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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(88)(蓮生房物語 母の涙)

2010年09月15日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(88)(蓮生房物語 母の涙)

(とどろき17年2月号)

平敦盛を討ったことを機に、
己の罪深さに驚いた直実は仏門に入り、
法然上人のお弟子となる。
彼が討った敦盛には妻子があり、
不思議な縁でその子は、
法然上人の手によって育てられていた。

京都東山の麓、吉水の草庵には、
法然上人のご説法を聞きに、
老若男女が群参していた。
貴族も侍も、およそ、
当時のすべての身分層が、
同じ空間に座を連ねる。
たぐいまれな光景であった。

ご法話が終わると、
四散していく群衆の中に一人、
境内をキョロキョロと見回す
若い女がいた。玉織である。

視線の先には無邪気に
参詣者と戯れている
法童丸の姿があった。

実は、風のうわさに玉織は、
一条下り松の下に捨てたわが子が、
法然上人に引き取られたことを
耳にしたのである。

法童丸を囲んでいた人の
塊が解けると、玉織は、
そっと、近づいていく。

「坊や、名前は何というの?」

「おいら、法童丸だよ」

「法童丸。いい名前ね」

玉織は、ひざを折り、
法童丸と視線を合わせ、
そっと頭に手を置く。
いつしか、ぎゅうっと、
両の手で抱き締めていた。
涙がほおを伝う。

こぼれ落ちた涙は一粒でも、
そこには再会の喜びと、
子供を捨てた慚愧と、
さまざまな思いがこもっている。
それがわが子のほおを
濡らしたようである。

「おばさん、泣いているの?」

「いいえ大丈夫よ」

そう言い残すと玉織は、
童子から顔を隠すように、
草庵の外に消えていった。

源氏の追っ手の目を忍ぶ玉織は、
粗末な、いおりに仮住まいし、
雨の日も風の日も、
吉水に通い続けた。

わが子に会いたい一心で、
草庵に通い続けていた玉織の心にも、
上人の真実のお言葉は深くしみ込んでいく。

「この世の一切のものは
 続かないのです。
 いずれの日にか衰え、
 いずれの日にか滅ぶのです」

"この世の一切は続かない……"

時雨のそぼ降る通りを、
仮屋へ向かいながら、
彼女はずっと、
上人のお言葉をかみしめていた。
疲弊した体に、
晩秋の雨がたたったのか。
いおりに身を横たえた玉織は、
高熱に伏した。

そして、いつしか夢を見ていた。

"法童丸、法童丸"。

人懐っこい、わが子の面輪が目に浮かび、
それがやがて、敦盛の面影へと変わっていく。

"敦盛様、会いたかった"

昏睡のもやにいざなわれ、
玉織は、かつて合戦の最中、
彼女に会いに来た敦盛の麗姿を
思い出していた。

"敦盛様、どうしてここへ。
 平家ご一門は屋島におられるはずでは。
 もう京は源氏でいっぱいです。
 危険すぎます"
 
白い息を吐きながら、敦盛は、

"そなたに会えると思ったら、
 どんな関所も恐ろしいとは
 思わなんだ。
 最後にそなたに一目会いたかったのだ"。

"敦盛様"

ハッとを覚ました玉織は、
言いようのない寂しさと
むなしさに心を覆われていた。

"もう会えない、この世にいない。
 もう……二度と会えない"


親鸞聖人時代を生きた人々(87)(蓮生房物語 敦盛妻子の仏縁)

2010年09月14日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(87)(蓮生房物語 敦盛妻子の仏縁)

(とどろき17年1月号)

息子と同年の、平敦盛を討ったことを機に、
己の罪深さに驚いた直実は
後生の解決を求め、
京都の法然上人を訪ねた。
弥陀の本願を喜ぶ身となった
直実は直ちに上人のお弟子と
なったのである。

直実に討たれた敦盛には、
京都に妻があった。

貴族の娘で、名を玉織という。

一ノ谷の合戦のあと、
源氏の追及は、玉織にも及んだ。

「それえ、この屋敷の女には
 敦盛の子供がおったはずじゃ。
 探せ、探せ。
 断じて生かしてはならんぞ。
 平家の血は根絶やしにするのじゃ」

怒号が飛び交い、
松明をかざした仮借なき追っ手が迫ると、
取るものも取りあえず、
幼子を抱いて玉織は屋敷を飛び出した。

家人の安否を気にかけながら、
行く当てもなく夜の山中を走り続ける。
だが、足は擦りむけ、
着物は破れ、疲れ果てた玉織は、
やがて一歩も進めなくなった。

「坊や、母はこれ以上
 おまえを守れない。
 許しておくれ。
 このままではいずれ
 追っ手の手にかかり、
 敦盛様の血を引くおまえは、
 決して生かしては
 もらえないだろう。
 不憫じゃが、だれか
 親切な人にもらわれておくれ」
 
別れを余儀なくされた子供の顔を、
脳裏に焼きつけんと
月明かりに照らすと、
安心し切った寝顔は、屈託がない。
涙が頬を伝った。

「どうか如来のご加護を」

松の下に、そっとわが子を置くと、
着物を子にかぶせ、
引き裂かれるような思いを
振り切りながら、闇の中へ消えていった。

翌朝、赤子の泣き声を聞きつけ、
一条下り松の周りには、
人だかりができていた。

「かわいそうにねえ、
 こんなかわいい子を」

「でも、着物をごらんよ。
 きっと身分の高い人の子だよ」

「また、平家の落人の捨て子か。
 かかわりにならんほうが身のためだぞ」

「平家の残党は見つけ次第、
 殺されている。
 わしらの命まで危なくなるぞよ」

「んだ。ほっとくことだな」

村人たちが、口々に語っている。

そこへ、法然上人が
連れの蓮生房と通りかかられた。

「どうしたのだね」

「あっ、法然上人さま。
 実は、平家の落人の子が」
 
上人が、木の元へ視線を向けられると、
腹をすかせているのか、
幼子が、けたたましく
泣き声を上げていた。

「ほう、元気のよい子じゃ。
 かわいそうに、
 だれも引き取る者がないのか。
 ならば、私の草庵で
 育てることにしましょう」

「えっ、上人さまが?」

「ああ、そうじゃ。
 せっかく生まれ難い人間に
 生を受けることができたのだ。
 このまま死なせてなるものか」
 
赤ん坊を抱き上げ、
上人はその場を後にされた。

男の子は法童丸と名づけられ、
お弟子や吉水の草庵を
訪れる参詣者たちに
見守られながら、
スクスクと育っていった。

数年がたったある日のこと。

蓮生房が、庭の落ち葉を掃いていると、
遊びに夢中な法童丸が
ドスンとぶつかってきた。

「こりゃ、法童丸」

しかりつけようとふと
振り返った蓮生に、
射抜かれたような衝撃が走った。

「あ、敦盛殿!」

童子の面影が、
かつてその手にかけた敦盛と
重なったのである。

法童丸は、キョトンとしている。

「えっ?オイラ法童丸だよ」

蓮生房は我に返り、

「ああ、そうだな。
 わしがどうかしていたようだ」。

「変なの」

法童丸は、けげんな顔で見つめている。

「これ法童丸、
 蓮生房の邪魔をしてはいかんぞ」
 
縁側から法然上人が声をかけられる。

「はーい」

無邪気に答えると、
法童丸は風車を回しながら、
走り去っていく。

だが、直実はなお、呆然としていた。

「蓮生房、蓮生房」

法然上人が呼び止められる。

「あっ、お師匠さま」

「どうしたのだ、ボーッとして」

「申し訳ありません。
 あの、お師匠さま。あの子の親は」

「うーむ。私も気にはなっているのだが。
 いまだに、名乗り出るものはないのだ」

「たしか、平家の忘れ形見だったかと」

「そのようじゃ、だからあの子の親も、
 今、生きているのかどうか」

「はあ」

師の言葉にうなずきながら、
蓮生房には一つの予感がよぎっていた

"敦盛殿には、京都に妻子があったという。
 ひょっとしてあの子は……"
 
法童丸と敦盛の顔が、
かわるがわる脳裏に
浮かんでは消えていった。



親鸞聖人時代を生きた人々(86)(蓮生房物語 豪傑の涙)

2010年09月13日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(86)(蓮生房物語 豪傑の涙)

(とどろき16年12月号)

源平の合戦(一ノ谷)で、
息子と同じ16歳の少年を
手にかけたことをきっかけに、
自己の罪深さに驚いた直実は、
京都・吉水で浄土仏教を
説かれる法然上人の高名を聞き、
夜を日に継いで、駆けつけた。
法然上人60歳の御時であった。

「お待たせしました。私が法然です」

威儀を正して待つ直実の前に、
慈悲温光なまなざしの、
上人のお姿が現れた。

「こ、これは、武蔵国の
 熊谷次郎直実と申します。
 突然、押しかけてまいった
 無礼をお許しください」

「おお、武名高い熊谷殿ですな。
 よう参られました」
 
その微笑は、まるで懐かしい人に
対されるかのようである。

「ご高名をお聞きし、
 ぜひ、上人さまに
 お尋ねしたいことがあり、
 参上いたしました」

「ほう、それは、どんな」

「後生、救われる道ただ一つです。
 実は拙者、これまでの戦で、
 数え切れぬほどの命を、
 この手にかけてまいりました。
 こんな者が、今、一息切れたら、
 どうなるのかと案じられてなりません。
 私のような極悪人でも、
 助かる道がありましょうか。
 どうかお教えください」
 
直実は、額を床に擦りつけ、
平伏した。

上人は、じっと、直実を見つめられ、

「熊谷殿、悪を造り続けの人間は、
 命終われば、必ず地獄に堕ちると、
 釈尊は仰せです。
 幾ら武門の習いとはいえ、
 殺生の限りを尽くし、
 造悪の連続のそなたの後生は、
 仏説のとおり、
 必堕無間に間違いありません。
 大宇宙の仏といえど、
 助けることはできぬのじゃ。
 だが、十方の諸仏もあきれて
 逃げたわれら凡夫を、
 本師本仏の阿弥陀如来だけが、
 "われひとり助けん"と
 立ち上がってくだされたのです」。

驚いた直実が顔を上げる。

「本師本仏の阿弥陀如来」

「そうです。あらゆる仏が、
 師匠の仏と仰ぐ、
 最高最尊の仏さまです」

「私のような者でも、
 助かるのでしょうか」

「僧侶も、武士も、商人も、
 弥陀の本願に漏れている人は
 一人もありません。
 罪深く、苦悩の衆生を
 救うために建てられた本願です」

「ど、どうすれば、弥陀の本願に
 救っていただけましょうか。
 何でも致します。
 どんな修行でも、何万遍の念仏でも」

「いやいや、そのような自力の行は
 一切間に合いませぬ。
 すべての人が、どうにもならぬ
 極悪人だからこそ、
 阿弥陀如来は、
 "われを信じよ、必ず、救い摂る"
 と誓っておられるのです。
 よいですか、直実殿。
 いかなる智者も、愚者も、
 弥陀の本願を信ずる一念で
 救われるのです」

「ええ、信ずる一念で」

「この法然が生き証人です。
 十悪の法然、愚痴の塊の、
 助かる縁絶えたこの法然が、
 もったいなくも、
 阿弥陀如来のお目当てじゃった」

感激に震える直実の目からは、
ボタボタと大粒の涙が床に落ちている。
ふと、思い出したように
わきの大刀を差し出し、
スラッと抜いた。

「上人さま、こ、これをごらんください。
 おまえのような極悪人は
 簡単には助からないから、
 手足を切れとおっしゃれば、
 切り落とす覚悟で、
 先ほどから太刀を研いでおりました。
 そ、それなのに、指一本切らず、
 信心一つで救われるとは、
 何という不思議でしょうか」
 
こう言って、直実はよよと上人のひざに、
泣き崩れた。

悪に強い人は善にも強い。

かくて法然上人のお弟子となった直実は、
立ちどころに弥陀の本願に救い摂られ、
蓮生房と生まれ変わったのである。


親鸞聖人時代を生きた人々(85)(蓮生房物語 法然上人との邂逅)

2010年09月12日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(85)(蓮生房物語 法然上人との邂逅)

(とどろき16年11月号より)

義経率いる源氏の軍は、一ノ谷で平家を破った。
だが、直実は、己の手にかけた平敦盛が、
息子と同じ、わずか16歳で
あったことに愕然とする。
罪深さに驚いた直実は、
単身、京都へ向かった。
智恵第一とうたわれていた
法然上人の御名を知ったからである。

「殺生の限りを尽くしてきたおれだ。
 後生は、一体おれの後生はどうなるのだ」
 
義経の軍を離れた直実は、
月明かりを頼りに、
一路、京へ向かう。
だが、心は暗い。
夜を日に継いで、馬を走らせた。

法然上人は、この暗い心を
救ってくださるだろうか。
不安と期待が交錯する。

今まで闇を恐れたことなどない豪傑も、
今宵ばかりは、言いようのない
心細さを感じていた。
永遠にこの夜が明けないのでは
ないかとさえ思われる。

ただ一筋の希望を法然上人に託し、
直実は走り続けた。
京に着いたころには、
夜が白々と明け始めていた。
高台に立った直実は、
朝もやに包まれる京の町を
眼下に眺める。

「この町のどこかに、
 法然上人がおられるのだ」
 
かすかな希望が込み上げた。
通りに出ると、向こうから
かごに野菜を入れた農家の娘が
二人、歩いてきた。

「あ、ちょっと尋ねたいのじゃが、
 法然上人のおられる吉水は、
 どこにあるか知らぬか」

「ああ、法然上人の所なら、
 よう知っとる。
 ご法話の日には、
 大勢の人が集まってるもんね」
 
一緒にいた娘も相槌を打ち、

「そりゃもう、人があふれて
 入り切れないほどだもの」。

「ほう、そんなにか。
 して、どこにあるのじゃ」
 
娘の一人が指で指し、

「あの東山の辺りですよ」。

「そうか、かたじけない」

答えると直実は、直ちに、
東方に向かって馬を走らせた。

通りを抜けると、
目やがて山門が見えてきた。
一呼吸置き、門前から大声で叫ぶ。

「お頼み申す!
 武蔵国の熊谷次郎直実と申す者。
 法然上人にお会いしたく、
 お取り次ぎ願いたい」
 
お弟子の一人が
「何事か」
とばかりに現れ、
直実は草庵に通された。

「突然、押しかけてきてかたじけない」

「熊谷殿とおっしゃるのですね、
 ここでしばらくお待ちください」
 
そう言って取り次ぎの者が
退出しようとすると、直実は、

「あ、ちょっと頼みがあるのじゃが、
 たらいに水をくんできていただけませぬか」

と呼び止める。

「たらいに、水ですか。分かりました」

ややあって、半分ほどに水をたたえた、
たらいが運ばれてくると、
直実は持参の砥石を取り出し、
自らの刀を研ぎ始めた。

ただごとならぬ、
その様子を見たお弟子たちは、
法然上人のお命を狙いに来た
比叡山か興福寺の回し者ではないかと考えた。
 
慌てて、師のもとに駆けつけ、
そのことを告げた。

「わざわざ会いたいと来られた人から
 逃げることもありません。
 さ、どきなさい」
 
お弟子の制止を振り切り、
直実の待つ部屋へと向かわれる。

直実は、座敷の後方に、
目を閉じて端座している。
やがて、障子がスーッと開いた。

「よく来られました。私が法然です」



親鸞聖人時代を生きた人々(84)(蓮生房物語 敦盛の最期2)

2010年09月11日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(84)(蓮生房物語 敦盛の最期2)

(とどろき16年10月号より)

都落ちした平家を、
義経率いる源氏の軍が
一ノ谷で破っただが、
直実は、合戦で手にかけた平敦盛が、
息子と同じ、わずか16歳で
あったことを知り、愕然とする。

「十六歳……」

直実は自らあやめた若武者が、
息子と同い年であったことに、
激しく動揺した。

「親が知れば、どれほど悲しむだろう」

ガックリとひざを突き、
言いようのない後悔の念に襲われる。

「あたらツボミを、須磨の嵐に散らしたものか……」

やがて、日が沈んだ浜辺では、
平氏を壊走させた源氏の武将たちが、
薪に火をかけ、祝杯を挙げ始めた。
火の粉が舞い、勝利の美酒に酔いしれる。

だが直実は一人、岩陰でうなだれていた。
いぶかった仲間の一人が近づいてくる。

「どうした、熊谷。一杯飲まんか」

徳利と杯を、差し出すが、
直実は、うつむいたまま、

「幾ら戦とはいえ」。

荒武者とも思えぬ力ない声で、つぶやく。

「エッ?」

仲間の武士が聞き返すと、

「なあ、そうではないか。
 殺生の限りを尽くしたおれだ。
 後生は……一体、おれの後生は、
 どうなるのだ」

突然、仲間を見上げて、問い詰めた。

「おいおい、坊主みたいなことを
 言いだして、どうした」

「坊主……、おい、そなただれか
 有名な坊さんを、知らんか」
 
直実の語勢に気押され、
男は、はて、と考え込み、

「そうだな……、京にいた時、
 智恵第一は法然上人と、
 聞いたことがあったなア」。

「法然上人……、京におられるのか」

「たしか、そうだ。……オイオイ、
 平家追討は、まだこれからだぞ。
 しっかりせい」
 
仲間のいさめも、もはや耳に入らない。
スクッと立ち上がると、

「すまんが、おれは、
 これから京へ行く!」。
 
言うが早いか、馬をつないである松林に
向かって歩いている。

「平家追討は、どうするのだ」

「おれがいなくても、
 弁慶や義経殿がおられる。
 ここまで来れば、大事はない。
 おれの一大事は、
 この真っ暗がりの後生の解決だ」
 
背を向けたまま肩越しに答えると、
馬のナワをほどき、ヒラリ、またがった。

「じゃあ、義経殿らによろしくな」

言い残して直実は、馬の腹をポンとけり、
月光に照らされた道を、走りだした。

「あっ、次郎、熊谷、おーい。おーい」

必死に呼びとめるが、その姿は、
瞬く間に小さくなり、
やがて夜の中に溶けていく。

「あいつ、本当に行っちまいやがった」

男は呆然と、直実が消え去った闇を見つめていた。




親鸞聖人時代を生きた人々(83)(蓮生房物語 敦盛の最期)

2010年09月10日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(83)(蓮生房物語 敦盛の最期)

(とどろき16年9月号より)

都を落ち、一ノ谷に陣をしく平家を、
義経率いる源氏の軍が追撃した。
意表を突かれ、後方の断崖絶壁から
後陣を崩された平家一門は、
船をこぎ、沖へと落ち延びる。

軍功を立てようと、波打ち際を馬を
駆っていた直実は、
ひときわ立派な鎧かぶとの武将を見つけた。

「あいや、そこに行くは
平家の大将と見受けたり。
 敵に後ろを見せるとは卑怯千万。
 われこそは坂東一の剛の者、
 熊谷次郎直実なり。
 いざ尋常に勝負せよ」

声を聞いたか、クルリと向きを変えた
平家の武将は、刀を抜いて、直実に迫った。
二人の間に閃光がひらめく。

だが、相手が悪かった。
力の差は歴然、二、三、太刀を交わすと、
たちまち直実に組み伏せられてしまった。

「どんなツラ構えだ。見せてみろ」

力ずくでかぶとを引きはがすと、
そこには、予想だにしなかった
美少年の顔が現れた。

「何だ。まだ子供ではないか」

顔には薄化粧。かぶとからは
香のにおいが漂っていた。

「あっぱれ、死を覚悟しての出陣か」

驚く直実に、若い武将は、

「戦で死ぬは武士の本望。
 さあ、早く首を取って手柄とせよ」。
 
毅然と答える。

「若武者ながら、あっぱれなやつ。
 せめて名前だけでも聞かせえー」

「おれを知らんとは、
 きさま、余程の間抜けだな。
 この首を、味方の者に見せて聞け」
 
敵に促されるも直実は、
何とかこの若い命を助けたい。
しかし、味方の軍勢はすぐそばで、

「直実、早く討て」

と叫んでいる。

沖の平氏の軍船からも、
舟端をたたいて、

「いっそ早く」

の声が飛ぶ。
もはや、いかんともしがたい。

「どうせ、味方の手にかかるなら、
 せめてわしの手で、ええい、
 これも戦のならい、許せ」
 
白刃がキラリ一閃、弧を描いた。
鈍い音とともに、
力を失った体が馬上を滑り、
海中に沈む。鮮血が飛び散り、
水面が朱に染まった。
あるじを失った馬を
呆然と見つめる直実は、
熱病患者のように肩で息をしている。

味方の勝ちどきを聞き、
我に返った直実は、
若者の腰に、笛が差してあるのを見た。

「なんと、ゆうべの笛は、
 この若武者であったか」
 
重い足取りで浜辺まで引き返すと、
熊谷は、右手で首を高く掲げ、叫ぶ。

「だれかー、この者の名を知らぬか」

味方の軍勢にどよめきが起きた。

「平敦盛ではないか」

将の一人が答える。

「何っ、敦盛、幾つだ」

「十五、六のはずだ」

直実の顔色が変わる。

「息子・小次郎と同じ年頃か……。
 あたらツボミを、あたらツボミを、
 須磨の嵐に散らしたものか」
 
直実はその場にガックリと崩れ落ちた。



親鸞聖人時代を生きた人々(82)(蓮生房物語 一ノ谷の合戦)

2010年09月09日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(82)(蓮生房物語 一ノ谷の合戦)

(とどろき16年8月号より)

「それええ!平家の者は一人も逃がすな!
 頼政殿の無念を晴らすのじゃ」
 
治承四年(1180年)、伊豆に流されていた
源頼朝が、平家打倒の兵を挙げた。
武蔵国の熊谷直実も、息子・小次郎とともに、
頼朝について出陣する。

直実は常に源氏の先頭に立って戦い、
抜群の手柄をあげていく。
諸将の加勢もあり、頼朝は東国に、
着実に確固たる地盤を築いていった。

翌年、平家の総帥であった清盛が、
熱病にうなされながら世を去ると、
一門は、坂を転がるように、
衰退していった。

「おごれる人も久しからず」

平家の時代は終わろうとしていた。

源氏に攻め寄せられた平氏一族は
都を捨て、西海へと落ち延びていく。
頼朝は追撃の手を緩めなかった。
総大将は弟・義経。直実もそれに従った。

須磨の海岸沿い、一ノ谷(兵庫県)に
陣を敷く平氏は、断崖絶壁の山を背に、
海の守りを固めている。

義経は無防備な背後から迫った。
夜陰に乗じ、断崖絶壁から
平家の陣を見下ろす義経は、
家臣たちに告げる。

「夜明けを待って、この断崖を下り、
 敵の不意を突くぞ。
 絶壁とはいえふだんはシカが通うという。
 馬が下りられぬはずがない」

それを聞いた直実は、小次郎を連れ、一団を離れた。

「父上、どうしたのですか。
 なぜ、義経さまの元を離れるのですか」

「小次郎よ。崖を下りたのでは、
 だれが先陣の功をあげたか
 分からぬではないか。
 ワシらは西の手から攻めて、
 一番乗りを告げるぞ」

夜明けを待つ直実と小次郎。
その時、どこからともなく
笛の音が夜風に乗ってきた。

「父上、笛の音が」

「うむ。こんな戦場で一体だれが……。
 それにしても美しい音色だ」

夜が明けた。
熊谷は、平家の陣に向かって
ときの声をあげた。

「われこそは、武蔵国の熊谷次郎直実ぞ。
 さあ、わが自慢の弓矢を受けてみよ」

いっぱいに引き絞った弓を直実は放った。
同じころ、岸壁の上から義経がときの声をあげる。

「今だ。皆の者、われに続けよ」

 馬群が、絶壁を駆け下り、
平家の後陣を崩す。
かの有名な鵯越の坂落としである。
完全に意表を突かれた平氏たちは、
ほうほうのていで、船に乗り込み、
水平線へと逃げていった。

「うぬ、平家が海へと逃げていく。
 一世一代の戦い、
 何とか大きな手柄を立てたいものよ」
 
弓矢を受け負傷した小次郎を残し、
波打ち際を進んでいた直実は、
馬を沖へと駆る。
その目に一人の武将が映った。

「ひときわ立派なよろい、
 さぞ名のある大将に違いない」
 
直実はその背に向かって叫ぶ。

「やあ、やあ、われこそは
 坂東の荒武者、熊谷次郎直実なるぞ。
 敵に後ろを見せるとは卑怯千万、
 いざ、尋常に勝負せよ」
 
声を聞いたか、武将は、
馬首一転、猛然と直実に迫った。



親鸞聖人時代を生きた人々(81)(熊谷治郎直実の武将としての半生)

2010年09月08日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(81)(熊谷治郎直実の武将としての半生)

永治元年2月15日(1141年3月24日)、
武蔵国大里郡熊谷郷(現:埼玉県熊谷市)
で生まれる。
弓矢丸と言う幼名であった。

二歳の時に父が亡くなり母方の弟、
叔父の久下直光(くげ なおみつ)に育てられる。
その環境にもめげずに勉学に熱中し、
その事が成人してからの直実の
人間性に大きな影響を与える。

また,弓や馬の武術にも暗くなるまで励み,
荒川での水泳や河原での
大きな石を持ち運ぶなど、
身体をも鍛えた。

亡き父に負けないような
立派な強い武士になろうと
武芸の道にも励んだ。

弓矢丸が十五歳の頃、
久寿二年(1155年)に叔父の直光に
元服の儀式を受け,
名前を熊谷次郎直実と名乗った。

直実が元服をした翌年の保元元年(1156)に
保元の乱が起こり,
源義朝の家来として,
初めて戦場で初陣を飾った。

平治元年(1119)、平治の乱が起きる。
この戦は,義朝が平清盛を討とうとした乱で,
直実は騎乗から勇ましく戦ったが
源氏が敗れる。

後二十年間は平氏の全盛期時代になり,
平清盛は武家として初めての太政大臣となる。

嘉応元年(1169)叔父の直光が、
諸国の武将が三年交代で上京し
皇居(御所)の護衛や京都の都の警備につく,
地方武将の勤めで,
格式の高い役目である大番役を
自分の代わりに直実その職を譲る。

しかし、賀茂の河原で行われた
相撲大会で直実が優勝すると、
敵方である平家の平知盛に気に入られ,
平家の家来となる。

それを知った叔父、直光は勘当し
源氏からも追放され,
直実は知盛に仕えることとなる。

治承四年(1180年)源頼朝は
平家打倒と兵を挙げるが,
石橋山(神奈川県小田原市)で
平氏の大軍にかかり,惨敗。
その時直実は平家方について戦っていた。

この戦いに負けた頼朝は
山の洞穴に隠れていたのを直実が見つけ,
逃がすか,捕らえるのか悩んだ末,
自分にも源氏の血が流れていると考え,
頼朝を無事平家から救い出す。

命を助けられた頼朝は
直実の源氏追放や勘当を解き,
関東一体の源氏の勢力を
鎌倉に集結した時には
直実も頼朝に忠誠を誓い,
再び源氏の家来になった。

寿永三年(1184年)、
頼朝が平家と木曾義仲を討つ
宇治川の戦いが起こると、
その勢いで一ノ谷の合戦へと突入する。

この戦いで敦盛との運命の出会いがあり、
彼の生涯を大転換させることになる。



親鸞聖人時代を生きた人々(80)(熊谷治郎直実と平敦盛)

2010年09月07日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(80)(熊谷治郎直実と平敦盛)


平敦盛(1169~1184)
平清盛の弟平経盛の子で、
従五位に叙せられたが、
官職が無かったので
世に無官の大夫と言われ
平家一門が源氏に追われた一の谷合戦で、
源氏方の熊谷次郎直実に討たれ
哀れ短き生涯を終えた。

1184年(元暦元年)
寿永3年2月鵯越え(ヒヨドリゴエ)の坂落としにより、
平家方が惨敗を喫し、
海岸へと味方の船を求め殺到した。

武将平敦盛は退却の際に愛用の漢竹の横笛
青葉の笛・小枝を持ち出し忘れ、
これを取りに戻ったため
退却船に乗り遅れてしまう。

敦盛は出船しはじめた退却船を目指し
渚に馬を飛ばす。
退却船も気付いて
岸へ船を戻そうとするが
逆風で思うように船体を寄せられない。

敦盛自身も荒れた波しぶきに
手こずり馬を上手く捌けずにいた。

そこに源氏方の武将
熊谷次郎直実(熊谷直実)が通りがかり、
格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、
平家の有力武将であろうと
踏んで一騎打を挑む。

「後ろを見せるとは卑怯なり、返せ、返せ」
と呼んだところ、
若武者は馬を戻した。

二人は一騎討ちとなり、
共に馬から落ちて組み合いとなった。
しかし悲しいかな実戦経験の差、
百戦錬磨の直実に一騎打ちで
かなうはずもなく、
敦盛はほどなく捕らえられてしまう。

直実がいざ頸を討とうと
組み伏せたその顔をよく見ると、
元服間もない紅顔の若武者。

あまりに美しいので、名前を尋ねると、
自らは名乗らず、直実に名乗らせた。

その名前を聞いて

「良き名前なり、我が名は誰かに
聞けば知っている者もあろう」

と言って、首を差しだした。
数え年16歳の平敦盛は
直実の子熊谷小次郎と
くしくも同じ歳であった。
一ノ谷合戦で共に参戦した、
我が嫡男の面影を重ね合わせ、
また将来ある若武者を
討つのを惜しんでためらった。
この貴公子を助けたいと思った。
しかし、周りの状況は許さなかった。

「次郎(直実)に二心あり。
 次郎もろとも討ち取らむ」

との声が上がり始めたため、
直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。

その時に、若武者の腰の笛に気づいた。
その戦の朝、陣中で聞いた美しい笛の音色は、
この若武者のものであったのかと思いいたった。

このことから、直実は、
殺し合わねばならない戦の世に無常を感じ、
出家を決意することになる。。
この笛が小枝の笛と呼ばれる
通称青葉の笛である。

この熊谷直実と平敦盛は
敦盛の死後も数奇な運命を
たどることになる。






親鸞聖人時代を生きた人々(79)(西仏房覚明、平家物語の作者といわれる)

2010年09月06日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(79)(西仏房覚明、平家物語の作者といわれる)

覚明が公家や武家の内情を
良く知っていることや、
巧みな文章から『平家物語』の作者と
いうものもいる。

『平家物語』「願書」によると、
覚明は勧学院で儒学を学び
蔵人などを務めたが、
発意あって出家し、
最乗房信救と名乗った。
最初は比叡山に入り、
南都にも行き来していたという。

治承4年(1180年)の
以仁王の挙兵に際し、
以仁王の令旨によって
南都寺社勢力に決起を促されると、
覚明は令旨に対する南都の返書を執筆し、
文中で平清盛に対し

「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」」

と激しく罵倒して
清盛を激怒させた。
平氏政権によって身柄の探索を
受けた覚明は北国へ逃れ、
その過程で源義仲の右筆となっ
て大夫房覚明と名乗る。
その後義仲の上洛に同道し、
比叡山との交渉で牒状を
執筆するなどして活躍した。

文学的才能に長け、
箱根神社の縁起を起草し、
『和漢朗詠集私注』を著している。
『沙石集』では覚明について、
その文才と舌鋒鋭さによって
各所で筆禍事件を起こしている
様子が記されている。

『平家物語』に覚明著とされる願文などが
複数収められている事から、
物語成立への関与も指摘

しかし、これはまだ真偽が
ハッキリしていない。