日本仏教史―思想史としてのアプローチ

2006-08-05 | 親鸞
を読む(末木文美士著、新潮文庫)。

本の背表紙に(本書を読むことは)「日本人の思想の核を探る知的興奮に満ちた旅でもある」とあるが、私も興味深く読んだ。明晰判明な論述。大乗仏教の本質といわれる「空」の思想や(天台)本覚思想の説明も非常に明快で、「ふ」に落ちた。こんなにわかりやすくてよいのだろうか、と心配になったほどである。

日本の仏教思想でやはり魅力的なのは、この思想が生きてダイナミックに生成発展していた奈良・平安時代から鎌倉・室町時代まで。この自由な伝統が唐変木・徳川幕府の宗教政策により巨大で融通のきかない枠に嵌められてしまったのは大いに残念。

哲学はあるアイデアのもと主張を立て、それを支持する論証を組み立てる,あるいは,可能な反論からそれをデイフェンスする活動。後者の論証の部分が哲学を特徴づける。仏教はアイデア、つまり思想の提示がエッセンス、論証は無視されるわけではないが、必ずしも不可欠というわけではない。七面倒な論証などさしあたり無視したいという向きには、哲学も仏教思想も同じ「思想」を扱っていることになり、前者に興味あるのなら後者にも興味をもてる、ということになる。ユダヤーキリスト教と異なり、仏教は「標準化」しなかったから、無数の自由な思想が残されている(数万巻!からなる大蔵経、一切経)。

私はずぼら、面倒くさがりだから、証明などどうでもよい、それより結論を知りたいくちである。この点、仏教は魅力的。さまざまな自由なテーゼが立てられ、展開されている。同じ世界についてのテーゼなので、当然のことながら西洋哲学のテーゼとかなり重なる。たとえば、空の思想はヘラクレイトス流の万物流転の思想とかなり重なる(同一のものではないにせよ)。仏教のテーゼには大口のものと小口のものがある。前者は、たとえば大日如来を立て、宇宙のすべてをとらえんとする密教・曼荼羅の思想であり、後者は「仏とは人の心の問題である」ととらえる釈迦以来の(?)思想である。スペースオペラ的な前者も魅力的だが、強い存在論的仮定は飲み込みにくいと考える経験主義者には後者が今日なお受け入れ可能な魅力をもっている。

釈迦からはじまる仏教の巨大な歴史は、ヨーロッパ哲学史に遜色のない偉大な伝統であると感じ入った。葬式仏教に触れていたせいか、学生時代東洋思想を「抹香くさい」などと敬遠していたのが残念。若気の至りであり、強く反省。若い頃、まじめに勉強していたなら、視野が広がっていただろうに、と後悔。しかし、古人曰く(?)、勉強はじめるのに遅いということなし。それを信じることにしよう。

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2 コメント

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失礼致します。 (tenjin95@栗原市)
2006-08-12 20:07:06
> 管理人様



> ユダヤーキリスト教と異なり、仏教は「標準化」しなかったから、無数の自由な思想が残されている(数万巻!からなる大蔵経、一切経)。



まさに、これは仰るとおりです。



ただ、最近そのためか、どんなに新しい思想であっても、「○○期の○○という思想に似ている」という発想・論の展開をする学者さんが多くて困ります。



ちょうど、同じ末木先生が『日本宗教史』(岩波新書)でこういった発想を「見出された古層」と言うことで批判していますが、拙僧も同感です。あまり良い考えだとは言えません。



なるほど、仏教は何かを「発見」したかもしれません。しかし、その後続かなかったのであれば、別の人が「発明」する余地はあったのです。



などと、ちょっと考えてみました。あまり本文に関係なくて、すみません。
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大平野 (azumando)
2006-08-12 20:29:18
釈迦は一つの大きなパラダイムを発見したということでしょう。このパラダイムは,すぐ行き止まりとなるような小さな平野ではなく,なかなか終わりが見えてこない巨大な平野だったと言うことができるかもしれません。釈迦はまた後世の人々に,この大平野を耕す仕事を残してくれた,との言えるかもしれません。釈迦ほどの人の発見ですから,この大平野には,今日なお耕すべき新たな土地があって全然不思議はないと思います。
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