●〔41〕米原万里『不実な美女か貞淑な醜女か』徳間書店 1994 (2006.06.11読了)
米原万里が亡くなりました(5月25日)。自分がガンであることを公表していたので、ついに来たか、という感じでした。
小谷野敦がブログ「猫を償うに猫をもってせよ」で追悼文(?)を書いていました。現在は削除されているようなので、以下に転載します。小谷野敦のブログは楽しみに読んでいるのですが、後から読もうとしても、削除されているものも結構ありますね。
2006-05-30 米原万里蓋棺録
米原万里が56歳で死んだので、最新刊の新書のあとがきを見たら、既に癌が転移したことは分かっていたようだ。
私は最初のエッセイ集『軟弱者の言い分』を出したときに、NHKの「週刊ブックレビュー」で米原さんに好意的に評してもらった。だがその後、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したとき、週刊朝日で、ノンフィクションというよりエッセイ、とやんわり書いた。そのへんは、私は鬼畜生である。
しかし、その最初のエッセイ集『不実な美女か貞淑な醜女か?』が読売文学賞をとった時に、通読はできたけれど、いきなり賞をとるほどのものか? という疑念がかすかにあった。だが帯には、井上ひさしと大江健三郎の絶賛の推薦文があった。のちに、井上の再婚した夫人が米原の妹で、その父が共産党の議員だったと知って、「受賞」の裏を見た気がした。その後の講談社エッセイ賞をとった『魔女の一ダース』は、通読に耐えなかった。義弟の七光りがなければ、知る人ぞ知るエッセイストとしてもっと気持ちよくその死を悼めただろう。
井上ひさしは、日本ペンクラブ会長、選考委員を務める賞は、直木賞、谷崎賞、大仏次郎賞、吉川英治賞、読売文学賞、講談社エッセイ賞、岸田戯曲賞、川端康成賞と、主だったところを押さえており、その数は他の作家の追随を許さない。よく候補作を読む時間があるものだ。毎日芸術賞を受賞した『太鼓たたいて笛吹いて』は、林芙美子像をねじまげた、菊田一夫の霊に謝罪しろと言いたくなるような代物だった。そのくせ天皇に茶会に呼ばれるとほいほい出て行くのである。
ウィキペディアの「米原万里」の項目を見ると、「その後、東京外国語大学ロシア語科に入学して共産党入党。 同大卒業後は東京大学大学院に進学しロシア語・ロシア文学を専攻。大学院在学中に「東大大学院支部伊里一智事件」に連座して党から除籍処分を受けたが、後に復党している。」 とあります。「伊里一智事件」は1985年で、私も週刊誌等で読んだ記憶があります。なるほどそうだったのか、と妙に感慨深くなってしまいました。
〈To be continued.〉