goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(79)(西仏房覚明、親鸞聖人のお弟子となる)

2010年09月05日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(79)(西仏房覚明、親鸞聖人のお弟子となる)

義仲の下を離れた覚明は
その諸国を転々とし、
鎌倉幕府に身元がばれると
比叡山の慈鎮和尚の元に身を寄せた。

吉田兼好が

「慈鎮(慈円)和尚、一芸ある者をば、
 下部までも召しおきて、
 不便せさせ給ひければ、
 この信濃入道を扶持し給ひけり」

と書いたように、比叡山延暦寺の
慈円大僧正の元に参った。

そこで一人、真面目に修行に取り組まれる
親鸞聖人を慕い、弟子になった。

親鸞聖人が女人との出会いから
女性のことが忘れられず、
弟子になった覚明に
自分の腐った性根を
叩いてくれと頼まれたことがある。

頭を抱えて、庭の木に駆け寄り、
頭をガンガンとぶつけておられる
親鸞聖人。

そこに覚明が帰ってくる。
聖人の様子に驚き、駆け寄り、

覚明   「親鸞殿、どうなされた?」

親鸞聖人 「(見上げて)ああ、覚明殿か」

覚明   「どこか、体でも、お悪いのでは?」

親鸞聖人 「覚明殿。この親鸞ほど、  
      浅ましい者はない」
  
覚明   「何を言われる。親鸞殿ほど、
      仏道ひとすじの方は、
      他にあるでしょうか」

親鸞聖人 「覚明殿。それは、形だけのことだ。
      心は、醜いことばかり、
      思い続けている、
      それが、親鸞の実態なのだ」

親鸞聖人 「そなたに、頼みがある」

覚明   「私のできることなら、何なりと」

親鸞聖人 「この杖で、親鸞の腐った性根を、
      思い切り叩き直してくれないか」

覚明   「な、何を言われる、親鸞殿」

親鸞聖人 「煩悩に汚れきった、この親鸞を、
      打って打って、打ちのめしてくれ。
      頼む、覚明殿。もう親鸞は、
      一歩も進めないのだ」

覚明   「それは、できません」

親鸞聖人 「頼む、覚明殿、打ってくれ」

覚明   「ひたすら自己に厳しく、
      修行なさる親鸞殿を慕って、
      おそばで修行がしたいと、参った私。
      どうして、親鸞殿を
      打つことができましょうか。
      それだけは、お許し下さい」

親鸞聖人 「覚明殿・・・だめか・・・」

親鸞聖人は後に法然上人の
お弟子となられるが、
覚明も法然上人のお弟子となり、
西仏房と名乗ったのである。

建永2年(1207年・承元元年)に
法然上人や親鸞聖人が流罪となった時、
親鸞聖人が配流された越後に同行して、
主に東国各地で布教活動を行うのであった。
後に出身地の信濃に戻り、
同地で97歳で死去した。



親鸞聖人時代を生きた人々(78)(西仏房覚明、木曽義仲の最期)

2010年09月04日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(78)(西仏房覚明、木曽義仲の最期)

倶利伽羅峠の戦いの後
木曽義仲は京を目指した。

比叡山を味方に付けた覚明の
『木曽山門牒状』が有名だ。

「義仲つらつら平家の悪逆を見るに、
 保元・平治よりこの方、
 長く人臣の礼を失う。
 しかしながら、都の上下貴賎共に、
 ことごとく手をこまねいて、
 その足元に伏す。
 平家は思いのままに、帝位を進退し、
 道理・非理を無視して、官位を剥奪・追捕し、
 その資財を奪って、
 これを郎党並びに子族に振る舞う」

この牒状により、延暦寺は
源氏には背向くことは得策ではないと
宗徒3千余の衆議が一致して、
義仲軍は難なく(1183年7月)上洛した。

ところが、その頃の京の都は
2年続いた飢饉の影響で、
食料事情は悪化して
飢え死にした人が
道端や河原に数知れないほど多く
、そこに義仲軍数万が来たものだから、
さらに食料事情は深刻化した。

加えて義仲軍は粗暴な者が多く、
略奪まがいの行為で
兵糧の現地調達を行って、
洛中の恨みを買うことになった。

そこで後白河法王は、
義仲軍が京にいては困るので、
京を捨てて西国へ逃げた
平氏追討を命じたが、
義仲軍は備中水島の戦いで
平氏軍に大敗して、都に戻る。

1184年正月征夷大将軍となったが、
その頃は名のみで勢力は壊滅状態であり、
義仲は後白河法王を奉じて
北陸に逃亡しようとするが、
法王が拒否したことから、
義仲は法王を五条内裏に幽閉した。

この頃まで覚明が京にいたようであるが、
法王幽閉で意見が合わなかったか
又は義仲に愛想が尽きたか、
突然姿が見えなくなり、
諸国を流浪の果て、
密かに東国に潜入、
名も信救に戻して箱根権現に居た。

後白河法王の義仲追討の
求めに応じた頼朝は
異母弟範頼・義経を代官として
宇治川を突破、

義仲は1184年1月20日
近江国の粟津ケ原で討ち死にし、
31才の生涯を閉じた。



親鸞聖人時代を生きた人々(77)(西仏房覚明、文武ニ道の達者)

2010年09月03日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(77)(西仏房覚明、文武ニ道の達者)

信救(覚明)は東国下りの際、
三河国国府で源頼朝と義仲双方の
叔父源行家と出会った。

源行家は以仁王の平家追討の令旨を
諸国の源氏へ回状した後、
自らも都へ攻め上ったが
1181年4月墨俣川の戦いで破れ、
三河国へ落ち延びるところだった。

源行家は沢蟹をすりつぶして
信救の体に塗り、
信救が元気な以前の体に戻った。

その後、源頼朝の下に参じるが、
行家が頼朝と上手くいかず、
共に木曽義仲の下に身を寄せ、
太夫坊覚明と名を変え
右筆として仕える。

覚明は義仲軍にあっては、
祐筆という武家の職名で
大将のそばにいて書を
つかさどった職として仕えた。

小硯と懐紙を取り出し、
義仲の御前で書をしたためる。

『平家物語』では

「あっぱれ文武ニ道の達者かな」

と文武両道の名軍師としての
活躍が描かれている。

義仲が挙兵してから
越後・越中へ出て
加賀へ攻め込むため、
倶利伽羅峠の戦いは
2倍の平維盛軍を前にして、
越中埴生に陣をとっていたとき、
源氏ゆかりの八幡社を見つけ、
戦いを前に縁起がよいと
義仲は喜び、覚明に
勝利を祈願する願書を書かせ、
それを社前で読み上げさせた。

それが有名な『木曽願書』であるが、
そのすばらしい文に皆聞き惚れ、
義仲は自分が背負った
矢を抜き出して願書とともに
奉納したということである。

倶利伽羅峠の戦いは、
兵力で劣る義仲軍は、
野営していた平氏軍に
夜半雨の降る中を
近郷・近在から集めた
五百頭の牛の角に松明をつけて突進させ、
太鼓を鳴らしながら平氏軍に攻め込み、
その地響きに源氏の大軍が
押し寄せたと思った平氏の軍勢は混乱し、
逃げ惑って谷底へ折り重なるように
落ちていったとのことである。



親鸞聖人時代を生きた人々(76)(西仏房覚明、興福寺の檄文)

2010年09月02日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(76)(西仏房覚明、興福寺の檄文)

興福寺では学階制度の位で
得業→助教→輔教→司教→勧学
の5階級が定められていた。

五徳の冠者としてあざ笑われて
出家した海野幸長は
得業の僧位を得てからは
得業信救と称していた。

信救(覚明)が興福寺にいた頃、
世の中は平家打倒、源氏再興の
動きが始まろうとしていた。

平治の乱で平家に敗れた源氏の武将の
ほとんどが処刑されたが、
源頼政だけが平氏について
助かったのである。

頼政は周囲から裏切り者と
ののしられながら
いかなる嘲笑にも耐え、
平家の従順な姿勢をみせてきた。

それは心中深く、
平家打倒と源氏再興を
期していたからである。

この77歳になった老武士が
平家打倒の先陣を切るとは、
誰が予想しただろうか、
頼政は生活をきりつめ、
ひそかに鎧や武器を蓄えていた。
その二十年におよぶ臥薪嘗胆が
今、実を結ぼうとしていた。

後白河法皇の第2子である以仁王は
平清盛の孫、安徳天皇が3才で
即位しなければ
当然、天皇になるべき地位にいた。

以仁王の名で平家追悼の書状を
信濃の木曽義仲、伊豆の源義朝、
陸奥の源義経など、各地の源氏に
おくれば、喜んで決起すると
持ちかけたのである。

これに応じて各地の源氏の血を継ぐ
武将達が挙兵した。

清盛の怒りはすさまじく大津三井寺を
攻め立てた。
三井寺は興福寺に応援を依頼した。

その際、以仁王の謀反を成功させる為に
興福寺が返書を依頼したのが、
信救であった。
位は低くとも、得業信救の文才は
21才にして開花していた。

「清盛入道は平氏の糟糠(かす)
 武家の塵芥(ごみ)なり」

と書き記し、その名文に
興福寺の格もあがったと
喜んだ。

以仁王の挙兵が成功しておれば
信救(覚明)はふって沸いた名誉に
有頂天になっていた。
出世の道が再び開けたのである。

ところが後一歩のところで
以仁王は流れ矢に当たり絶命。
源頼政も戦死した。

平家の1万人の軍勢は
大津三井寺を灰燼に帰し、
その怒りの矛先は
興福寺に向いた。

興福寺はその責任を
全部覚明になすりつけ、
自分達の身の安全を図った。

平清盛を罵倒した書を送り、
それを聞き付けた清盛が
暗殺者を放ったために
自ら漆を身に浴び、
ライ病人を装い、
東国に落ち延びた。



親鸞聖人時代を生きた人々(75)(親鸞聖人比叡山での弟子、西仏房覚明)

2010年09月01日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(75)(親鸞聖人比叡山での弟子、西仏房覚明)

親鸞聖人の比叡山での弟子覚明は
後の西仏房のことであるが
どんな方であったのか。

親鸞聖人のお弟子の中で西仏房といえば
聖人がまだ比叡山におられた時に
お弟子になられた一番弟子である。

聖人35歳、越後流刑にあわれた際、
蓮位房と共に聖人に同行され、
関東布教にも一緒に行かれたお弟子である。

波乱万丈の人生を歩まれた親鸞聖人、
その親鸞聖人を人生の師として
ゆかれた西仏房もまた
波乱に満ちていた。

西仏房覚明は海野幸長といった。
生まれは信濃国の名族滋野氏の
嫡流とされる海野氏のおられて
13代海野幸親の次男として
生まれた。

海野幸長は、星雲の志を以て
若くして京に上り
最初は西の院の御所勧学院
の学生だった。

勧学院は清和天皇の
外曾祖父藤原冬嗣が
822年に創設した院で、
藤原氏の氏寺興福寺や
春日神社が政治に関与するための
教育者の育成が目的であった。

一時は多数の文章博士
・文章得業生・文章生を
育成し隆盛を極めたが、
名族出身であっても
田舎の若者海野幸長は
一番下級の文章生であった。

その理由は幸長は俗名を
進士蔵人通広といい、
文章生は別名「進士」であり、
蔵人は蔵人所の職員で、
蔵人所とは禁中(御所内)にいて
お側向きの御用を勤め、
機密文書や諸訴などを
扱っていたので、
文章生として、
文書才能が育成された。

その頃、宮廷では
唐の詩人、白楽天が書いた
「新楽府」の研究が流行した。

その鑑賞会に行長が
招かれることになった。
学問の深さが認められたという
大変な名誉である。

一世一代お晴れ舞台。
ここで脚光をあびれば一躍
出世の道が開かれる。

「行長殿、新楽府の七徳とは何か」
と聞かれた。

行長にとっては簡単な問題である。

「七徳とは武の七つの徳の
 ことでございます。
 一つには暴を禁じ、
 二つには兵をおさめ、
 三つには大を保ち、
 四つには功を定め、
 五つには民を安んじ」

しかし、後二つがどうしても
出てこない。
あせればあせるほど、
思い出せない。

「五つまでしか、分からぬとは
 五徳の冠者というところですな」

と大衆の前で大恥をかき、
出世の道が途絶えることになる。

同じ時、父が病死し、
彼の才能を活かす道はないと
その後、黒谷延暦寺で出家して、
後に南都興福寺に移ったのである。


親鸞聖人時代を生きた人々(74)(明恵 神仏一体を打ち破られた親鸞聖人)

2010年08月31日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(74)(明恵 神仏一体を打ち破られた親鸞聖人)

神仏一体説は、
弘法、伝教、慈覚、智証らに
よって主張せられ、
大衆がこれを支持したので
たちまち満天下を風靡する
ようになり、
明恵もそれを推進した。

あれほど厳しく神を捨てよと
厳戒された仏教の教義は、
日本に来って全く骨抜きにされ、
完全に外道化された。

まさに仏教は堕落の極に達したわけだ。
いずれの世、いずこの里においても、
時の権力や我欲のために
常に真実の仏法はネジ曲げられ、
ゆがめられてきた。

しかし、釈尊は、末法になると、
このように仏法をネジ曲げて
破壊する坊主が出てくることを
経典に予言なされ、
かかる者を悪比丘といい、
獅子身中の虫ともいわれている。

これを親鸞聖人は『和讃』に、
「造悪このむわが弟子の
 邪見放逸さかりにて
 末世にわが法破すべしと
 蓮華面経にときたまう」

と仰言って悲しんでいられる。
邪見とは因果の道理を無視すること、
放逸とは、怠けて正法を
説かなくなることである。

まさしく世間大衆の
神の信心に幻惑されて、
正法をネジ曲げて大衆と妥協し、
少しでもわが身の安全を
考えた堕落坊主の姿を
嘆かれたものである。
そして、

「五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり」

「かなしきかなや道俗の
 良時吉日えらばしめ
 天神地祇をあがめつつ
 卜占祭祀つとめとす」

「外道梵士尼乾志に
 こころはかわらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり」
   (悲嘆述懐和讃)

と悲嘆されている。

鬼神とは日本の神のような
実社の神をいうのだから
親鸞聖人の悲泣のほどが
しのばれるではないか。


親鸞聖人時代を生きた人々(73)(明恵 最後まで神仏一体の邪説に生きる)

2010年08月30日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(73)(明恵 最後まで神仏一体の邪説に生きる)

明恵は1232年1月19日に
高山寺で亡くなった。

「今日臨終すべし」
と言って、衣と袈裟を着がえて
弟子たちに説法し、
決して名利に迷わぬように戒めた。
それから短い行法をおこない、
合掌して懺悔文をとなえ、
しばらく坐禅を行い、
出定すると言った。

「その時が近づいた。
 右脇に臥(ふ)すべし」

明恵は横になり、
手を蓮華印にして胸の間におき、
右の足をまっすぐに伸ばし、
左の足をすこし曲げて
その上に重ねた。

「顔に歓喜の表情
 たちまちにあらわれ、
 微笑を含み、
 安然として寂滅し給う。
 春秋六十歳なり」

と伝記は結んでいる。
妙なる香りが漂っていたという。

明恵は19歳より記録しだし
60歳で亡くなる1年前まで
書き続けた夢の記録『夢記』がある。

それには、夢にインドの僧が現れたり、
華厳経の読経中には、
空中に文殊菩薩が現れたり、
また夢の中でインドの僧より
理趣経を授けられたことなどの他にも
神からの神示もあったそうだ。

インド行きを望んでいた明恵が
インドへ行く計画をしたとき、
伯父の妻に春日大明神が降り、
インド行きの中止を促した。

そして、この託宣が真実か
どうかを確認する為に
重ねて霊告を祈願したところ、
三日後に再び
春日大明神の託宣が降りた。

それによると、自分と住吉大神
が明恵を特に守護しており、
やはりインドに行っては
ならぬと告げた。

この時、伯父の妻の全身から
不思議な妙香が外まで漂い、
その手足や口から
何ともいえない甘味が発し、
その場に居合わせた諸人は
その甘味をなめた。

春日大明神が帰った後も、
妙香は数日家中に充ち、
甘味は数日、口中に
とどまったという。

また、明恵は、春日明神の
託宣を告げる婦人に憑いた邪霊を
祓って病を治し、
難産で息が絶え、
体が冷えた婦人を祈祷で
蘇生させたこともあったとある。

古来、日本では神は二種に
分けられていた。
一つは実社の神といい、
もう一つは権社の神といった。
実社の神とは、
死んだ人間や、畜生などを祭って、
それらの霊が神社にいると
思われているもののこと。

仏教ではかかるものを
邪神とか鬼神と呼んで、
一切その存在を認めない。

日本の神はすべて
この実社の神の部類に
属するものである。

次に権社の神というのは、
仏教が日本に伝来してから、
天台や真言の僧徒たちが
自分らの保身のために、
仏教の本地垂迹説をネジ曲げて、
伊勢神宮や春日大社や山王権現や
多賀大明神などの有名な日本の神は、
もとは仏であって、
権に今神となってあらわれている
ものであるとして、
デッチ上げた神をいう。

ではなぜ天台、真言の僧徒たちが
このような神を、デッチ上げた
のかというと、彼らは、

すでに『大集経』などによって
末法の世になると、
如実に仏道修行もできなくなり
成仏の道も絶たれることを知るうえに、
日本の民衆は、どうしても
神の信心に走る者が多かったので、
これらの民衆に引きずられて、
日本の神を仏教の本地垂迹説に
よって無理やり仏教でいう神に
結びつけた。

そしてついに神仏一体という
新語まで造ったのだ。
 
そのうえ、権社の神の本地は
仏なのだから、
その神の前で中臣ノ祓を
よめば現世利益はもちろん、
後生は、三悪道を逃れて、
成仏もできるとまで
言うようになった。

しかも、この神仏一体説は、
弘法、伝教、慈覚、智証らに
よって主張せられ、
大衆がこれを支持したので
たちまち満天下を風靡する
ようになった。

そのうえ、だれ一人として、
この破仏法のあさましい信仰を打破し、
真実の仏法を顕正する者がなかったので、
ますます、神仏を混交して、
僧侶も神主とともに神社に
奉仕するまでになってしまった。

明恵はその象徴たる人であった。
自分が仏教を破戒していた
張本人であることも、
知らずに死んだのである。


親鸞聖人時代を生きた人々(72)(明恵 摧邪輪を打ち破った教行信証)

2010年08月29日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(72)(明恵 摧邪輪を打ち破った教行信証)

色々な『選択集』の解説書がでたが、
親鸞聖人の『教行信証』によって、
初めて法然上人の
御意が明かになったのである。

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、
 雑行を棄てて本願に帰す。
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて
 『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、
 「選択本願念仏集」の内題の字、
 ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と
「釈 釈空」の字と、空の真筆をもって、
 これを書かしめたまひき。
 --乃至--、
 『選択本願念仏集』は、
 禅定博陸 月輪殿兼実、法名円照 
 の教命によりて選集せしめるところなり。
 真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。
 見るもの諭り易し。
 まことにこれ
 希有最勝の華文、
 無上甚深の宝典なり。
 --乃至--
 慶ばしいかな、
 心を弘誓の仏地に樹て、
 念を難思の法海に流す。
 深く如来の矜哀を知りて、
 まことに師教の恩厚を仰ぐ。
 慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
 これによりて、真宗の詮を鈔し、
 浄土の要をえらぶ。
 ただ仏恩の深きことを念うて、
 人倫の嘲りを恥ぢず。
 もしこの書を見聞せんもの、
 信順を因とし、疑謗を縁として、
 信楽を願力に彰し、
 妙果を安養に顕さんと。」
   (教行信証後序)

親鸞聖人の厳しい目は、
仏教諸宗だけでなく
法然上人を攻撃した栂尾の明恵にも
向けられている。

「それおもんみれば、
 信楽を獲得することは
 如来選択の願心より発起す、
 真心を開闡することは
 大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
 然るに末代の道俗・近世の宗師、
 自性唯心に沈んで
 浄土の真証を貶し」
    (教行信証信巻)

「しかるに、一宗一派を開いた者
 伝教、弘法、道元、日蓮たちまでもが、
 『阿弥陀仏もその浄土も、
  われらの心のほかにはない。
  心のほかに弥陀や浄土を説くのは、
  幼稚な教え』
 と見くだし、
 真実の仏法をけなしている」

と、峻烈な批判がなされる。

比叡山や南都(奈良)の、
華厳・天台・真言宗はいうまでもなく、
法然上人を攻撃した栂尾の明恵、
笠置の解脱をはじめ、
禅宗の栄西など、
当時の仏教界の指導者を総括して
「真実の仏教を知らざる輩」
と斬り落とされている。

返す刃もまた仮借がない。
「今日の仏教は、
 まったくすたれきっている。
 寺も僧もたくさんいるが、
 仏教のイロハもわからぬ者ばかり。
 儒教をやっている者も多いが、
 正道邪道のケジメさえも
 わかってはいない。
 浄土の真宗のみが盛んではないか」

と、つぎのように記されている。

「ひそかにおもんみれば、
 聖道の諸教は、行証久しく廃れ、
 浄土の真宗は、証道いま盛なり。
 しかるに諸寺の釈門、
 教に昏くして、
 真仮の門戸を知らず、
 洛都の儒林、行に迷うて、
 邪正の道路をわきまうることなし」
   (教行信証)


親鸞聖人時代を生きた人々(71)(明恵 摧邪輪)

2010年08月28日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(71)(明恵 摧邪輪)

法然上人66歳、1198年(建久9年)に、
関白九条兼実の要請によって、
著されたのが『選択本願念仏集』
2巻16章の論文である。
一般には『選択集』と略称される。

浄土三部経の経文を引用し、
それに対する善導大師の解釈を引き、
さらに法然上人御自身の
考えを述べておられる。

末法においては弥陀の本願に
救われ、称名念仏だけが
相応の教えであり、
聖道門を捨てて
浄土門に帰すべきで、
雑行を捨てて念仏の正行に
帰入すべきと説かれている。

それまでの観想念仏を排して
阿弥陀仏の本願を称名念仏に
集約することで、
仏教を民衆に開放することとなり、
浄土教の歴史の中で
画期的な意義を持つ聖教である。

1212年に刊行されると、
確固たる学問的な根拠を示して、
弥陀の本願によらなければ
絶対に救われないから、
聖道仏教はさしおいて、
浄土仏教へ入れ、
と徹底して教える「選択集」は、
仏教界に水爆級の衝撃を与えた。

『選択本願念仏集』には聖道門の
「捨閉閣抛」(しゃへいかくほう)が
始終一貫、説かれてあった。

捨=捨てよ。
閉=閉じよ。
閣=さしおけよ。
抛=なげうてよ。  

明恵は生前の法然上人を
高徳な人格だと尊敬していたが、
法然上人の死後
「選択集」を読んで激怒し、
すぐさま『摧邪輪』三巻で反論した。

邪(よこし)まな法説を
摧(くだ)くという
明恵の『摧邪輪』の
冒頭部分でこういっている。

「ちかごろ、ある上人がいて
 一巻の書を著作し、
 その書を『選択本願念仏集』と名づけた。
 その書は、経典や論書の趣旨を惑わし、
 多くの人々を欺いている。
 その書は、極楽へ往生するための
 実践を宗(むね)としているのだが、
 かえって往生のための実践を妨げている」

そして、大きな邪悪な見解の過失を
次の二点にしぼって提出するという。

一、菩提心を捨てる過失
二、聖道門を群賊に譬(たと)える過失

菩提心とは「悟りを求めようとする心」だが、
これは仏法の基本理念とされている。

「自力行を捨て、
 他力本願を選択する」

法然上人は、この「菩提心」を
自力行として無視したものだとして、
持戒僧明恵は激怒した。

これを皮切りに反論書が
次々出されたが、
擁護する書も後を絶たず、
激しい応酬となった。
当時の仏教界は『選択集』を
中心に動いていた。



親鸞聖人時代を生きた人々(70)(明恵 浄土仏教を徹底非難)

2010年08月27日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(70)(明恵 浄土仏教を徹底非難)

明恵の釈迦への異常な思慕、
華厳思想の主体とされる
海印三昧
(一切の事物が映し出される、
 静かに動じない仏の心)
への執注など、
終生厳しい修行を続けたことでも
知られている。

その当時、明恵と並べられて
一代の聖僧と評されてしたのが
法然上人である。
法然上人は13歳で比叡山に入られ、
厳しい修行を重ねたが、
自力仏教では助からんことを知らされ、
43歳で浄土宗を立てられた。
しかし、親鸞聖人には肉食妻帯を
許されながら、御自身は
一生不犯を貫かれたのである。

法然上人のご布教により、
浄土仏教が盛んになってゆくと
当時の仏教界を代表して
明恵も親しくつき合っていた
法相宗の僧、解脱貞慶は
時の天皇に九項目に亘って、
法然上人らに対する
公然たる非難攻撃を
提出している。

これが世に有名な、
「南都の奏状文」
と言われているものだ。

1:わが国にはすでに仏教の宗派が八宗も
  あるのだから、新たに浄土宗なるものを
  立てる必要は全くないのである。
  それなのに法然らは天皇の許可も得ずに
  一宗を名乗っているのは僣越至極のことである。

2:法然らは阿弥陀仏の救いの光明が
  専修念仏者のみを照らし、他の仏教者には
  それて全く当たっていない絵図をわざと描き、
  それをもてはやしているのは大変怪しからぬことである。

3:法然らは阿弥陀仏だけを信じて供養し、
  仏教徒にとって最も大切な釈迦牟尼仏を軽んじて
  礼拝供養しないのは本末顛倒も甚だしい。

4:法然らは他宗を誹謗して、仏像を造ったり
  寺や塔を造るという善行をやっている者たちを、
  あざけり謗っていることは言語道断の振舞と
  言わねばならぬ。

5:日本では古来仏教と神道とは堅く結びついている。
  だからこそ伝教や弘法のような高僧たちも、
  みな神々をあがめ尊んできたのである。
  それにもかかわらず法然らは、
  「若し神を拝めば必ず地獄に堕ちるぞ」
  と言いふらし世人を迷わせている。
  若し法然らの言が正しければ、
  伝教や弘法は地獄に堕ちていることになる。
  法然は伝教や弘法達より偉いとでも
  思っているのだろうか。
  このような暴挙は即刻禁止させないと
  大変なことになる。

7:念仏というのは本来、
  「阿弥陀仏のことを心の中で念じる」ことなのに
  法然らは称えさえすればよいと思って、
  口で称えることを念仏だと教えている。
  とんでもない仏教の曲解である。

8:彼らは、
  「囲碁や双六、女犯や肉食、何をやってもかまわぬ」
  といって、仏法の戒律を軽蔑している。その上、
  「末法の今日、戒律を守る人間なんて
   街の中に虎がいるようなものだ」
  と暴言し、尊い仏法を破壊している。

9:仏法と王法とは丁度、肉体と心の関係で
  完全に一致すべきであるのに、
  念仏者たちは他の諸宗と敵対し我々と
  協力しようとはしない。
  このような排他的独善的な邪宗は一日も早く
  この世から抹殺しなければならない。

そして最後に、
「このたびのように
 全仏教徒が一丸となって
 訴訟するという前代未聞の
 ことを致しますのは、
 事は極めて重大だからであります。
 どうか天皇の御威徳によって
 念仏を禁止し、
 この悪魔の集団を解散し
 法然と、その弟子達を
 処罰して頂きますよう
 興福寺の僧綱大法師などが
 おそれながら申し上げます」
と結んでいる。

以上が、法然上人や親鸞聖人に対する
当時の非難攻撃の要項であった。

2年後の承元元年には
法然上人、親鸞聖人ともに
流罪が決定、浄土仏教は
大きい困難に出会うが、
これに抗して、だんだんと
弥陀の本願が日本全国に
伝えられていく勝縁と
なったのである。