2006-04-15 | 親鸞
「親鸞和讃ー信心をうたう」を読み納得がいった,と書いた。
さて,どこに納得したのだろうか。

次は親鸞が曇鸞から学んだ思想の解説。
「彼(曇鸞)は若いとき龍樹の「般若」つまり「空」の考え方を学んだ。真実なるものは,あるとかないとか,是とか非とか,敵とか味方とか,そういう人間的な分別を離れたものが真実の,ありのままの現実のあり方である。人はそのいづれかに固定して考えようとするけれども,本来ありのままの現実は,人の思いを超えたものであり,とらわれのないものである。そういう考え方に根ざしている般若の考え方をもって,曇鸞は経典に向かいました。非常にとらわれのない考えを用いられたわけです。親鸞が曇鸞から学んだのは,浄土とか仏とかを,固定的な実体あるものとは考えないという自由な考え方でした」(p.225)

たとえば次の和讃にも見られるのも,そのような自由な考え方であると著者は読んでいると思う。

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(阿弥陀経1)

著者によれば,摂取不捨がさきにあり,阿弥陀が後にくる点がポイント。
「苦しみ悩んでいた人が,教えを聞いて道理にうなづき,苦しみ悩みがおさまる,救われる。その宗教体験の尽きぬ味わいのゆえに「阿弥陀」と名づけるという。これが阿弥陀さまの言葉の定義なのです」
「人が根本的に救われるのは,道理にうなずいたときです。人が人を救うのではなく,道理が,法が,人を救うのです」(p.143)

この道理,法の名前が阿弥陀仏ということになる。
ここで空の思想にふれた,ような気がしたのかもしれない。

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2 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2006-04-16 12:09:35
> 管理人様



この摂取不捨について、そういえば法然上人が『選択集』にて、選択がまさに接取であると言っていたのを思い出します。ただ選択ということになってしまうと、排除というイメージが伴ってしまいますが、接取ということであれば、救うという絶対者になっていきます。その意味で、この親鸞聖人の御和讃にあらわれる阿弥陀仏のお姿は、確かに尊重すべきものでありますね。
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ありがとうございます (azumando)
2006-04-16 22:22:08
般若の思想をざあーと読んでみました。2元論を排する思想で,「・・はない」に徹しているように読みました。摂取は「・・はある」という肯定形の思想で,これには救いを感じました。
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