角田光代 なくしたものたちの国 を読んで

2013.9.8（日）

P190
　忘れないようにしようと、ひとつひとつのものや景色や人に触れてわたしは思う。別の場所で、違う姿で、違うかたちで、違ういのちのありようで出会ったときに、思いだせるように、忘れないようにしよう。愛した人たち、愛したものたち、どうか忘れませんように。
　忘れてもいいのよと、耳元でおだやかな風のようにだれかが言う。そう、その声の主だってわたしは思いだせないのだ。とても近しくて、たのもしい、優しい誰か。忘れてもいいのよ、忘れていたって出会えばまた、どうしたって愛してしまうのだから。いいえ、どうしたって出会ってしまうのだから。



　忘れないでおこうって無理をして、本当の姿を歪めてしまうことがある。でも、忘れてしまうのが怖いって思っていた。だから、大丈夫、心に刻み込まれているものは消えない。一緒に過ごした日々は失われることがないから、一緒に心を育てていったから、不自然なことはしなくていい。そんなふうに自分に言い聞かせていた。信じてはいたけど、言い聞かせなければいけないくらいには不安だった。

　でも、そうだよね。きっとまた出会える。出会ったら愛してしまう。巡り会えるシステムなら絶対にまた出会って愛し合える。そうじゃないのなら消滅するだけだからかまわない。消滅しているのなら、あの子は絶対に不幸になっていない。苦しんでいない。それもまた救いだから。そして、後からいくわたしも、同じ形で救われる。大丈夫なんだ。

　そして、分かった。見ていなくても、雨が降っていても、空に星はある。誰が何をしたって、しなくたって地球は自転を続ける。それと同じ。忘れていたって、わたしの中のバリを愛する気持ちは止まらない。ずっと、当たり前に、わたしの心はバリを愛し続ける。もちろん、星が消滅することはあるんだけど、それはわたしが死ぬときが来るっていうのと同じことだよね。わたしは意識していてもしていなくても、バリの幸せを祈り、バリを愛し、バリといられた日々とバリに感謝をし続けるよ。
　バリ、大好きだよ。バリ、愛してるよ。
　バリのわたしたちへの愛もきっと同じだね。わたしは愛され続けている。