親鸞聖人時代を生きた人々(88)(蓮生房物語 母の涙)
(とどろき17年2月号)
平敦盛を討ったことを機に、
己の罪深さに驚いた直実は仏門に入り、
法然上人のお弟子となる。
彼が討った敦盛には妻子があり、
不思議な縁でその子は、
法然上人の手によって育てられていた。
京都東山の麓、吉水の草庵には、
法然上人のご説法を聞きに、
老若男女が群参していた。
貴族も侍も、およそ、
当時のすべての身分層が、
同じ空間に座を連ねる。
たぐいまれな光景であった。
ご法話が終わると、
四散していく群衆の中に一人、
境内をキョロキョロと見回す
若い女がいた。玉織である。
視線の先には無邪気に
参詣者と戯れている
法童丸の姿があった。
実は、風のうわさに玉織は、
一条下り松の下に捨てたわが子が、
法然上人に引き取られたことを
耳にしたのである。
法童丸を囲んでいた人の
塊が解けると、玉織は、
そっと、近づいていく。
「坊や、名前は何というの?」
「おいら、法童丸だよ」
「法童丸。いい名前ね」
玉織は、ひざを折り、
法童丸と視線を合わせ、
そっと頭に手を置く。
いつしか、ぎゅうっと、
両の手で抱き締めていた。
涙がほおを伝う。
こぼれ落ちた涙は一粒でも、
そこには再会の喜びと、
子供を捨てた慚愧と、
さまざまな思いがこもっている。
それがわが子のほおを
濡らしたようである。
「おばさん、泣いているの?」
「いいえ大丈夫よ」
そう言い残すと玉織は、
童子から顔を隠すように、
草庵の外に消えていった。
源氏の追っ手の目を忍ぶ玉織は、
粗末な、いおりに仮住まいし、
雨の日も風の日も、
吉水に通い続けた。
わが子に会いたい一心で、
草庵に通い続けていた玉織の心にも、
上人の真実のお言葉は深くしみ込んでいく。
「この世の一切のものは
続かないのです。
いずれの日にか衰え、
いずれの日にか滅ぶのです」
"この世の一切は続かない……"
時雨のそぼ降る通りを、
仮屋へ向かいながら、
彼女はずっと、
上人のお言葉をかみしめていた。
疲弊した体に、
晩秋の雨がたたったのか。
いおりに身を横たえた玉織は、
高熱に伏した。
そして、いつしか夢を見ていた。
"法童丸、法童丸"。
人懐っこい、わが子の面輪が目に浮かび、
それがやがて、敦盛の面影へと変わっていく。
"敦盛様、会いたかった"
昏睡のもやにいざなわれ、
玉織は、かつて合戦の最中、
彼女に会いに来た敦盛の麗姿を
思い出していた。
"敦盛様、どうしてここへ。
平家ご一門は屋島におられるはずでは。
もう京は源氏でいっぱいです。
危険すぎます"
白い息を吐きながら、敦盛は、
"そなたに会えると思ったら、
どんな関所も恐ろしいとは
思わなんだ。
最後にそなたに一目会いたかったのだ"。
"敦盛様"
ハッとを覚ました玉織は、
言いようのない寂しさと
むなしさに心を覆われていた。
"もう会えない、この世にいない。
もう……二度と会えない"
(とどろき17年2月号)
平敦盛を討ったことを機に、
己の罪深さに驚いた直実は仏門に入り、
法然上人のお弟子となる。
彼が討った敦盛には妻子があり、
不思議な縁でその子は、
法然上人の手によって育てられていた。
京都東山の麓、吉水の草庵には、
法然上人のご説法を聞きに、
老若男女が群参していた。
貴族も侍も、およそ、
当時のすべての身分層が、
同じ空間に座を連ねる。
たぐいまれな光景であった。
ご法話が終わると、
四散していく群衆の中に一人、
境内をキョロキョロと見回す
若い女がいた。玉織である。
視線の先には無邪気に
参詣者と戯れている
法童丸の姿があった。
実は、風のうわさに玉織は、
一条下り松の下に捨てたわが子が、
法然上人に引き取られたことを
耳にしたのである。
法童丸を囲んでいた人の
塊が解けると、玉織は、
そっと、近づいていく。
「坊や、名前は何というの?」
「おいら、法童丸だよ」
「法童丸。いい名前ね」
玉織は、ひざを折り、
法童丸と視線を合わせ、
そっと頭に手を置く。
いつしか、ぎゅうっと、
両の手で抱き締めていた。
涙がほおを伝う。
こぼれ落ちた涙は一粒でも、
そこには再会の喜びと、
子供を捨てた慚愧と、
さまざまな思いがこもっている。
それがわが子のほおを
濡らしたようである。
「おばさん、泣いているの?」
「いいえ大丈夫よ」
そう言い残すと玉織は、
童子から顔を隠すように、
草庵の外に消えていった。
源氏の追っ手の目を忍ぶ玉織は、
粗末な、いおりに仮住まいし、
雨の日も風の日も、
吉水に通い続けた。
わが子に会いたい一心で、
草庵に通い続けていた玉織の心にも、
上人の真実のお言葉は深くしみ込んでいく。
「この世の一切のものは
続かないのです。
いずれの日にか衰え、
いずれの日にか滅ぶのです」
"この世の一切は続かない……"
時雨のそぼ降る通りを、
仮屋へ向かいながら、
彼女はずっと、
上人のお言葉をかみしめていた。
疲弊した体に、
晩秋の雨がたたったのか。
いおりに身を横たえた玉織は、
高熱に伏した。
そして、いつしか夢を見ていた。
"法童丸、法童丸"。
人懐っこい、わが子の面輪が目に浮かび、
それがやがて、敦盛の面影へと変わっていく。
"敦盛様、会いたかった"
昏睡のもやにいざなわれ、
玉織は、かつて合戦の最中、
彼女に会いに来た敦盛の麗姿を
思い出していた。
"敦盛様、どうしてここへ。
平家ご一門は屋島におられるはずでは。
もう京は源氏でいっぱいです。
危険すぎます"
白い息を吐きながら、敦盛は、
"そなたに会えると思ったら、
どんな関所も恐ろしいとは
思わなんだ。
最後にそなたに一目会いたかったのだ"。
"敦盛様"
ハッとを覚ました玉織は、
言いようのない寂しさと
むなしさに心を覆われていた。
"もう会えない、この世にいない。
もう……二度と会えない"