法然の衝撃2 メタファーとしての阿弥陀仏

2006-08-04 | 親鸞
「法然の衝撃」から法然仏教の説明を箇条書きしてみる。

法然の仏教:専修念仏
法然以前にも念仏は広く流布していた。
法然が発見したのは、その念仏の背後にある阿弥陀仏の本願という救済原理なのである。
法然が教えたのは、この本願に裏付けられた念仏にほかならない。

本願念仏とは?

「無量寿経」(大経)
法蔵比丘(菩薩):世自在王(当時の仏)のもとで修行
48の誓い:それらがすべてかなわなければ、仏とならない!
結局、仏となり、阿弥陀仏と名乗る。
(ということは,48の願いがすべてかなった。)
今も、西方浄土で説法している。

第18願(本願)
「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

中国の善導は、このうち〈至心信楽欲生我国〉と〈唯除〉以下を減じ、〈称我名号〉を加えて、
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」
とあらためた。すなわち,

「私が仏になるとき、私の名前を唱えるにもかかわらず私の国に生まれることが出来ない人がひとりでもいたならば、私はさとりを開かない」

これに傾倒、専修念仏の教えを開いたのが法然。(この部分,既述)

(以下,私見)
専修念仏によれば、阿弥陀仏の名前さえ唱えれば成仏できる、ことになる。
これを信じることができる?
信じることができるのは、法蔵菩薩が18願を含む48の願をかけ、望みが果たされ、仏となった、という阿弥陀仏の物語を信じることができる場合だけであろう。
この成仏物語を信じることができる?

法蔵菩薩が48個の願をかけた、ということは問題ないだろう(「法蔵菩薩」でなく他の人が願をかけた,でも問題あるまい)。
しかし、それがかなった、ということは何によって保証されるのだろう?
何の保証もないのではないか。

保証はないが、それを受け入れるというのが専修念仏の核心のようだ。キリスト教徒はイエスの復活を信じなければならない。専修念仏も(教義上)それに劣らぬ強い存在論的仮設を受け入れる必要がある。

しかし,受け入れ方にはいろいろあるかもしれない。
端的にそれを受け入れる、という道もあるし、法然上人がそれを受け入れているから、私も受け入れる、という道もある。

阿弥陀仏の物語は事実とは関係ない、それはメタファー(暗喩)なのだ、と受け取る道もある。
何のメタファー?
赤の他人であるはずの人(たとえば私)のことを顧慮してくれる人がこれまで無数いたし、現在もいるし、未来永劫いるだろう、という事実をあらわすメタファー。言い換えれば、自分のことではなく他人の救いに心を砕く心の伝統(大乗仏教!)をあらわすメタファー。そして、この世で最も尊いのはこの心の伝統なのだ、と語るメタファー。

私は、後者の読み方、つまり阿弥陀仏をメタファーとして理解している。これは標準的な読み方と大きく異なることはない、と考えているが、あるいは私の思い違いかもしれない。

*メタファーについては、次がわかりやすい。
「比喩はただの言葉の飾りか?」
(http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/metaphor.htm)

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