人には必ず潜在能力があるって言われると、今の自分はこんなんだけれども、もしかしてなどと、なんだか自分自身の可能性を感じて少し高揚するだろう。
最近では潜在能力の事を横文字でポテンシャルなどとつかわれる機会が多い。
聞こえ響きは良いけれども、潜在能力(ポテンシャル)の殆どは、あえてやらない事や、やったことが無い事の中にあるだけ。
極論。もしかして女装したらびっくりする才能があるのかもしれない。
もしかして誰かのモノマネをしたら上手にできるかもしれない。
もしかして坊主にしたら似合うかもしれない。
もしかして楽器を奏でたら巧者なのかもしれない。
ただ興味がないし、やろうとも思わない。興味があっても、面倒でやらない事もあるし、怖くて踏み込めない事もある。金銭的事情でできないこともあったり、何かの障害(事情)があってできない事もある。
人のポテンシャルは無限大だといえば聞こえは良い。でも何らかの理由で、自分からやらない事がただただ多いだけ。
早いようで永かったような、そうでもないような。。。
創作ポエムも後3篇で、400になる。心境を綴った日記のような形でもある。過去の思いが、ポエムを通して読み返せば甦る。
基本的に推敲もあまりする事もなく、思いのたけをそのままに詠む。
そんなこんななポエムを読んでいただきありがとうございます。
皆様の今後の多幸の緒に少しでもなれば、明日の元気の欠片になることができたならば幸いです。
青年期を最後に私は親父に近寄ることは無かった。幼少期の嫌な記憶が常によぎったからだ。
お酒好きで、ギャンブル好きな親父だった。小さい頃はよく、パチンコ屋、飲み屋に連れてかれた。私は小さいから無論楽しめる場所ではなかった。寧ろ居心地の悪い場所だった。パチンコのお金がなくなると、家の生活費をおふくろからよく奪い取っていたのも記憶がある。その頃はひと月何千としかならないような、内職をおふくろがしていたのも覚えている。箸やら灰皿なんかもおふくろに投げつけていた親父の姿も焼き付いている。
そんな親父が親父自身の誕生日に旅立った。あまりにも突然やった。
忌々しい記憶が先行する親父ではあったが、いつか許せる日が来るだろうって思っていた。そんな日が来たら会いに行こうって思っていたのに、何十年会うこともなく、成人になって一緒にお酒を酌み交わした記憶もないまま、無くなった。
ずっと寄ることも無かった親父が暮らしていた家に、葬儀の準備や片付けの為久しぶりに来た。ほとんどが昔のままだ。私が知らない物品は少ししかない。けれど死に化粧した親父の顔は私の記憶している顔ではなかった。
親父の死に悲しむことはないだろうって思っていたのに。なぜだろう、こんなに悲しくなるのは。嫌な記憶が先立つけれども、暖かな記憶が少しはあるからだろうか。
親父のいない親父の家。呼びかけたとしても帰ってくる返事はない。今は箱に入ったまま決して動く事のない親父が、線香の向こう側にいるけれど、やっぱり私の知っている親父はもういないのだ。
ずっと許せずにいたはずなのに、今はもう全てを許しているよ。
苦労は酸素と同じだ。この世界至る所に酸素はある。水の中も、空にも酸素はある。生きていく上で酸素が必要なように、苦労も必要だから充満しているのかもしれない。
羨ましいと感じる人、例えば金持ち。金持ちならではの苦労。華やかな芸能人やトップアスリート、ならではの苦労。美人や、才能溢れる芸術家。苦労を想像してみれば、ならではの苦労に溢れている。
ひきこもり、ニート、不良など世間から避難されがちな人たちにも、想像してみればやっぱり、苦労に溢れている。
どんな立場の人にも、その立場ならではの苦労がある。自分だけではない。
夢を叶えても苦労はある。大気圏内に酸素があるように、生きている限りは苦労、辛苦、辛酸は尽きないのだ。
人の上辺だけしか見ないから、羨望したり、非難したりするけれど、誰しもが苦しみ藻掻いているんだ。
他人を見て心が暗闇にいる時には、その人なりの苦労も想像してみればいい。きっと優しくなれるから。
数十年身体を動かしていないこと、準備運動をしなかった事。などが原因だろう。
自由に足を操り歩けなくなって、膝や足の悪い人の気持ちが痛いほどにわかるようになった。
何事も自分が経験してみないと気持ちはわからない。
階段など段差が高いほどに歩行困難になる。手摺を掴まないといつ、バランスが崩れ落下してしまうかのように恐怖が神経を巡る。
経験して初めて知った事だ。完治しない今や、歩行スピードは膝の悪い初老の母と同じだ。
痛みは辛い。できることであれば、こんな状態になどなりたくはなかった。けれど悲惨の経験を重ねて、人は本当の優しさを知るのであろう。
もしも時間を止めたり再作動させたりが自由にできたら。タイムトリップや瞬間移動よりも実現の薄い話ではあるが。
もしもそのような事ができたとしたならば、自分だけ時が進むわけだから、再び時を動かした時には、止めた時の長さは体感でしかわからないわけだから、浦島太郎のように老衰しているかもしれない。
また時を止めて全ては停止しているわけだから、綿などフワフワしたものや、何もかもが総てが鉄のように硬くなったりしているだろう。
時が止まっている間は木々の活動も止まり、空気が停止してる間に段々となくなっていくのかもしれない。
そう考えてもリスクが大き過ぎてあり得ないもしもの世界だ。
私の詩の一遍に「今どこかで涙を堪えているあなたに」がある。
この詩を読んだきっかけは、ハテナやOKウェブなどの類の、ネット上にアップされていた見知らぬ誰か叫びを目にしたからだった。
具体的な内容は記憶力に乏しく恥ずかしながら、覚えていない。
昔よくドラマや映画に、小瓶に入れた手紙を海に流しすような物語があった。そんな感覚で私が見たネット上の叫びと同じ想いを感じる人へ向けて詠んだ。
恐らく実際にその投稿をした人は、私のしがないブログまでは辿り着いていないだろう。
結果のない実行は、ただの自己満足だ。悲しい時に流す涙は心の負担を軽くする。
涙を堪えている時に詠んでもらえることを末筆ながら望みます。涙のスイッチの一助として。
他人を優先して物事を考慮できる人は、世の中にどれほどいるのだろうか。
日常の小さなイライラは、自分のペースを他人に乱されるといった自分本位な事が多い。
自分のペースで行動する事は、他人のペースも乱すことになる。けれど自己本位の人は、他人のペースを乱していようとも気にしない。
少しだけなのに、人の迷惑にならないように心を配って行動している人は、他人のルール違反にイライラする。自分はちゃんと守っているのにと、恩着せがましく思うからだ。
聖人のような人間になりたいと憧れを抱くことがある。聖人は他人の為に生きているわけでもなく、他人を優先して生きているわけでもない。けれど、自己本位でもない。
他人の行動を予見する事を含めて、自分のペースにしていく事。周りの人の行いを総て赦す事、言葉にすることは簡単だか難しい。
記憶力、人の名前が覚えづらかったり、暗記がなかなか思うようにはいかなかったりするけれど、人の記憶はコンピューターのそれを超えている。
テレビの再放送や最近流行りのネットTVで昔見た番組を見た時、内容はさておき、見たか見てないかの判別ができる。
覚えようとしてなくて、何気に聞いていた曲のメロディーがあるていどわかったり。
昨日食べたものが朧気であっても、初めてある食材を食べた時の記憶や、食べたことがあるかないか判別できる。
記憶が何十階建てのマンションのようだ。普段最上階に暮らしていても、一階にずっと眠っていた記憶も、何かのきっかけで思い出すこともできる。
〈2016/10/13追記〉
一方では、繰り返し見た夢やそうであったら良かったのにという思念が強ければ、恰も体験したかの様に記憶を塗り替える事もある。同じ体験を一緒にしていたのに記憶が一致しないのは、いずれかもしくは双方の記憶の塗り替えがあるからだ。
誰の迷惑をかけることもなく、自由に記憶の塗替えをコントロールできたなら、それはそれで良いのかも知れない。都合良くはいかないのが現実ではあるが。
勉学で使われる記憶と日常の生活の中の記憶。前者は差異がはっきりしているが、後者はあまり無いような気がする。前述していた事は後者の生活の中の記憶力ではある。
ポエム「私の悲鳴」に私なんかという想いを書いた。
人の迷惑にならないようにが先行して、気づかない間に迷惑をかけたことは別にして、人に接してきた。
人に迷惑をかけられたり、かけたりが人間関係の深みをつくる。だから私の周りには親しい友人はいない。誘ったら迷惑になると過剰に心配したりして。
迷惑という熟語は迷わせ惑わせるだ。言わば心配に近い。迷惑という熟語はそれ以外にも、ルール違反の騒音などもあるけれど、ここで言う迷惑にはその意味を除く。
よくサプライズに店員にハッピーバースデーを歌いながらおめでとうとケーキを渡してとサービスを求める人がいる。店員の立場ならばまさに迷惑だ。知らない誰かの誕生日など、心からおめでとうなどと祝えない。
ニュースの見知らぬ人の不幸。心から悲しめない。毎日誰か大勢が不幸に遭う。一つ一つ悲しみ悼んでいる事は、四六時中悲しんでいなければならない。不幸でさえ、そうなのに見ず知らずの人の幸福ならば尚更だ。
無駄の駄は荷物を積んだ馬だ。無駄は荷物を積んでいない馬。
手ぶらで馬を歩かせることが勿体無いといった発想だろうか。
無駄を多用する人、無駄なものなどないと主張する人、様々だ。
私は無駄を無駄にするかは本人次第であると思う。
結果的に無駄になったものも、ただ本人が使わなかったなどして無駄にしただけ。
初めから無駄なものなどはない。手にした人が無駄にしただけ。
無駄=必要の無いものという考え方が強い。だがそれでは説明不足だ。
無駄=今は必要無いものがシックリくる。
教科書で習った歴史も、次々と新事実が解明されつつある。
有名なのが、戦国時代の斎藤道三。今までは一代の功績などとされてきたが、実は二代に渡っていたこと。
織田信長の家臣に奴隷として連れて来られたモザンビークの王子がいた事など。
但し、この新事実も真実かどうかなんて、わからない。
真実といえることは、研究者や史家が古文書などの記録、一級資料や二級資料から研究した結果が今万民に知り得る歴史だということ。
古文書が権力者の都合の良い様に書かれて、都合の悪い物は燃やされたりなどして記録に残っていないのかもしれない。
古文書の著者の記憶が曖昧だったり、著者の生きた年代と記録した歴史に隔たりがあり、口伝に脚色があったりするのかもしれない。
また古文書を読解する研究者や史家の解釈が、昔の観念と誤差があったりするのかもしれない。
歴史に限ることではないけれど、真実と思っているものは、専門家の研究の成果ということのみ。
誰かのために何かをしようという心掛けは結局は自分の為にしている事はよくある事。
ただその行為を偽善と呼ぶのは甚だしく異なる。
偽善は善い人に見られたいと思う感情はから取る行為が意味合い的に一番近い気がする。
よくコンビニに設置されている募金箱に私はよく百円未満の些細な小銭を入れる。時々偽善者と蔑視されないか不安で躊躇う事がある。けれど私が小銭を募金するのは、役に立ちたいという思いからではない。単純に財布を小銭で煩わしくしたくないからだ。偽善でなければ善でもない。
誰かのために役に立ちたい。そう思うことは人並みにある。それは私が生きている事に意味付けをしたい欲求からである。これも偽善とは違う。
しかし偽善であっても悪ではないのだから、純真に善の気持ちではなくても、結果的には善であるのだから、偽善を軽視するのは間違いだ。