが千菊丸である。

やがて僧侶は川原で弁当箱を洗い始めたが、
前日以来の雨で、水が濁っている。
構わず洗っていると、千菊丸が近づき、
「お坊さん、こんなに濁った水で弁当を洗ったら、
 衛生的に良くないよ。」
と注意した。

それを聞いた若い僧侶、わずか六、七歳の子供に
もっともらしく注意されて、内心
「何を生意気な」という気持ちになった。

しかし、子供に怒ってみても大人気ないと思い、
やがて諭すような口調で
「坊や、子供のそなたが仏法を知らぬのは無理ないが、
 仏法では浄穢不二と言って、
 この世には綺麗も穢いものもない。
 それを浄いとか、穢いと差別しているのは、
 人間が迷っているからじゃ。
 仏の眼からご覧になれば、この世は浄穢不二なのだ」
と語った。

それを聞いた千菊丸、即座に
「浄穢不二なら、なぜその弁当箱を洗うの?」
と、鋭く反問した。
当意即妙な反撃に、僧侶は唖然した。
「この小賢しい小僧め」

わずか七歳の子供に、自分の言いだした「浄穢不二」の
仏語を逆に使われ反撃された僧侶は、
何とも収まらない気持ちであった。

僧侶の問いに見事、答えた千菊丸は
そんなことに頓着しない。
すぐ川原へ行っては村の子供たちと、
石投げをして遊んだ。

「あんな子供に」と思っただけでも腹がたつ。
何とか一矢報いてやらねば気が済まん、
の思いから僧侶は一計を案じ、
石投げをしている千菊丸に近づいていった。

「おい坊や、お前さんは大層利口だが
 十まで数えられるかい」
「数えられるよ、お坊さん」
「それなら数えてごらん」
「いいよ、一つ、二つ、三つ・・・・九つ、十」

僧侶はわざわざ十まで数えさせてから、
「坊やは今、おかしな数え方をしたな。
 一つ、二つ、と皆、ツをつけているのに、
 どうして十のときに十つと言わんのじゃ」
と意地の悪い質問をして、

「どうじゃ、今度は答えられんじゃろう」
と内心、ほくそ笑んだ。
それも束の間、

「そりゃお坊さん、無理だよ。
 五つの時にイツツと
 ツを一つ余分に使ってしまったから、
 十のとき、足りなくなったんだよ」
と答えられて、またしても負けてしまった。

僧侶はもう、憎むよりも
「こんな智恵のある子供を田舎に置いておくのは
 実に惜しい。
 出家させてたら、どれほど勝れた善知識に
 なるかもしれん」
と、かえって千菊丸に惚れ込んでしまった。


親鸞聖人時代を生きた人々(25)(源頼朝 挙兵、平家滅亡討)

2010年07月09日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(25)(源頼朝 挙兵、平家滅亡討)

源頼朝は北条政子との恋が縁で、
治承4(1180)年に以仁王の令旨に
応じて挙兵するも、石橋山合戦で敗戦。

平家方の坂東武士が包囲する中、
海を渡り安房の仁右衛門島に逃れる。
安房から再び武蔵国に入り
坂東武士を糾合して
父祖由来の地である鎌倉を本拠地とする。

平家政権が京にあり、
頼朝は京へ上って
平家政権を打倒すると思われたが、
坂東武士団を勢力基盤とする頼朝は
鎌倉を離れず、
源氏の氏神鶴岡八幡宮を祀ったのをはじめ、
鎌倉整備と勢力地盤強化に邁進。

京へは弟、範頼、義経らを派遣。
以仁王の令旨に応じて、
一足先に京へと侵攻した、
同じく清和源氏の木曾義仲を破り(寿永2[1183]年)、
続いて、文治元(1185)年の
壇ノ浦の戦いで平家を族滅。

坂東武士団を基盤として
関東で独自の政権基盤を
整備しつつあった頼朝は、
後白河法皇に傾きつつあった
義経の追放を決定したのだ。

義経一派を追捕することを目的として、
守護・地頭を設置。
義経を匿った奥州の覇者藤原氏の
藤原泰衡に義経を殺害させるも、
結局は奥州藤原氏を討伐、
藤原3代の栄華を絶つたのである。

その後、同じく弟の範頼を
謀反の疑いありとして、
伊豆修禅寺にて殺害。
ここに坂東武士の拠るべき
源氏の血統は頼朝唯一となる。

明法家の力を借りて、
鎌倉に独自の政権機構を
樹立するための第一歩として、
公文所・問注所などを設置。

朝廷の拠る京に対しては、
九条兼実を通じて牽制を図った。

建久3(1192)年に征夷大将軍に任官。
ここに歴史上、初めても武家政治が
始まった。

これが鎌倉幕府である。

親鸞聖人時代を生きた人々(24)(源頼朝 北条政子との恋)

2010年07月08日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(24)(源頼朝 北条政子との恋)

北条時政の娘 政子にも兄がいた。
名は北条宗時である。
元々、頼朝が流刑となり住まわされた
中伊豆の蛭ヶ小島は北条時政の屋敷から近く、
北条政子の兄 宗時は早くから頼朝に出会っていた。
誰よりも頼朝に興味を抱いていた。

度々 妹の政子に頼朝の話しをし
あくまでも自然に、政子 本人が
頼朝を選ぶ様に仕組んだ。

二人は伊豆山権現神社の
逢初(あいぞめ)橋で出会う。

政子の兄 宗時の思惑通り
政子は頼朝に一目惚れだったのである。

治承元年(1177) 父 北条時政によって
無理やり嫁入りさせられた北条政子は
山木兼隆の館から逃げ出し、
蛭ヶ小島の頼朝の元に向かった。

驚いたのは頼朝である。
突然現れた政子が必死の形相で状況を話す。

花嫁を奪われた山木兼隆が
自分を許すはずが無い。
今更「お返しします」と言う訳にも行かない。

12歳の時、父や兄が平氏に殺された。
自分も捕らえられ一度は諦めた命だった。
しかし自分の命は自分だけのものでは無かった。
源氏再興を願う多くの人々のものでもある。

この時、頼朝が敵に回した相手は
山木兼隆だけではない。
表向きには政子の父 北条時政をも
敵に回した事になる。

源頼朝と北条政子の恋は
歴史を大きく動かした。
いよいよ頼朝の「旗挙げ」である。

最初の戦いの相手は恋敵、山木兼隆、
治承4年(1180)8月17日の出来事である。
その日は伊豆 三島大社の祭礼の日であった。
源頼朝はこの日を選んだのである。
それは以仁王の勅令であった。

以仁王は後白河天皇の第3皇子であったが、
平氏の政治に強い不満を抱いていた。
簡単に言えば皇位継承問題である。

その時、伊豆に流刑となっていた源頼朝に
目を付け平氏打倒の勅令を下したのである。

源頼朝が官軍となった。
この「勅令」と「源頼朝の恋」が重なったのである。

その夜、代官 山木兼隆は
黄瀬川の宿で宴を催していた。
館を留守にしていたのである。
源頼朝は山木兼隆の館に
火を掛ける様に命じ、
その命をも奪ったのである。



親鸞聖人時代を生きた人々(23)(源頼朝 伊豆に配流)

2010年07月07日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(23)(源頼朝 伊豆に配流)

平清盛は、後白河法皇に取り入って
急速に皇室との縁戚関係を深めていき、
朝廷での権力基盤を強固なものにしていくが、
その政治手法は藤原氏の摂関政治と同じ

『外戚政治(天皇の外祖父となって権勢を振るう)』

に過ぎなかった。

源義朝は、義平・朝長・頼朝・義経らの父として知られるが、
平治の乱に敗れた後、
再起を図るために源義家(八幡太郎義家)以降
源氏の根拠地であった東国(坂東・関東)へ
と落ち延びていった。

源義朝は尾張国(愛知県)にまで落ちていくが、
尾張で家来の長田忠致の館で宿泊した時に
恩賞目当てで裏切った長田父子に
入浴中に襲撃されて死去しまった。

源義朝の長男・義平は、
京都に潜伏して平清盛を暗殺しようとするが、
失敗して捕らえられ処刑された。

次男・朝長は平治の乱後の落ち武者狩りで
重傷を負って自害。

三男・頼朝は捕縛されて斬首されるところを
池禅尼に助命嘆願によって
伊豆に配流されることになった。

親鸞聖人時代を生きた人々(22)(後白河法皇 比類なき暗君)

2010年07月06日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(22)(後白河法皇 比類なき暗君)

後白河法皇は

『比類なき暗君(暗主)』

と揶揄されながらも

・二条天皇
・六条天皇
・高倉天皇
・安徳天皇
・後鳥羽天皇

の5代にわたって
長期の院政を行うことに
成功した。

後白河法皇が比類なき暗君と
批判された理由には、
政治能力の低さよりも
『今様(いまよう)の遊興への熱中』があり、
上皇(法皇)という気楽な立場を利用して
度々、公卿・殿上人と共に
華やかな宴を楽しんだ。

今様(いまよう)というのは、
中級・下級貴族に人気が高かった
『現代風の歌曲』という意味であり、
平安中期以降の流行歌のようなものと
考えれば分かりやすい。

普通は天皇や上皇といった
身分の高い人が進んで歌うようなものでは
なかった。

後白河法皇は『今様狂い』といわれるほどに
今様の流行歌を歌うことを好んでおり、
後白河帝の著作である

『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』

はその今様を集めて編集したものである。

第78代・二条天皇(在位1158‐1165)に
皇位を譲った背景には
即位した二条天皇は
後白河上皇の院政に従うことを潔しとせず
『二条天皇の親政派』と
『後白河上皇の院政派』の
対立が深まった。

二条天皇の時代に
1159年の平治の乱が勃発する。

平治の乱が起こることになった遠因は
保元の乱後の不平等な論功行賞と
院近臣たちの内部対立にあった。

賢明で誠実な名君であった二条天皇だが
23歳の若さで崩御することになる。

二条天皇の子の順仁親王がわずか2歳で
即位することになり、
六条天皇となる。

平治の乱(1159)で、
伊勢平氏の棟梁・平清盛(1118-1181)が
河内源氏の棟梁・源義朝(1123-1160)を
打ち破ったことで平氏の天下が確定する。

最終的に鎌倉幕府を起こして
『武者の世(武家の政治)』
を実現するのは義朝の子の源頼朝(1147-1199)だった。




親鸞聖人時代を生きた人々(21)(後白河法皇 日本一の大天狗)

2010年07月05日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(21)(後白河法皇 日本一の大天狗)

鳥羽上皇の四宮である雅仁親王(まさひとしんのう)が
1155年 第77代・後白河天皇(在位1155-1158)として
即位することになる。

後白河天皇が即位した時には
皇室と摂関家、源氏・平氏の中で
それぞれ対立が深まっており、
鳥羽上皇が1156年に崩御すると
朝廷の主導権を巡って
『崇徳上皇派』と『後白河天皇派』が
激しく衝突することになった。

鳥羽上皇の死後わずか9日後に発生した
天皇家・摂関家の内紛のことを
『保元の乱,1156)』と呼ぶ。

鳥羽上皇を恨んでいた崇徳上皇は
鳥羽上皇の後を継いだ後白河天皇と対立し、

保元の乱では、崇徳上皇派が軍を動員している途中で
平清盛・源義朝の軍勢が夜討ちを仕掛けたため、
実際の戦闘はわずか4時間ほどで終わり、
後白河天皇が崇徳上皇に勝利することになった。

保元の乱で勝利を獲得した後白河天皇は、
『保元新制』によって朝廷における
権力基盤を固めて全国の荘園整理を実行する。

1158年に自分の子である守仁親王に譲位して
院政を開始する。

保元新制で記録荘園券契所を復活させ、
不正な荘園を公領へと組み込んでいった。

元々、後白河天皇は
二条天皇の一時的な中継ぎの天皇
と捕えられている向きがあった。

しかし、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が

『日本一の大天狗(おおてんぐ)』

と呼んでその狡猾で怜悧な画策を
評した後白河天皇は、

『中継ぎの天皇』

として大人しく役割を果たすような人物ではなかった。





親鸞聖人時代を生きた人々(20)(平清盛の最期)

2010年07月04日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(20)(平清盛の最期)

1180年,反乱の動きは東国に留まらず
九州や畿内近国においても発生するようになる。

そのような中、頼朝により平維盛らの軍が
富士川の戦いにおいて、屈辱的な大敗を
喫することになった。

全国の情勢は平氏にとって
一段と悪化し、都を平安京に戻すことになる。
その間にも反乱の火の手は広がりを続け、
清盛は還都と反乱対策に
忙殺されることになった。

反乱は近江にまで及ぶことになり
清盛は平知盛 (とものり・清盛の四男)
・平資盛 (すけもり・重盛の次男) らを
大将軍とし、精鋭部隊を組織して
近江の反乱を鎮圧していく。

園城寺、ついで南都を壊滅させた清盛は、
1181年の 2月までには
近江・美濃を平定し、
1183年7月に木曽義仲が北陸から
進撃してくるまでは
畿内は一応の安定を見ることになる。

しかし,
1181年1月14日、高倉院が 21才で崩御。

そして 2月22日、清盛は頭痛を発症する。
病気になってから水さえのどを通らず
体は灼熱の如く熱くなり
余りの熱さで清盛に
近ずけないほどであった。

そのため水をためた石の浴槽に
清盛を入れ筧の水をひいて
注ぎかけても焼けた鉄に
水を掛けるように
あっという間に水蒸気になって
飛び散ってしまった。

まるで死を待たずして
閻魔大王が現れて
灼熱地獄に赴かせるようであった。

清盛は最期に仏間の
阿弥陀仏の小指と清盛の小指を
糸で結ばせて極楽浄土へ
最後の悪あがきをしているようだった。

「この入道、仏事供養など要らぬ
 只頼朝の首を墓前に供えよ」

という罪深い遺言を残し清盛は
もがき苦しみ生への執着が解けず
遂に悶絶の末そのまま息を
引き取ってしまったのである。  

一説によれば流行り病の
マラリアにかかり
亡くなったようである。

稀代の英傑は 64才で
没することになるのだ。。

清盛という強大な指導者を失った平氏一門は
堅い団結でこの後 4年持ちこたえるが、
しかし 1185年、一門の多くは
安徳天皇と共に壇ノ浦に消えることとなる。