●〔番外〕谷沢永一『本は私にすべてのことを教えてくれた』PHP研究所 2004 (2004.02.15読了)
○内容紹介
左翼活動と訣別し、学究生活に入った著者。その時期の友となり、人生の栄養となった数々の本があった。待望の読書自伝。徹底的に、本に彩られた人生。本とは、著者にとって「生涯の師」であり、「終生の友」であった。蒐書六十余年、その数二十万冊以上。この数字は、著者が日本で最も本を愛する読書人であることを明確に示すといって過言ではないであろう。そのような、読書に徹した人生の経過を、思い出の特に深い本の話を枕に描き上げた、感動的な読書自伝である。
谷沢永一には2冊の自伝があります。前半生を描いた『雑書放蕩記』新潮社(1996)と本書です。本書は関西大学の助手になるところから始まります。
谷沢永一は俗世からは距離を置いた書斎人というイメージがありますが、学生時代は日本共産党員として左翼運動に邁進していたことからわかるように、かなり生臭い部分もあります。
以下に本書から学内政治、学界政治について、面白かった部分を抜き出して紹介したいと思います。仇敵は飯田正一教授です(笑)。
昭和三十年十一月十八日、私は関西大学助手の辞令を、学長室に出頭して交付された。うやうやしく頭を下げて引き下がろうとしたら、職員が呼びとめて文学部長室へ出向くようにと言う。厄介なことだと思いながら参上すると、フランス文学科のボスである三木治文学部長がそっくりかえって待っており、それからしつこいお説教がはじまった。(中略)要するに弱い者を呼び出して、ちょっと威張ってみたかったのであろう。そしてこの訓誡の特徴と見るべきは、修身の説法に終始して、研究に精を出せという意味の発言が片鱗もなかったことである。私は軽蔑の表情を露出せぬよう気をつけて引き下がった。(pp.9~10)
助手なんて何の仕事もないのに、自分が谷沢の指導教授になりますと、勝手に名乗り出た飯田正一教授は、週三日出勤せよと言う。雑用に扱き使うためである。(p.12)
ところがここに普通ならありえない厄介な事態が生じた。飯田正一教授という権勢欲の破格に強い最古参の人物が、国文学科を高圧的にひとりで切り廻しはじめたのである。独断で学科の経理すべてを握って自由に支出し、一向に会計報告をしない。また『国文学』の編集を誰にも相談せず好き勝手に進める。同僚が原稿を持ってきても、それによって自分より発表の篇数が上まわると見るや、人を出し抜く身勝手をやめて遠慮しなさい、突き返す。しかし関西大学となんの関係もない自分の懇意な早稲田大学の稲垣達郎には、原稿をいらいして自分の権勢を示す。これでは関西大学の雑誌とはいえない。国文学科の教授たちは憤慨して、事態を修正するよう私に要望した。
もともと経理がどうなっているのかを全く不明のまま、恐らく公私混同で私用にも流れているのであろうと推察されていたが、間もなく遂に破局が来た。当時有名であった伊藤斗福の保全経済会という金融詐欺に、飯田は家計のすべてのみならず、国文学会の資金をも加えて投資し、当然のこと全額を失う破目となったのである。
遅きに失したとはいえ、とにかく飯田の横暴を押さえこまなければならぬ。私は意を決して膝談判に持ち込み、経理と編集のすべてを私に渡すよう迫った。しかし強情な彼は、私が助手の、身分であるのに乗じて開き直り、今まで通りの方式で切り抜けようと強行に突っ撥ねた。そこまで威張るのなら止むを得ない。最後の手で屈服させるしかないであろう。
昔の話である。折しも旧制関西大学予科の、昭和二十三年度入学試験の採点が行われてました。夕刻になったので答案用紙を教授室の隅に置かれた金庫に納める。その頃復員してきたばかりで家のない飯田は、予科学舎の用務員室に住みこむことを許されていた。その夜、飯田は預かっている鍵で金庫を開け、収賄している受験生の答案を引き出して必要な部分を書きこんだ。不幸なことに飯田の筆蹟には鳥の飛んでいるような世にも珍しい特色がある。それゆえに翌朝ただちに広瀬捨三教授に発見され大騒ぎとなった。結着がつくまで数日を要したが、国文学科の金子又兵衛教授が強硬派のひとりひとりを懇切に宥め、こんな不祥事が公開されれば学校の恥となるゆえ、なにとぞ勘弁してやってくれと、情理を尽くして説得を続けたので、飯田は危うく退職を迫られずにすんだ。私は静かに説いてこの一件を思い出させたから、当然のこと飯田は全面降伏し、国文学科の運営ははじめて正常化し明朗になった次第である。(pp.20~21)
〈To be continued.〉