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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(69)(明恵 悟りが退転)

2010年08月26日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(69)(明恵 悟りが退転)

明恵は仏道修行の中、
一度、悟りが退転した
苦い経験をしている。

ある日、明恵が寺の庭を散歩していると
師匠から頂いた念珠が
手から離れ、落ちた。

修行者が念珠を落とすことは
あってはならぬ油断、
悟りが退転する。

流石、神経を張っていた明恵は、
地面につく前に反対の手で
掬いあげ、念珠は落とさずにすんだ。

そこまでは良かったが、
「ああ、良かった」
と、心に隙ができた瞬間、
悟りがガタガタと
崩れ落ちたのである。

仏道修行者にとって、
油断が一番の
落とし穴であった。
この失敗が明恵の心に
深く刻み込まれたのだ。

明恵は生来、雑炊が大好物であった。
或る日、弟子の一人が
特に念を入れておいしい雑炊を
こしらえ明恵の居間へ持参した。

明恵は机に向かって
書見していたが、
弟子のその姿を見て
「おお今日は雑炊の御馳走か」
と、いいながら 
子供のような笑顔で早速、
膳に向って箸をとり上げた。

弟子は心をこめて作った雑炊を、
どのように喜こんで召上がるかと
ジッと師の口元を見つめていた。

ところが、雑炊を一口啜った瞬間、
明恵の眉がぴっくと動き、
口に入れた食物が何か
ノドにつかえて飲み下しかねて
いるような様子であった。

弟子は自分の粗忽かと心配して、
思わず声をかけようとしたが、
その後の明恵の動作の
余りにも唐突なのに驚いた。

明恵はさっと立ち上がると
傍らの障子の桟を指で軽く
こすって埃を集め雑炊に
ふりかけたからである。

折悪く、二、三日、
師匠の部屋の掃除を
怠けていたせいか桟には
薄く埃がたまっていた。

そのような動作を
二、三度くり返した明恵は
黙々と箸を動かして、
何の感動も示さずに
食事を済ませた。

「妙なことをなされた。
 これは、もう少し掃除を
 丁寧にせよとの注意に違いない」
と思った弟子は恐縮の躰で
かしこまっていた。

やがて、明恵は、静かに
弟子に向って語った。

「ワシは今妙なことをしたであろう。
 不思議に思ったであろう」

弟子は
「申し訳ありません、
 以後しっかり掃除を致します」
と平伏した。

その時、明恵は
「イヤイヤお前らの掃除のことを
 いっているのではない。
 実はワシはお前の心を
 こめて作ってくれた
 今日の雑炊を一口
 くちにして思わず、
 その味の美味しいのに
 感嘆した。その瞬間、
 ワシは身体の一部に
 美味い食物に対する執着が
 蛇の鎌首を持ち上ぐるように
 ムラムラと起って来たのだ。
 ワシは美味しい雑炊を作って
 くれたお前達の親切心だけを
 味わえばよいのに、
 余りに味がよかったので
 遂に味覚のとりこに
 なろうとした。
 ワシの心は実に浅間しい限りだ。
 だからあわてて埃を入れて
 折角ながら美味い味を
 消して頂いたのだ。
 これでやっと口先の誘惑から
 まぬがれることが出来た」

としみじみ述懐したという。



親鸞聖人時代を生きた人々(68)(明恵 座禅に専念)

2010年08月25日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(68)(明恵 座禅に専念)

明恵は、相手がどんなに
賤しい人であろうと、
犬やカラスやアリやオケラであろうと、
すべて仏性をそなえた甚深の法を
行ずる者であるとして
軽んずることはなかった。

そのため牛馬や犬の前を通る時にも
人に対するように合掌して腰をかがめ、
物をになう天秤棒は
人の肩に置くものだから、
笠は首にかぶるものだから、
と決してまたがなかった。

「悪人なお隠れたる徳あり。
 いわんや一善の人においてや」
と言って、相手の貴賎にかかわらず、
たとえ壁を隔てていても、
人が寝ている方へ足を
のばすことをしなかった。
また人が善いことをした話を聞くと、
たいそう喜び語り広めるようにした。

仏像が祀られている
お堂の前では決して馬や輿に乗らず、
道端のみすぼらしいお堂に入る時も
生きている仏さまに
対するごとく敬意を払い、
経本はきちんと整理して重ねて置き、
袈裟をかけずにこれを
手に取ることはなく、
机などの上でなければ
開くこともなかった。

明恵は三十四歳のとき、
高山寺を再興した。
高山寺に入寺しても
生活に変化はなく、
明恵が好んだのは
坐禅だけであった。

小さな桶に数日分の食料を
用意して裏山に登り、
石の上・木の下・洞窟の中などで
昼も夜も坐禅をした。

「この山の面が一尺以上ある石で、
 私が坐ったことのない石はない」
と言うほどであった。

「知識を学ぶ人は多いが
 定学を好む人はほとんどいない。
 これでは道を証するための
 拠り所がない」
と言って、明恵は常に嘆いていた。

日本に禅宗を伝えた栄西とは
親しい間柄で、栄西は明恵に
禅宗の後を託そうとしたが
明恵は固辞して受けなかったという。

栄西は中国から持ち帰った
茶の種を上人に贈っている。
これが日本に渡来した
最初のお茶とされ、
その種を植えた茶畑が
今も高山寺に残っている。

ある僧が明恵に、
坐禅修行の要点を質問すると
明恵はこのように答えた。

「禅定を修するに三つの大毒あり。
 これを除かざれば、
 ただ身心を労して
 年をふるとも成就しがたし。
 一に睡眠、
 二に雑念、
 三には坐相不正なり」




親鸞聖人時代を生きた人々(67)(明恵 インドへのあこがれ)

2010年08月24日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(67)(明恵 インドへのあこがれ)

明恵はインドをあこがれた。
和歌山に住んでいた
30歳と33歳のころの2回、
インド旅行を計画している。

二回目の時には旅支度まで調えたが、
病気と周囲の反対と
春日明神のご神託などの
理由によって中止になった。

このころ大陸では蒙古が
急速に勢力を拡大しており、
インドへ旅をするような
状況ではなかった。

出発していたらおそらく
生きて帰れなかったであろうし、
インドにたどり着くのも
難しかったと思う。

明恵が書いた「大唐天竺里程書」
というインド旅行の計画書が残っている。

玄奘三蔵の旅行記などを
参考に作成したもので、
長安の都からインドの王舎城まで
八千三百三十三里十二丁
と計算されている。
途中で寄り道したくなったら
どうするのかと心配になるような
緻密さである。

のちに京都の高山寺に住職すると、
明恵はその周囲の山々に
インドの仏教聖地に関係する
山の名を付けている。

こうしたことからも分かるように、
明恵の目は常に釈尊に
向けられていた。
釈尊にあこがれ、
釈尊にかえることを願っていたので、
戒を守ることと禅定を修することを重視し、
宗派の違いにはこだわらなかった。

明恵は神護寺で出家したのだから
宗派は真言宗のはずだし、
高山寺も、現在は単立寺院と
なっているが元は真言宗である。

それなのに、いくら華厳宗の教えに
通じていたとはいえ、
なぜか華厳宗中興の祖と呼ばれている。






親鸞聖人時代を生きた人々(66)(明恵 親鸞聖人の肉食妻帯)

2010年08月19日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(66)(明恵 親鸞聖人の肉食妻帯)

一生不犯を貫いた明恵、
それに対して親鸞聖人は
どうであったか。

親鸞聖人のお師匠様の
法然上人は生涯、結婚もなされず、
清廉潔白で一生を全うされた方であった。

しかし、その法然上人が
弟子親鸞聖人にだけは
違っておられた。
法然上人71歳、
親鸞聖人31歳のことである。

関白九条兼実公のたっての
願いということで
娘玉日姫を親鸞聖人に
嫁がせたいとの
申し出があった。

法然上人は親鸞聖人が
結婚することを勧め
親鸞聖人も喜んで
受けられたのだ。

法然上人が仰言る。
「よいか、親鸞。
 弥陀の本願には、
 出家も、在家も、差別はないが、
 天台や真言などの、聖道自力
 の仏教では、肉食妻帯は、
 固く禁じられているのは、承知の通りじゃ。
 彼らや、そして世間から、
 どんな非難攻撃の嵐が起きるか、
 わからぬぞ」

親鸞聖人の決意は固かった。
「はい。それは、覚悟しております。
 すべての人が、ありのままの姿で
 救われるのが、真実の仏法で
 あることを、分かっていただく
 御縁になれば。
 親鸞、決して厭いは致しません」

法然上人は親鸞聖人の決意を知り、
満足そうに仰言る。
「その覚悟、忘れるでないぞ」

親鸞聖人の肉食妻帯への
世間からの非難は
凄まじいものであった。

親鸞聖人と玉日姫は
玉日姫の父である関白九条兼実公から
送られた牛車で、仲良く
法然上人のご法話へと向われる。

大路を通られる聖人に
町人たちがはやしたてる。
「おい、堕落坊主」
「気でも狂ったか。色坊主」
町人が石を投げはじめる。

「怖くて顔がみせられんのか。
 腐れ坊主」

「仏敵、親鸞。出てこい」

「み仏にかわって、オレが、
 成敗してくれるわ」

と僧兵までが聖人を襲う。

しかし、親鸞聖人は少しも動ぜず、
玉日に声を掛けられた。

「よいか、玉日。今こそ、そなたに、
 言っておこう。
 僧侶も、在家の人も、男も、女も、
 ありのままで、等しく救いたまうのが、
 阿弥陀如来の本願。その真実の仏法を、
 今こそ、明らかにせねばならんのだ。
 阿弥陀如来の、広大なご恩徳を思えば
 どんな非難も、物の数ではない」

玉日姫は頼もしそうに親鸞聖人を
見つめられながら言う。
「はい。私も、お従い致します」

世間の人々の非難を、
一身に浴びられた親鸞聖人で
あったが、その、
不退の決意は固かった。

その後、親鸞聖人はどうなされたか。
こんな非難を受けるのならと
人目のつかない道を
ゆかれたのではない。
同じように大路を
進まれたのである。

その内に罵声を浴びせていた人達の中に

「あれだけ悪口雑言を浴びせられても
 親鸞聖人のご夫妻は仲良く、
 法然上人のご法話に通っておられる。
 ワシ等もあのご夫婦のようになりたい。
 法然上人のご法話を
 一緒に聞かせてもらおう」

と親鸞聖人の牛車に伴って、
法然上人の元に参詣される方が
多く現れていったのである。

一生不犯を貫いた明恵。
法然上人も一生、結婚もされず、
一代の聖僧を貫かれた。

その法然上人が弟子親鸞聖人に
なぜ公然と肉食妻帯をすることを
許されたのか。

両聖人は、仏意を開顕して、
肉食妻帯して男女平等に
救われる真実の仏教、
阿弥陀仏の本願を
教えて下されたのである。

肉食妻帯は法然上人、親鸞聖人が
身体を張っての真実開顕であり、
正法宣布であったのだ。





親鸞聖人時代を生きた人々(65)(明恵 一生不犯を貫く)

2010年08月18日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(65)(明恵 一生不犯を貫く)
 
明恵は23歳の時に
神護寺を出て故郷へ帰り、
まず西の峰に草庵を
建てて修行の場とした。

24歳のころ、明恵は
東の峰の草庵で右耳を
切り落とした。
そしてその翌日、
文殊菩薩を感得したという。

「こうでもしなければ
 心弱き身だから、
 人の尊敬を受けたり、
 出世をしたりして
 道を誤るかも知れない。
 身をやつせば人の目に
 とまることもなく、
 自分でも人目をはばかって
 人前に出ることもないだろう」

と決意したのが、
耳を切った理由であった。

耳を選んだのは、
「目をつぶすと
 聖教が見れなくなる。
 鼻をきると鼻水が落ちて
 聖教を汚すおそれがある。
 手を切ると印が結べなくなる。
 その点、耳は切っても
 聞こえなくなる訳ではないし、
 ただ見ばえが悪くなるだけだ」

と考えたからで、
それからは自分のことを
「耳無し法師」とか
「耳切り法師」と
呼ぶようになった。

このような傾向は
子供の頃からすでにあった。

4歳の時、父親がたわむれに
烏帽子(えぼし)を着せて、

「立派な男だ。
 大きくなったら御所へ
 連れて行こう」
というのを聞いて、

「自分は出家するつもりでいるのに、
 そんなことになったら大変だ」

と、わざと縁から落ちて
体を傷つけようとしたことがあった。

明恵はかなりの美男子だったらしく、
女難の相があるのを
自覚していたのかもしれないが、
こうした身をやつす行為が
功を奏したのか、
一生不犯で通している。

「幼少の時より貴き僧に
 ならん事をこいねがい、
 一生不犯にて清浄
 ならんことを思いき。
 しかるに、いかなる魔の
 託するにかありけん、
 たびたび婬事を犯さんと
 する便りありしに、
 不思議の妨げありて、
 打ちさまし打ちさましして、
 ついに志を遂げざりき」



親鸞聖人時代を生きた人々(64)(明恵 華厳宗の中興の祖)

2010年08月17日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(64)(明恵 華厳宗の中興の祖)

法然上人・親鸞聖人の浄土門の
興隆を妬み、非難攻撃をしてきた
南都北嶺の坊主達。

その中でも急先鋒となったのが、
華厳宗中興の祖といわれる明恵である。

明恵は、1173年に
和歌山県有田郡有田川町で生まれた。

その19年後の1192年には
源頼朝が鎌倉幕府を開いているから、
平安時代末期の生まれた。

この同じ年に親鸞聖人がお生まれに
なっておられる。
この明恵と親鸞聖人とはこれから
全く正反対と思える人生を
送ることになる。

京都市北部の栂尾(とがのお)に、
紅葉が美しいことで有名な高山寺がある。
ここは明恵が再興し、
その後半生を過ごした寺である。
そのため明恵は、「栂尾の明恵」
と呼ばれるようになった。

明恵の両親は、
ともに紀州では勢力のある
豪族の出で、父は領主の平重国、
母は湯浅宗重の四女であった。

しかし8歳になったばかりの
正月に母が亡くなり、
同年9月に父が亡くなった。
父は挙兵した源頼朝と
戦って戦死したのであった。

明恵は9歳で京都市高尾の
神護寺に入山し、
出家するための勉強をはじめた。
父母の遺命であったというが、
本人の希望も大きかった。

貴き僧となって親をも
すべての衆生をも救おうと
いう願を起こしたという。
武士の生まれだけに
思いきりのいい子供であった。

明恵は13歳にして考えた。

「今は、はや十三になりぬ。
 すでに年老いたり。
 死なんこと近づきぬらん。
 老少不定の習いに、
 今まで生きたるこそ不思議なれ。
 古人も学道は火を鑚る
 (きる。木をこすり
  合わせて火をおこす)
 が如くなれとこそ言うに、
 悠々として過ぐべきに非ず」

そして自らを鞭打ち、
昼夜不退に道行に励んだという。


また、
「この体があるから
 煩いや苦しみがある。
 いっそ狼や山犬にでも
 食われて死んでしまおう」

と考えて、死体を処分する
原っぱへ行って横に
なったこともあった。

夜中に犬がたくさん集まってきて、
死体を食う音がすぐ近くでも聞こえ、
ついには横たわっていた明恵の
体も嗅ぎまわしたので、
怖ろしいこと限りなかったが、
犬は上人を食わずに行ってしまった。

そのため、死にたくても
定業でなければ死ぬことも
できないと納得した。

親鸞聖人も4歳で父君を亡くされ、
8歳で母君を亡くされた。
9歳で世の無常を知らされ、
比叡山で出家をされた。

両親を亡くされ、同じ年に
出家されるところなど、
明恵と親鸞聖人の深い因縁を感じる。



親鸞聖人時代を生きた人々(63)(九条兼実の浄土門への功績)

2010年08月16日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(63)(九条兼実の浄土門への功績)

京都南に、九条兼実と親鸞上人に
ゆかりのある西岸寺という寺がある。 
ここはもともと関白藤原忠通が
法性寺小御堂を建立し、
子の九条兼実も愛して
花園御殿と呼ばれた地だ。
 
親鸞聖人は兼実の娘・玉日姫と結婚されるが、
後に越後に流刑にあわれた為に
玉日姫は小堂を守って
ここで亡くなったといわれる。

もし、僧侶には固く禁じられていた
肉食妻帯であり、これを破ることは
当時の仏教界のみならず、
世間中の者から総攻撃を受けても
仕方がないことであった。

九条兼実はそれを覚悟の上で
玉日と親鸞聖人のご結婚を
許したのである。

また、九条兼実の大功績の一つは
法然上人が『選択本願念仏集』の撰述に
とりかかられえたのも兼実の要請だった。

兼実は、頼朝が将軍になってから
摂政にも太政大臣にも関白にも
なったのだが、
建久7年(1196)に失脚する。

その兼実が失脚ののち、
文治5年(1189)に57歳の法然を
私邸に招いた。
これは黒衣無位の念仏僧を
私に招いたのだから、なかなか大胆で、
宮中でも画期的なことだった。

大原問答の評判を聞いたからだろう。
しかもこのあと兼実は、
法然上人から受戒を受けている。
のみならず兼実の娘の任子も受戒した。
任子は後鳥羽天皇の中宮である。
これは法然上人が初めて宮中に
参内することになった出来事で、
周囲では法然上人のような
身分の低い僧侶が宮中に入るのは
ゆゆしいことだと非難するのだが、
兼実は『玉葉』にそのことを記して、

「受戒は決して軽はずみなことではないし、
 身分の高い名僧だからといって
 近代の僧たちはまったく戒律のことを
 わかっていない」

と述べている。

このような経緯があって、
兼実はぜひにと法然に
その教えをまとめてほしいと依頼した。

法然上人は最初は断られるのだが、
兼実の強い希望で結局引き受けられた。
つまり『選択本願念仏集』は、
九条兼実のお陰で生まれた
ものなのですある。
法然上人が66歳のときのことである

智慧第一の法然房といわれるような方が
御著書が選択本願念仏集だけといっていいほど
少なかったのは、
「天は二物を与えず」
ではないが、大変、字が下手であったらしい。
字を書くことは恥をかくことだと
思われておられたようである。

法然上人はは門弟の感西や証空や遵西を動員し、
執筆の助手役をつとめさせた。
法然上人が口述されたことを
弟子が間違いなく記述していった。
それが何日にもわたって続いた。

選択本願念仏集の末尾には

「このたび思いがけず仰せをいただいたが、
 お断りすることもできず、
 未熟な私ではあるが念仏を説いた
 肝要な文を集め、それに解説を加え、
 念仏の大切さを説き明かした」

と、法然上人と一門とによる
乾坤一擲の共同編集だったのだ。

親鸞聖人時代を生きた人々(62)(九条兼実 長男の死を縁に浄土門へ)

2010年08月15日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(62)(九条兼実 長男の死を縁に浄土門へ)

九条兼実には1164年より約40年にわたる
日記『玉葉』があり、
当時の政情を知る上で
貴重な資料となっている。
ただし『玉葉』は、
この前後の記事に脱漏が多くあり、
断定はできないが、
前年の良通との死別が、
兼実を法然に接近せしめた要因で
あったとも考えられる。

兼実は、文治4(1188)年に
長男の内大臣良通を若くして
急死したことに無常を感じ、
兼実の悲歎は深く、

「今この喪に遭う、
 誠にこれ家の尽くるなり、
 運の拙きなり、
 惜みてもなお惜しむべく、
 悲しみてもなお悲しむべし、
 言語の及ぶところにあらず、
 筆端の記すべきにあらず、
 今においては、
 永く一生の希望を絶ち、
 ひとえに9品の託生を期す」と

日記に記している。

法然上人との出会いは、
その翌1189年(文治5年)8月1日から
上人を自邸へ招き
法文語や往生業について
談じるようになったのが
機縁といわれている。

法然上人が唱えた専修念仏についての風評は、
すでに京中にひろまっており、
傷心の九条兼実は法然上人に会い、
浄土念仏の法文を聞くことを
願った。

法然上人の人柄は兼実に感銘をあたえた。
兼実と法然上人との間は親密さを加えた。

その後の法然上人に対する
兼実の傾倒ぶりはいちじるしく、
自邸に招き戒を受けること10数回。
上人は1人の帰依者に対してばかり
熱心にしては良くないとの思いからか、
平素は訪問をひかえるようになった。
しかし病気だからきてほしいと
偽ってまで招いていたという。

他にも、父忠通の忌日法要では、
実弟で天台座主ともなった慈円よりも
上座にしたり、
月輪殿の造営では特別に
法然上人の休息所としての一室を設け、
上人が来訪の折には裸足で出迎えた。

また、『選択本願念仏集』も
兼実の懇請により述作されたものである。
兼実は建仁2(1202)年、
法然上人を戒師として出家して
円証と名乗っている。

そして京都愛宕山の月輪寺に
隠棲したとされているが、
ここにも上人を招き、
教えを受けた。

また、法然上人の土佐国(現高知県)、への
配流に際しては、
領国の讃岐国(現香川県)への
変更に力を尽くした。

しかし、その配流そのものを
止められなかった心痛からか、
その死期を早める結果となり
その1カ月後1207年(建永2)4月に、
逝去している。


親鸞聖人時代を生きた人々(61)(九条兼実 関白に昇進)

2010年08月14日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(61)(九条兼実 関白に昇進)

藤原氏の中でも特に選りすぐりの
五摂家の一部の公家しか関白にはなれない。 
藤原北家の出である藤原忠通は保元の乱で
死亡した藤原頼長の兄にあたり、
法性寺関白と当時云われていた。 

忠通には基実、基房、兼実という息子がいたが
基実は近衛家の祖となり、
兼実は九条家の祖となった。 
また近衛基実の系統から
近衛兼平が鷹司家の祖となり、
九条兼実の系統から良実が二条家を、
実経が一条家の祖となり、
これらの近衛、鷹司、九条、二条、一条の五家を
特に五摂家とよんでいる。 

1000年以上もの長きに渡って
政界を支配し続けた藤原北家から
近衛、九条家が分家し、
各々から鷹司、一条、二条家がさらに分家し
鎌倉4代将軍・頼経の時代には
五家による摂関が行われた。

その後、京都の大路や寺の名前をとって
多くの名家が誕生することとなる。 

その九条兼実公が生まれたのは、
久安5年(1149年)のことである。

父は摂政関白太政大臣藤原忠通の第3子、
母は大皇太后宮大進藤原仲光の女加賀。

天台座主慈円は同母弟にあたる。
藤原5摂家の1つの九条家の始祖である。

月輪殿・法性寺殿と呼ばれた。

また、娘宜秋門院任子を後鳥羽天皇の中宮とし、
兼実自身も平氏の滅亡後、
源頼朝の信頼を得て摂政関白となるなど、
政治の中央にいた。

1164年(長寛2)に16歳で内大臣に任じ、
2年後には右大臣となった。
平清盛が太政大臣に昇進して六波羅政権を樹立し、
平氏の制覇が決定的となった時期である。

1186年(文治2)に38歳の兼実が
摂政ならびに藤氏長者となり、
長男の良通は内大臣に任じた。

源頼朝の支持を得た兼実は、
太政大臣から関白に進み、
廟堂での地位を確立した。

ときに鎌倉幕府の草創期にあたり、
頼朝も兼実の見識と人格に
期待するところがあったが、
後白河法皇の院の勢力に
はばまれることが少なくなかった。

しかし法皇の崩後、
兼実は征夷大将軍の宣下を行ない、
頼朝の念願にこたえた。

また兼実は天皇の外戚の地位を望み、
女(むすめ)の任子を後鳥羽天皇の中宮とした。
宜秋門院(ぎしゅうもんいん)である。

しかし皇子の誕生をみぬうちに、
土御門通親らの謀略により関白を停められ、
権勢の座をしりぞいた。
1196年(建久7)のことであり、
ときに兼実は48歳であった。



親鸞聖人時代を生きた人々(60)(九条兼実 浄土真宗の恩人)

2010年08月13日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(60)(九条兼実 浄土真宗の恩人)

親鸞聖人、法然上人のご一生の中で
九条兼実(くじょうかねざね)公の
存在は重要である。

もし、九条兼実公がおられなかったら
時代は大きく変わっていただろう。

承元の法難で死刑の判決を
受けられた親鸞聖人。

親鸞聖人は兼実の娘玉日姫を
妃に迎えておられた。
婿である親鸞聖人の刑の
軽減を願った兼実の
説得工作は尋常ではなった。
そのお陰で罪1等を減じられ、、
親鸞聖人は越後流刑となったのである。

親鸞聖人が死刑となっておれば、
今日の私達が弥陀の本願を
聞かせて頂けたかどうかは
危ういものである。

親鸞聖人のような善知識は
そう現れるものではない。
正に無二の善知識である。

親鸞聖人だからこそ、
浄土真宗の御本典、教行信証が
書き残され、末法の灯炬と
なったのである。

また、法然上人の土佐国(現高知県)、への
配流に際しては、
領国の讃岐国(現香川県)への
変更に力を尽くした。

しかし、その配流そのものを
止められなかった心痛からか、
その死期を早める結果となり
その1カ月後1207年(建永2)4月に、
58歳で逝去している。