親鸞聖人時代を生きた人々(69)(明恵 悟りが退転)
明恵は仏道修行の中、
一度、悟りが退転した
苦い経験をしている。
ある日、明恵が寺の庭を散歩していると
師匠から頂いた念珠が
手から離れ、落ちた。
修行者が念珠を落とすことは
あってはならぬ油断、
悟りが退転する。
流石、神経を張っていた明恵は、
地面につく前に反対の手で
掬いあげ、念珠は落とさずにすんだ。
そこまでは良かったが、
「ああ、良かった」
と、心に隙ができた瞬間、
悟りがガタガタと
崩れ落ちたのである。
仏道修行者にとって、
油断が一番の
落とし穴であった。
この失敗が明恵の心に
深く刻み込まれたのだ。
明恵は生来、雑炊が大好物であった。
或る日、弟子の一人が
特に念を入れておいしい雑炊を
こしらえ明恵の居間へ持参した。
明恵は机に向かって
書見していたが、
弟子のその姿を見て
「おお今日は雑炊の御馳走か」
と、いいながら
子供のような笑顔で早速、
膳に向って箸をとり上げた。
弟子は心をこめて作った雑炊を、
どのように喜こんで召上がるかと
ジッと師の口元を見つめていた。
ところが、雑炊を一口啜った瞬間、
明恵の眉がぴっくと動き、
口に入れた食物が何か
ノドにつかえて飲み下しかねて
いるような様子であった。
弟子は自分の粗忽かと心配して、
思わず声をかけようとしたが、
その後の明恵の動作の
余りにも唐突なのに驚いた。
明恵はさっと立ち上がると
傍らの障子の桟を指で軽く
こすって埃を集め雑炊に
ふりかけたからである。
折悪く、二、三日、
師匠の部屋の掃除を
怠けていたせいか桟には
薄く埃がたまっていた。
そのような動作を
二、三度くり返した明恵は
黙々と箸を動かして、
何の感動も示さずに
食事を済ませた。
「妙なことをなされた。
これは、もう少し掃除を
丁寧にせよとの注意に違いない」
と思った弟子は恐縮の躰で
かしこまっていた。
やがて、明恵は、静かに
弟子に向って語った。
「ワシは今妙なことをしたであろう。
不思議に思ったであろう」
弟子は
「申し訳ありません、
以後しっかり掃除を致します」
と平伏した。
その時、明恵は
「イヤイヤお前らの掃除のことを
いっているのではない。
実はワシはお前の心を
こめて作ってくれた
今日の雑炊を一口
くちにして思わず、
その味の美味しいのに
感嘆した。その瞬間、
ワシは身体の一部に
美味い食物に対する執着が
蛇の鎌首を持ち上ぐるように
ムラムラと起って来たのだ。
ワシは美味しい雑炊を作って
くれたお前達の親切心だけを
味わえばよいのに、
余りに味がよかったので
遂に味覚のとりこに
なろうとした。
ワシの心は実に浅間しい限りだ。
だからあわてて埃を入れて
折角ながら美味い味を
消して頂いたのだ。
これでやっと口先の誘惑から
まぬがれることが出来た」
としみじみ述懐したという。
明恵は仏道修行の中、
一度、悟りが退転した
苦い経験をしている。
ある日、明恵が寺の庭を散歩していると
師匠から頂いた念珠が
手から離れ、落ちた。
修行者が念珠を落とすことは
あってはならぬ油断、
悟りが退転する。
流石、神経を張っていた明恵は、
地面につく前に反対の手で
掬いあげ、念珠は落とさずにすんだ。
そこまでは良かったが、
「ああ、良かった」
と、心に隙ができた瞬間、
悟りがガタガタと
崩れ落ちたのである。
仏道修行者にとって、
油断が一番の
落とし穴であった。
この失敗が明恵の心に
深く刻み込まれたのだ。
明恵は生来、雑炊が大好物であった。
或る日、弟子の一人が
特に念を入れておいしい雑炊を
こしらえ明恵の居間へ持参した。
明恵は机に向かって
書見していたが、
弟子のその姿を見て
「おお今日は雑炊の御馳走か」
と、いいながら
子供のような笑顔で早速、
膳に向って箸をとり上げた。
弟子は心をこめて作った雑炊を、
どのように喜こんで召上がるかと
ジッと師の口元を見つめていた。
ところが、雑炊を一口啜った瞬間、
明恵の眉がぴっくと動き、
口に入れた食物が何か
ノドにつかえて飲み下しかねて
いるような様子であった。
弟子は自分の粗忽かと心配して、
思わず声をかけようとしたが、
その後の明恵の動作の
余りにも唐突なのに驚いた。
明恵はさっと立ち上がると
傍らの障子の桟を指で軽く
こすって埃を集め雑炊に
ふりかけたからである。
折悪く、二、三日、
師匠の部屋の掃除を
怠けていたせいか桟には
薄く埃がたまっていた。
そのような動作を
二、三度くり返した明恵は
黙々と箸を動かして、
何の感動も示さずに
食事を済ませた。
「妙なことをなされた。
これは、もう少し掃除を
丁寧にせよとの注意に違いない」
と思った弟子は恐縮の躰で
かしこまっていた。
やがて、明恵は、静かに
弟子に向って語った。
「ワシは今妙なことをしたであろう。
不思議に思ったであろう」
弟子は
「申し訳ありません、
以後しっかり掃除を致します」
と平伏した。
その時、明恵は
「イヤイヤお前らの掃除のことを
いっているのではない。
実はワシはお前の心を
こめて作ってくれた
今日の雑炊を一口
くちにして思わず、
その味の美味しいのに
感嘆した。その瞬間、
ワシは身体の一部に
美味い食物に対する執着が
蛇の鎌首を持ち上ぐるように
ムラムラと起って来たのだ。
ワシは美味しい雑炊を作って
くれたお前達の親切心だけを
味わえばよいのに、
余りに味がよかったので
遂に味覚のとりこに
なろうとした。
ワシの心は実に浅間しい限りだ。
だからあわてて埃を入れて
折角ながら美味い味を
消して頂いたのだ。
これでやっと口先の誘惑から
まぬがれることが出来た」
としみじみ述懐したという。