法然の衝撃

2006-08-02 | 親鸞
ー日本仏教のラデイカル,を読む。阿満利麿著,ちくま学芸文庫。

凡夫のための宗教を世界ではじめて持ち込んだ宗教家として法然を解釈,その革命的意義を強調している。この主張にはいまひとつ納得できなかったが,法然と彼の時代を非常にわかりやすく論じた好著だと思った。読みやすさも十分。著者の他の著作も読んでみたいと思った。

法然の「神祇不拝」の主張の意義はよくわかった。日本の神はインドの仏の生まれ変わりであるとする本地垂迹論が普及していた当時,「神を拝む必要はない」という主張は「神仏を拝む必要はない」ことを意味する。阿弥陀仏に帰依しさえすれば成仏には十分という教えが当時の日本社会にあって革命的であったことはよくわかる。世界的に見ても革命的だったと著者は主張しているようだが、このほうはピンとこなかった。(なお,「神祇不拝」と言っても,法然や親鸞は,既存の神仏すべてを文字通り否定する猪武者ではなかった。)

法然は中国の善導を読んで独自の浄土思想に目覚めたとされる。善導について関心が高まったのも個人的には収穫。とくに、善導が「無量寿経」(大経)の中の第18願について、重要な書き換え(明確化、解釈)を行ったことは知らなかったので、それが私には参考になった。

無量寿経では法蔵菩薩(後に成仏し阿弥陀仏となる)の48の願のうちの第18願はもともとつぎのようであった。
「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚 を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。  
 私が仏になるとき、あらゆる人たちが、私の至心をよりどころに、往生まちがいないという思いから、ただ念仏を申す身となるように育てます。それでも私の国に生まれることが出来ないようなら、私はさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の正しいみ教えを謗ったりする人だけは除きます。
http://www.asahi-net.or.jp/~YI9H-URYU/seiten/daiue1-2-hongan12-21.htm

善導は、このうち「至心信楽 欲生我国」と「唯除」以下を削除、「称我名号」を加えて、
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」
<私が仏になるとき、私の名前を唱えるにもかかわらず私の国に生まれることが出来ない人がひとりでもいたならば、私はさとりを開きません>(私訳)
とした。これが今日見る第18願。
法然はここに注目し、専修念仏の教えを開いた、とのこと。

「善導独り仏の正意を明かせり」とまで親鸞に絶賛された善導についてもっと知りたくなり、調べたところ、寺内大吉「立ち止まるな善導―法然・親鸞思想の源流に挑む」(1988年)という本があることを知った。今のところ在庫切れのようなので残念。

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2 コメント

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はじめまして。 (lunatique)
2006-08-04 15:28:37
はじめまして。googleで親鸞関係のブログを検索し、訪問させていただきました。私は今、歴史学の視点からみた親鸞(法然)思想の受容ということをブログに書き綴っています。宗教関係の記事というのは、TBやコメントが難しいのですが、一度アクセスして頂ければ幸いです。
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ありがとうございます (azumando)
2006-08-04 17:19:12
早速訪問させていただきました。興味深いブログですね。後でゆっくり訪問させていただきます。とり急ぎごあいさつまで。
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